ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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レビュー : 110
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061498839

感想・レビュー・書評

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  • P68の図がわかりやすかった。ジャンルに関係なく「文学的」と呼ぶ理由。
    近代文学を「自然主義的リアリズム」でくくるのはちょっと大雑把かなと思う。「透明」「不透明」の定義もちょっと曖昧な感じがした。参照されている本を読めんだほうが理解が深まるだろうけど、ちょっと手が伸びないかな。。

  • 「物語は何処に行ったのか?」

    ライトノベルや美少女ゲームを通じてオタクとこの社会との関係性を見ていく。

    大きな物語が力を失うなかで、文学の一つの可能性としてのライトノベル。コミュニケーションの効率化としてのキャラクターを使った伝達。

    第一章は 理論 第二章は 作品論

    ライトノベル→キャラクター小説

    ライトノベルというものが市場の中でも大きなインパクトを持ち出してきている昨今、文学というものを考える上でも無視できない。また普通の文学小説とライトノベルの境界にあるような小説も最近では見られる。

    そういったものを考えていくうえで一つ参考になる論考であろう。

  • インパク知5・5
    かかった時間180分くらい

    『動物化するポストモダン』の続編。前著?がオタク文化の分析を通じてなされた社会批評だとすると、本作はオタク文化の分析を通じてなされた文学(可能性)批評だという。

    大きな物語を喪失した私たちは、等価値的な、すなわち多様性が認められるかわりにとことん無価値的にも思える生を生きている。「ゲーム的小説」は、そんな時代を反映する、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの現実と向き合う(または向き合わない)プレイヤー的登場人物と、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの虚構と向き合う(または向き合わない)読書の関係が重ね合わされて描かれている「文学」だというのが、筆者の主張である。

    東浩紀については、たしか2013年出版の『セカイからもっと近くに』から読み始めていま3作目だが、『動物化』で行った社会批評をもとに、オタク文化(とくにセカイ系)の文学解釈に至るための、本作は過渡期なんだなあということがわかった。作品として洗練されまくっているわけではない(自分自身も集中して読み切れなかった面もある)が、おもしろくは読めた。

  • この感覚、この感覚が、自覚的に本を読み出した初めの頃に抱いていたものだったことを忘れてはいけない。

  •  東浩紀が「動物化するポストモダン」の続編として書いた一冊。

     大きな物語を失い、キャラクター、データベースを消費するようになった現代。それは純愛でありながら、何度もプレイすることによって多くの女性を攻略できる美少女ゲームの矛盾に代表される。しかし、2000年代に入り、メタなストーリーにより大ヒットしたライトノベルや美少女ゲームなどのサブカルチャー作品は、メタ化によってそういった点を指摘し、データベース消費的な現代を反映している。多くのサブカルチャー作品を挙げながらの説明は説得力がある。
     2010年代の現在から見ると、推しメンを選ぶAKB48の大ヒットもこの流れに沿ったものかもしれない。

     非常に重要で現代を考える上での一つの羅針盤になる様な論説であると思うが、私の頭が悪くてよく分からなかった部分も多い。
     大きな物語を失った私達はどうあるべきか。その答えはこの本には書かれておらず、自分で考えていくしかないのだと思う。

  • とびとびで読んだのと、僕自身がラノベや美少女ゲームに興味がないため、ちょっと理解しづらかった。今度、清涼院流水や西尾維新あたり読んでみよう。あと、舞城王太郎か。

  • 取り上げられる作品は新しくなったがベースの理論は変わらないか。
    ビジュアルノベル、清涼院までは買えるが、どうしても舞城をそこまで評価できない(単に、描写が不快だからなのだが)。
    本作から4年たった今、筆者の目はもうこの分野には無いのかもしれない。

  • 筒井さんに出された宿題「ポストモダンの文学」、これに対して「ポストモダンでは文学は求められなくなる」と悩み始めてから約10年。ようやく出せた解答が本書である。最初にいつもの東さんだ。ブログ論壇の展開で「劣化東」と言われる人々(僕も含む)が増える中、ポストモダン批評とサブカルチャーを繋げ広めたオリジネイターだからこそ、ブログ論壇を読みあさる僕にとっては新鮮味がなかった(笑)。なので粗読(拾い読み)。清涼院流水、西尾維新など敬遠していた作家の読み方がようやくわかった。物語内に収拾されない『メタ』が大事なのだ。

  •  著者の前著『動物化するポストモダン』はオタクの動向だけでなく日本社会全般に当てはまる「『大きな物語』の衰退→物語消費からデータベース消費」という流れに言及したが、当書はオタクの消費活動及び、消費の対象となる作品(「ひぐらしのなく頃に」など)の構造について焦点を当ている。

     リオタールの言う「大きな物語」とは高度経済成長期の日本で「仕事を頑張れば明日は今日より良い暮らしができる」というように国民全体に広く受け容れられたスローガン、価値観のこと。ポストモダンはそのような大きな物語が衰退して、拡散的な小さな物語が生まれ、社会やライフスタイルの多様化が尊ばれる時代である。

     前著の内容と被りますが、ポストモダンの徹底化により台頭したのが「萌え」と「データベース消費」である。漫画やライトノベル、ゲーム、アニメのキャラクターは「眼鏡っ子」、「ツンデレ」、「先輩」、「妹」といった「萌え要素」という単位まで分解され、その萌え要素を集めたデータベースそのものが消費の対象となっている現象を「データベース消費」と表現する。

     ちなみにこうした傾向はキャラクターの自律化や二次創作の増加といった現象を招く。たとえば、作品ごとにキャラクター設定の一貫性に欠け、作者自ら「シリーズものではない」と公言する「東方Project」には二次創作で作られた設定が次の原作に反映されるなど、こうした動きが顕著に表れている 。

     データベース消費が作品内に強く現れることで、ゲーム的リアリズム(ゲームのような現実)が誕生すると言う。それは、

    「ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生み出した構造のメタ物語性に支えられている。その表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素(キャラクター)が生みだすものでありながら、物語を複数化し、死をリセット可能なものにしてしまうため、まんが・アニメ的リアリズムの中心的な課題、すなわち『キャラクターに血を流させることの意味』を解体してしまう。(P.142)」

    と説明されます。その「ゲーム的リアリズム」が生んだのが「ONE」、「ひぐらしのなく頃に」、「九十九十九」といった作品だとされる。

     ただ、「大きな物語の衰退→現実認識の多様化」の流れを唯々諾々と受け容れるだけでは「人それぞれでいいじゃん」という単なる相対主義で思考停止してしまう。

     自分の取り巻く環境を能動的に変えようとするのではなく、受動的に変化に適応しようとする点で、この唯々諾々と受け容れる姿勢は「動物的」である。ただただ美少女に「ブヒる」ことで消費する「萌え豚」という言葉が人口に膾炙するようになったことと無関係ではあるまい。

     最初に読んだのは4年前だが、この本が『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むきっかけになって、そこからいろいろな漫画やライトノベルに触れるようになったことを考えると、不思議な因縁を感る。

     そして、4年前に読んだときに内容をほとんど把握できなかったのに、今はできることが感慨深い。今となっては言いたいことも結構あるが。

  • 美少女ゲームの話はよくわからんが、ライトノベルの分析はおもしろかった

著者プロフィール

東浩紀(あずま ひろき)
1971年東京生まれ。批評家・作家。ゲンロン代表。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。
著書に『存在論的、郵便的』(サントリー学芸賞思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞受賞作)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞作)ほか多数。『ゲンロン0 観光客の哲学』は第5回ブクログ大賞人文書部門、第71回毎日出版文化賞受賞作。

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