「責任」ってなに? (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061498211

作品紹介・あらすじ

私は悪くない。与えられた「役割」を果たしただけ。歯車だから。ああするしかなかった。「ほんとうの自分」は違うんだ。-これ、どこかおかしくないか。

感想・レビュー・書評

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  • 専門的な言葉を使わずに、でも深くつっこんだところまで議論している、読み応えのある本。
    著者によると「責任がある/を負う」とは、互いに「問いかけ・呼びかけうるし、応じうる」間柄を生きること。これは個人レベルでの責任とは、呼応可能な間柄を作り出し、維持し、発展させていこうとする態度を見せること。集団レベルではこの態度を、集団内・外の人に見せること。
    ずっと責任を負うことに対してマイナスなイメージしかなかったが、人間関係を豊かにするためにも大切なことで、基本的なことだと知った。

  • 責任とは、その英訳であるところのレスポンシビリティ、即ち「呼び・応じる」呼応可能性がその根源にあるという観点から、改めて人間の責任というものを考え直す力作。

    責任概念には数年前から関心があって色々と読んでいますが、それらの中でも結構いい出来の本だと思います。認識論や社会システム論などうまく織り込みながら、なおかつ分かりやすく語られています。

    しかし、哲学的な立場から改めて責任概念というものを考察しているせいで、いわば純粋責任論とでも言うような厳格主義の匂いがするのも確かです。

    つまり人間の、特に日本人の無責任体質に対する怒りが著者の中にはあると思うのですが、それを「人間とは本質的に責任を負った存在である」と言わんばかりの極めて純粋な立場から批判しているために、そうか僕達はみんな人間として生まれてきた以上は重い重い責任を負っているのね、と読者をいささか悲壮な気持ちにさせてしまうところがあります。

    確かに人間には根本的に、いわば「責任的存在」とでも言えるところがあると思います。人間なのだから責任を負う。責任を負いうるからこそ人間である。これは一面の真理ではないかなと思うのですね。

    例えば裁判で、被告人のいわゆる責任能力が問われる、ということがあります。しかしあれは、もともと僕達は被告人が責任を負いうる存在であることを前提にしているわけです。だからこそ、ある個別の事柄について責任を負わせてもいいものかどうか、と問うことができるわけです。それが責任能力を問う、ということなのですから。

    しかし責任とは、共同体にとって重大な事件や出来事があった時になって初めてその「所在が問わ」れたり責任を「取ら」されたりするものです。つまり責任は非日常的な概念であり、それを日常・非日常という枠組みを越えたところから、何か超越的なものとして人間全般に取り付かせようというのは無理があると思うんですね。

    合理性を越えたところで人間が根源的に負っている責任概念。その不合理さということで言えば、責任を負い、取らされるという構図はどこかシャーマニズムにも通じるものがあるのではないかとすら思えます。何か悪いことがあった時に、責任と言う目に見えないものをある部分に宿らせて、それを払い落とす。こうしたあり方とも重なるものがあるかも知れません。

    ですから、特定の誰かが責任を問われているというわけでもないのに、人間が根源的に負っている責任というものを殊更に言い立てるのは、日常の中に非日常を力ずくで持ち込む不自然さがあると思うのです。

    某首相などはよくインタビューや答弁などで「責任」という言葉を用いていますが(例:国民の皆様に対してしっかりと説明して理解を求めて責任を果たしていきたい…云々)、責任責任と述べれば述べるほどそれが虚しく聞こえてくるのは僕だけでしょうか。

    恐らくあれは、具体的に誰が責任を問われるのかはっきりしていないのに、とにかく内閣の最高責任者だからということで無闇に連呼しているから、かえって空虚な感じがするのでしょうね。

