カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
3.26
  • (36)
  • (77)
  • (245)
  • (27)
  • (10)
本棚登録 : 983
レビュー : 107
  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061497887

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • なんとなく違和感を感じていたネタとベタ使い分けがよくわかった。
    けど、実生活でこの違いを見分ける、空気を読むのは難しいと感じた。

  • 著者は若くて割とイケメ…ン?かな。
    若くて学者とかって、ベタながらかっこよく見えてしまうだけですが。

    この本は「かゆいところに手が届く」シリーズの一作目かな!
    私の家からいちばん近いところに住んでる、同級生のことを思い出しました。
    彼はむかしからオタクで、マニアでもあり、2ちゃん語を駆使し、超有名大学に通うまさに絵に描いたような人。
    彼は、カーニヴァルを待ち望んでいます。2ちゃんとか右とかお家に人を呼ぶとか全てで。
    実際、この流れは社会の流れなんだ、ってこの本を読んで感じ取りました。
    彼はlatestなんだな。

  • 東浩紀氏『一般意志2.0』に通ずるところがあり、2012年現在読んでも面白かった。
    結局性質や問題点は変わっていないということですね。

    本書に書かれているテーマが前提として頭に入っていなければ、政治、経済、社会は考えられません。

  • 大学のときに読み残した本を消化しようキャンペーン。

    ハイテンションな自己啓発―遠大な目標としての「やりたいこと」と現状の自己との間で
    躁状態としてのハイテンションな自己啓発とそこから醒めてしまう冷静な鬱状態とが分断されている。

    監視社会化、
    データベース化

    そして

    再帰的な近代

    個々のテーマや視点は割りと面白く感じた。


    以下、気になる点メモ。

    「大きな物語」の欠落→遠大な目標としての「やりたいこと」の設定=自己象の分断
    →宿命論の台頭(社会の進歩としての近代的革命論との対置)=現状の甘受(カーニヴァル化、動物化)

    but

    「社会を変える」「社会に役に立つことをしたい」とする志向が若者世代に増加していることの意味。

    「社会を変える」という「やりたいこと」自体が遠大な目標であり、ハイテンションな自己啓発にいるだけであるか、もしくは若者世代の分断。

    筆者のいう分断=多数の、内的に幸福な、しかし客観的には搾取され、使い捨てられる大衆と、夢からさめているが故に愛的には不幸だが、セーフティネットや社会的資源を活用することのできる少数のエリートへと分極化する可能性を有している。

    ここで考えるべきはエリートの定義。

    高給、めぐまれた労働環境、制度としてのセーフティネットの活用可能性などはエリートの要素として挙げられるが、社会的資源は捉え方により多様化するのでは。


    前述の「社会を変えたい」層にとっての社会的資源は同じ思考の仲間たちのソーシャル・キャピタルであるかもしれない。

    また、データベース化する人間関係という論点からもここにつながりうる。

    ソーシャルグラフをソーシャル・キャピタルに読み替えうる場合が徐々に出てきている中で、
    筆者の議論とのズレも感じる。(5年以上前だしそこは仕方ないかとも)

  • あくまで、「社会学の博士論文」のような内容で、社会学をかじったことのある人には退屈なものだろう。2005年の本なので、僕も2005年に読んでいたら「へぇすげえ」となっていたかもわからん。ベックの議論はそこまで有用かな。当時の流行の議論を知るには良い本。

  • 第1章では就活に顕著な「躁鬱状態」が語られている。
    「自分のやりたいことはこれだ!」という一瞬の躁状態(ハイテンションな自己啓発)と、そんなものは実は存在しないという鬱。
    自分だってそうだった気がする。無理にどこかに自分をねじ込もうとしていた時期もあった。周りでもそうだった。時が来たら直面してしまう躁鬱。ハイテンションな自己啓発は、まさにカーニヴァル。

    第2章では僕の好きなパノプティコンの話から始まり、現代社会の「監視」がパノプティコンのそれと違うということが語られている。即ち、(ここからは僕の解釈、そして僕の感覚)パノプティコンにおける監視は「自分は看守に見られているかもしれない」という理由から罪人が脱走を図れないという種類のものであったのに対し、現代における監視はAmazonで自分の好きなジャンルの本が勝手に出てくるような、データベースによるものであり、そこと人々が対話をするという種類のものであるという。人々はデータベースに現れた自分のようなものを「自分」と定義付け、そこに自分を見る。
    少し話が脇道にそれるが、村上春樹の『鏡』という短編小説を僕はここで思い出す。この小説の中では、主人公が鏡と向かい合い、鏡があたかも本当の「自分」で、本来の自分が鏡の中の「自分」に動かされているような錯覚を受けるという話なのだ。まさにそういう感覚が、そしてその鏡の「自分」になろうとする衝動をこれまた「ハイテンション状態」と作者は定義づける。

