ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
- 講談社 (2007年3月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061498839
感想・レビュー・書評
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「動物化するポストモダン」の続編にあたる本書は、さらにライトノベル、そして美少女ゲームにまで範囲を広げ、オタク文化を考察している。
しかしこれまでサブカルチャーとされてきたアニメやゲームの世界が、最早マスカルチャーになったと言っていい状況は、どのように分析をするのかさらなる続編が期待される。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
批評家 東浩紀氏が2007年に発表した著作。大きな物語が終焉を迎え、個々の物語にシフトした現代を呼称するポストモダンをオタク文化から眺める2001年の「動物化するポストモダン」の続編です。今回は、ライトノベルや美少女ゲームをスタートにして、一般文芸へと橋渡ししています。取り扱っている題材から、どうしてもオタク文化論に見えますが、文学論として捉えたほうが良いと思います。
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年明けくらいに本著の前編『動物化するポストモダン』を読みました。そのときに「東氏の著作のつながりが見えてくると面白いのだろうなあ」と記していました(以前のInstagram)。続編である本書はまさにつながりが見えてとても面白かったです。
「前著を前提としているが,単独でも読めるように書かれている」(p.14)本書ですが,可能であれば前著を読んだ後に読むと議論の深まりが感じられるように思います。
前著で提案したポストモダン論を礎に,作品を想像する環境が二環境化していること(「現実」と「データベース」)を指摘し,そしてこの論点が既存の文学批評と対応関係を持つことを論じます(自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム)。
しかし,既存の文芸批評では評価の低かったメタ物語性(物語の結末が一つに定まらない)をもつゲーム的な小説が,メディアという視点(コンテンツ志向メディアとコミュニケーション志向メディア)を加えることで,新たな文学の可能性=批評を有することが論じられます(ゲーム的リアリズムの誕生)。
物語の読解から物語の構造の読解へ。「自然主義的な素朴な読解と異なり,物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解するような,いささか複雑な方法」(p.157,傍点省略)である環境分析的な読解へ。
文学論でもあり,メディア論でもあり,批評の方法論としても読める貴重な本かと思いました。
ところで,ポストモダン化に伴う作品の変化として以下のことが指摘されていました。
「自然主義の足枷から解放され,面倒な情景描写や人物設定をする必要を感じない若い作家たちは,その多くが,読者への刺激を最大限かつ最速にするため,サブカルチャー的な記号をできるだけ効率よく配置しようと試み始めている。つまりは,分かりやすい展開を備えた印象的なキャラクターと,同じく分かりやすい展開を備えた類型的な物語を組み合わせ,そのうえでいかにディテールを積みあげて読者の心を動かすか,という点に作家の関心が移っている。(p.299)
先日,『ぼくは愛を証明しようと思う。』の読書感想で「物語のプロットはありきたりです」と記しましたが,この指摘を踏まえて考えると違う読解ができるなと思いました。
物語のプロットがありきたりなのも,登場人物がよくある感じ(非モテ男性とマッチョイズムなモテ男性)なのも,ディテール(恋愛工学)による読者へのインパクトに関心があったからなのかな,と。そしてそれが功を奏していて,『ぼくは愛を証明しようと思う。』を読むと,心だけでなく身体も動かす影響力を持っている。そのようにも読解できるなと思いました。
いつの時代の本なのか?という視点で小説を読むのも面白いなと思いました。
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高齢の頭の硬い学者ならいざ知らず、東がゲーム的リアリズムと言う時のゲーム的とは、ゲームプレイ→リセット→ゲームプレイのループだったり、TV画面を前にしてゲームをプレイするプレイヤーという構図であり、ゲームなり小説なりを分析するにあたって問題にするのは、物語の構図だけだったりする。
ゲーム実況などをアップロードするYoutuberですられゲームを語る際には、ゲームの世界観、操作性など様々な角度で論じるにも関わらず。
果たして、どれくらいのゲームプレイヤーが、前記の東がゲーム的とするものに納得するであろうか。
通常、ゲーマーにとって、TVゲーム的とは、やり込み要素などの攻略のしがいであろう。