    ですので、責任概念に関してアプローチを加える際には、以下の3つの観点があるのではないかと僕は考えます。

    ①本稿で紹介したような純粋責任論として。

    ②法哲学的な責任概念論。義務や罪や善悪といった他の諸概念との関わりと位置づけを考える。

    ③責任というものが問われる「場」の考究。日常と非日常の関係や、社会的責任、説明責任等々の責任の諸相に関して考える。より応用的な見方。

  • 思索
    哲学

  • 自由意志と決定論については両立論を取る。自己組織化による自由な決断が確保される。責任は、理由の空間への問い。
    責任を負う基準は「他のようにできたか否か」「しなかったら怒らなかったか」「したのに起きないことはない」というもの。だが、これは行為だけではなく、行為を控えることにも拡大されるべきである。無為についての責任。
    「他のようにできたか否か」ということに関して、「役割上仕方なかった」ということが言われよう。その場合、責任主体は集団となるだろうが、構成員も集団に参加する意志があるかぎりは責任を負わなければならないだろう。個人の一貫性を簡単に放棄できないように、集団の一貫性も簡単には放棄できず、負の責任も引き継がねばならない。
    だが、「それはあくまで役割であって、ホントウの自分ではない」という言い逃れが、集団と個人という葛藤を離れたところでもされるようになった。挙げている例によれば、大庭健であるということすら役割として、ホントウの私を別に確保しようとする解離はどう可能になるのか? 理論的に可能なのか?
    「私は大庭健である」という文は客観的な世界描写に登場しない→私は大庭健である、という事実は、世界の中の事実ではない、という議論。「私」が誰を指すか、というかのはどうしても客観的描写に書き込まれることはありえず、コンテクストによって指し示されるほかない、ということ。ここまでは良くても、
    「私は大庭健である」という文は客観的な世界描写に登場しない→私は別のどの人物の視点からでも世界をみることができる、ということになるのだろうか。「私が客観的な世界描写(=私は大庭健であるという事実がない世界)を考えることができる」すなわち「他人が、大庭健をどう見ているかを、私は想像できる」ということは、「私は、他人の観点から大庭健を見ることができる」だとか「別の視点に立っても私は私である」ということにはならない。認識論的な可能性を指し示す前者の文が、存在論的なコミットもある後者の文に言い換えられるわけではない。そして、この言い換えを許してしまうと、「私は、いまのところ大庭健の視点から世界を見てはいるが、大庭健とは独立の存在だ」ということになってしまい、他者が消去されてしまう。ひいては呼応可能性としての責任が揺らぐ。
    この解離を現代日本にも見出し、ドイツや日本の戦後責任の扱いとか、未だに日本にテロリズムが残存していることもも論じるが、それは省略。戦後日本が対話能力を欠いた巨大な幼児のようだ、構造的な無責任。
    私はふるまいとフィードバックでできている。フィードバックは情報をすべて受容するわけではなく、入力と雑音に仕分けられる。この選別のゆがみが問題を起こす。個人の場合はそれが先入観、自己イメージ、みずからの主義主張だったりすると言う。集団もおなじようにふるまいとフィードバックで構成される。集団は機能的なシステムであり、選別はコードとして共有される。コードに過剰適応したり、あるいはコードによって責任を負うことと自分を解離させることの息苦しさは問題になるだろう。呼応可能性としての責任は変化の希望であるとして締められる。

    しかし、じゃあどうやってよりよい選別をしていくか、選別を変えていくことはできるのか、ということについては触れていない。あるいは、どうやって変化の可能性を担保するのか。
    あるいは、なぜ責任を持たなきゃいけないのか。そうじゃないと息苦しいよ、というところに行き着くのだろうか。責任を持たないところで生まれてくる問いが誤りだからよくないのだろうか。あるいはそれが暴力になるから、ということになるのだろうか。

  • 「役割と自分」を切断することにより、消すことができない自分が選択した事実を合理化する。「なりゆき」の論理が、旧日本軍、学校でのいじめにあり、社会での構造的な無責任の継承に繋がっている。

  • ★「決定論と自由」という哲学的な考証から解離、いじめ問題、戦争責任、闇の力まで話は流れていく。

    ★現代の構造にも継承されている、あの戦争について知らなければならない。

  • [ 内容 ]
    私は悪くない。
    与えられた「役割」を果たしただけ。
    歯車だから。
    ああするしかなかった。
    「ほんとうの自分」は違うんだ。
    ―これ、どこかおかしくないか。

    [ 目次 ]
    第1章 責任という概念
    第2章 責任と自由―責任の条件
    第3章 責任の主題
    第4章 責任の主体―誰が責任を負うのか
    第5章 役割と自己―その切断
    第6章 じわじわとひろがる解離傾向
    第7章 国家という集団―戦争責任
    第8章 責任の空洞化
    終章 人間として生きるために

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 責任について考えさせられる。

  • 読みかけ

  • 硬い。とにかく硬い文章でなにか哲学書を読んでいるかのような気分になってきました。

    「責任」とは通常「過去の悪行・過ちを償う義務」といった意味を帯びている。すなわち、「あなたには、あることXの責任がある」ということは、1.あなたが、(積極的にであれ消極的にであれ)自分の行為によって悪しき事実Xを招来し、その点で2.あなたは「非難に値する」とともに、3.Xの関係者とりわけ被害者に謝罪し、所定の手続きに従って従う義務がある、ということを意味することが多い。(本文より引用)

    なんだか前にちょこっと読んだ法律の事例集に似ています。
    ただ、自分自身にとってこの本の記している「責任」は「responsibility」(応答の可能性)の有無が責任発生条件で、「違う仕方もできたかどうか」が責任有無の判定基準という前半の主張には「あぁなるほど」と思いました。

    たとえばりんごが木から落ちたとしても、リンゴには落下した責任はない。それはその落下が原因で重大な帰結が生じたとしても。
    これが呼応可能性。呼応できる立場であることが責任発生の条件という。

    そんな概念的な話が前半で、ちょっとずつ面白くなってきたな〜と思ったのですが、後半からは戦争責任の主張が目立つ内容に。

    ドイツと日本の戦争責任の違い。靖国神社の扱い。国旗。国歌など。だんだんそっちの話に。

    確かに、なかなかこの手の話は義務教育では教わらないので興味を持って読めたのですが、なんせ、図書館で手に取った本なので、こうも重たい内容だとはつゆ知らず、読むのに根性いりました。

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著者プロフィール

1946年 埼玉県浦和市生まれ
[現職]専修大学文学部教授
[著書]『権力とはどんな力か』勁草書房,1991。『自分であるとはどんなことか』勁草書房,1997。『所有という神話―市場経済の倫理学』岩波書店,2004。『責任って何?』講談社,2005。『善と悪』岩波書店,2006。他多数

「2008年 『職業と仕事…働くって何?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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