    第3章では、個人が社会性を失う様を論じる。本来、人間は社会の中で自分を客観視しながら「自分」を確立していくものであったのだが、社会を分断してしまい、自分を社会の中に若者が位置付けなくなったと。
    具体例で言えば携帯のアドレス帳でありSNSの友人リスト。これは社会そのものではなく、その社会と「繋がりうる可能性」の過ぎない。
    社会との分断。まさにそうである。

    第4章では、第1~3章の論をまとめて「カーニヴァル化する社会」とはなんぞやというところを論じる。


    非常に読みやすい、それでいて僕の頭が弱いのかところどころ読みづらい本であった。最初の就活の下りやデータベースとの会話はものすごくよく理解できた。まさに自分に起こっている状況であったから。しかし第3章からjひっかかってきた。

    結局浅く言えば、「リアルなコミュニケーションをしなくてもネットやケータイを通して『繋がる』ことができるようになった若者は、自分というものを探しながら躁鬱状態を繰り返している。自分という人間が起こす現象や自分という人間に起こる感情に非常にヴィヴィッドになり、躁鬱を繰り返す。
    そんな若者の感情の向かう先にW杯があり、いわゆるネット上の『祭り』がある。そんな『祭り』起こす若者たちは内面的には幸せだが外面的には搾取される対象である、これからどんどん二極化が進んて行く」
    というような論調だったと思う(僕が間違っていなければ)。

    結局、リアルな対話を繰り返し、自分を過度に意識しないということが重要なんだろうな。しかし一方でセルフブランディングは絶対に大事。ネットでヘンなアピールをするということがブランディングではないということを留意する必要があるな。

  • 「やりたいこと」という蜃気楼に、躁状態のまま向かい続けるわたし。それに興味を喪えば燃え尽きるが、また新たな蜃気楼を見つけ出して追いかけはじめるわたし。その、際限のない繰り返し。感性の次元で湧き立ち、ある時突然それが冷める。それを繰り返す日常を、筆者は「カーニヴァル」のようだという。元ネタは、バウマンだったらしい。

    途中、「データベース的対人関係」のくだりでSNSについて言及がある。この当時からすればSNSのシステムもだいぶ多様化し、携帯のアドレス帳と同じように「つながっている」感覚を担保するだけのものではなくなってきた。そこには、「○○というつながり」という分別や、「重要な友達」「限定公開」「ブロック」という選別の機能が欲望されるようになり、それがシステムとして制度化された。ともあれ、データベースの中の人間関係が、生身の人間関係をある程度(というより、かなり)飲み込んで支えているという指摘は、今も強い示唆を持つ。

    もう一度、というか今度こそ、社会学にしっかりと取り組んでみたいという気持ちを思い起こさせた。

  • おもしろかった。

  • 答えを急がない、一方の見方に立たない、という徹底した態度に平伏。もっと早く読んでおけばよかったなと思うほどでしたが、今読むご縁だったのだと思い大事にしたいですん。

    一人のひとの中にかように多様な価値観があったら、それはそれだけで希望なんじゃまいか。とも思った。

    あと、こんなに噛み砕いてもらってるのにまだわからないところがあって、ときどき落ちる。。。というのが何処だったのか、今後はそいうのを書き出して置こうと思いました。

    自分と違うからわからないのか、使ってある言葉や文脈が(あるいはその使い方が)違うからわからないのか、みたいのをちと明確にしたら、良いかなと。

  • この本で言われていることは、この2011年においても実感、納得できることばかり。1章から3章で語られている社会状況の変化が、日本で「カーニヴァル」が発生するベースを醸成してきたとチャーリーは言っている、そこは正しいと思う、その流れは近年加速しているのではないか。そこには世界の均質化、フラット化がものすごい勢いで広がっていることもあると思う。アメリカで金融緩和が行われたら、即オーストラリアのマーケットにお金が流れこむ、政策・経済が急激にグローバル化したことにより、市民社会の思想伝播もまたありえない速度で行われた。その結果が、中東で起こっている独裁政権に対する運動なのかなと。あれをカーニヴァルと呼ぶ事に対して異論があると思うけれども、チャーリーがp.139にて書いている「カーニヴァルそれ自体にサステイナビリティを欠いている」という点で一致を見ているかなと思う。カーニヴァルでは蜂起し、破壊することはできても、創造、安定することは難しそうだ。担い手は同一でも、手段は異なる必要があるのだろう。日本でもそろそろ政治的な意味を持つカーニヴァル(=デモ)が起こってもいいような気がするけど・・・あ、心ある若者は物理的行動にでなくともいい武器を手にしていることを十分に知っているのであった。

全107件中 31 - 40件を表示

著者プロフィール

1976年生まれ、福岡県出身。関西学院大学先端社会研究所所長、社会学部准教授。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員。専攻は理論社会学。著書に『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)、『SQ“かかわり”の知能指数』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ウェブ社会のゆくえ<多孔化>した現実のなかで』(NHKブックス)ほか多数。

「2019年 『未来を生きるスキル』 で使われていた紹介文から引用しています。」

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)のその他の作品

鈴木謙介の作品

ツイートする