物語中心に分析するという手段は、東が古い文学のみに通用すると言う自然主義そのものではないか。
前作『動物化するポストモダン』では、あくまでも批評が主体であり、扱われている、オタク好みの作品は従であったが、本作『ゲーム的リアリズムの誕生』では、作品批評が主体で、オタクはオタクでも、どの程度の人達が読んだり、プレイしているのかと思うような、全く知らない作家、作品に付き合うのは、読んでいて、ほとほと疲れました。
その批評にしても、皮相的で浅いもので全くつまらなかった。
2、3の作品を分析なのか、つまらない説明でもって、本書の最後に、『本書の議論で、2000年代の物語はどのような状況にあり、どこに向かっているのか、そしてその分析にはどのような概念が必要で、それらの概念は批評の場でどう使われるべきなのか、かなりのていど明らかにしたことと思う。』とあるが、驚くべき自負心である。
断っておきますが、私は、アンチ東という立場ではなく、東浩紀を、注目すべき言論人の一人と考える立場の一人です。
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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
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「物語は何処に行ったのか?」
ライトノベルや美少女ゲームを通じてオタクとこの社会との関係性を見ていく。
大きな物語が力を失うなかで、文学の一つの可能性としてのライトノベル。コミュニケーションの効率化としてのキャラクターを使った伝達。
第一章は 理論 第二章は 作品論
ライトノベル→キャラクター小説
ライトノベルというものが市場の中でも大きなインパクトを持ち出してきている昨今、文学というものを考える上でも無視できない。また普通の文学小説とライトノベルの境界にあるような小説も最近では見られる。
そういったものを考えていくうえで一つ参考になる論考であろう。 -
インパク知5・5
かかった時間180分くらい
『動物化するポストモダン』の続編。前著?がオタク文化の分析を通じてなされた社会批評だとすると、本作はオタク文化の分析を通じてなされた文学(可能性)批評だという。
大きな物語を喪失した私たちは、等価値的な、すなわち多様性が認められるかわりにとことん無価値的にも思える生を生きている。「ゲーム的小説」は、そんな時代を反映する、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの現実と向き合う(または向き合わない)プレイヤー的登場人物と、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの虚構と向き合う(または向き合わない)読書の関係が重ね合わされて描かれている「文学」だというのが、筆者の主張である。
東浩紀については、たしか2013年出版の『セカイからもっと近くに』から読み始めていま3作目だが、『動物化』で行った社会批評をもとに、オタク文化(とくにセカイ系)の文学解釈に至るための、本作は過渡期なんだなあということがわかった。作品として洗練されまくっているわけではない(自分自身も集中して読み切れなかった面もある)が、おもしろくは読めた。 -
大まかに前半が理論的な内容で、ゲーム的リアリズム自然主義的な読解に対する環境分析的な読解等が説明される。後半が環境分析的な読解による具体的な作品批評、という構成。
後半により、かなりクリアに色々理解できた気がする。俺はこの本で主に取り上げられている類の小説、ラノベとか舞城王太郎は殆ど読んでなくて、数少ない接点である例えば西尾維新原作の漫画とかは何となく圧倒される感じだったけども、なんかその圧倒される理由の構造的な部分が理解できた。
この本が書かれた2007年は、ゲーム的リアリズムは虚構の世界に軸足があったように思えるけども、現在(2018年)は現実がかなりゲーム的になってきていて、現実が糞ゲーに思えて、政府を始め社会を動かす人組織仕組み全般をゴミ運営として捉えているのかな、と考えながら読んだりしていた。
そういう流れで、最後の方の、
"私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これご、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である。"
っていうのに何故かとても感動した。 -
動物化するポストモダンの延長で今それを体現している文学について書いてある本。ライトノベルや今の前衛的な作品のメタさゲーム世代の感覚や感性がよくわかると思う。結構な射程のある本だと思うし随分とスッキリした。
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なるほどなぁと思いながら読んでしまった。ラノベ、美少女ゲームも売れるには訳があるんだとわかった。