日本語はどういう言語か (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061580435

作品紹介・あらすじ

構造言語学や言語道具などの言語理論は、言語の本質をよくとらえているだろうか。科学的な言語論の確立を意図して書かれた本書では、客体的表現の語と主体的表現の語という独自の視点から、言語の本質が説明される。そこでは、孤立語である中国語や屈折語とよばれる英語などにくらべて、膠着語に属する日本語が、どのような特徴や構造をもつかが、わかりやすく述べられている。日本語を理解するためには不可欠の書といってよい。

感想・レビュー・書評

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  • 日本語の本というよりは哲学書。書名詐欺に等しい。
    国語学の変遷を辿りたい人は読んだ方が好いかも知れないが、単純に日本語ってどんな言語なんだろうと興味を感じて手に取るのは勧めない。しかも国語学を辿るといっても言及されるのはほとんどが時枝誠記の話。それならせめて副題で「時枝誠記理論の反芻」とでも書いておいてくれたら買わなかったのに。
    内容はもう読んでもよくわからず、半分ほどで断念。そもそも本の半分が「言語」と「意味」の究明で、前置きが長すぎてうだる。

    2023.03.03
    売却。

  • 三浦つとむは、言語過程説を踏襲しつつも時枝の意味論を修正し、新しい意味論として「関係意味論」を提案した。
    即ち、「音声や文字にはその背景に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられている。このような音声や文字の種類に結びつき固定された客観的な関係を言語の意味という。」と説明している。
    対象や話者の認識は意味そのものではなくて、意味を形成する実体だとする説である。これによれば、意味は話者や聞き手の側にあるのではなく、表現そのものに客観的に存在するのであって、表現-音声や文字-の消滅とともに、そこに言語規範によって固定されていた対象と認識の関係、すなわち意味も消滅するということになり、対象意味論や認識意味論、或いは型式意味論や解釈意味論の欠点を補完し統合し得たものと思われる。

    吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」1.2巻を初めて読んだのは、おそらく’60年代の終わり頃だったろう。
    その時の理解はかなり覚束ないもので、とにかく読み通すのに苦労した。
    三浦つとむの「日本語はどういう言語か」講談社学芸文庫版に出会ったのは’70年代後半、
    これにより時枝誠記-三浦つとむ-吉本隆明の三者が繋がった。
    三浦の「認識と言語の理論」1.2巻を読んだうえで、吉本の「言語にとって――」をあらためてじっくりと読み直した。

  • 季節社の本

  • 吉本隆明:詩とはなにかより
    読みたい

  •  三浦つとむの言語論。時枝誠記の言語過程論を敷衍した三浦言語論である。言語の特徴として、意味があるが、三浦は「意義」と「意味」を腑分けして論じている。通常、意義に重きを置く言語論は、意味を履き違えて論じている。三浦の「意味」は、「音声や文字には、その背後に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係付けられているわけで、このようにして音声や文字の種類に結びつき固定された客観的な関係を言語の意味とよんでいるのです。」(p44)とあるように、意味とは「対象から認識への複雑な過程的構造が音声や文字に眼に見えない関係で結びついているところに、言語表現の内容を見、「意味の存在を認めるのが、本当の言語過程説である。」聞き手や読者は音声や文字に接し、背後にある関係を逆にたどって、話し手や作者の認識をとらえようとする。これが意味の理解である。■対象ー認識ー表現の過程的構造を見極めることが、言語論だと三浦は述べているわけだ。■三浦の理論には学ぶべきところが多々あるが、認識論としての観念的自己分裂は、過去へ観念的に分裂し、そこの現場に自らがいるという想定の下に、過去の自分を振り返ること駕できる。つまり過去についての想念が生まれる。哲学的な認識論は、この観念的自己分裂による間接的に振り返るという認識論を知る限りにおいて見かけたことがない。その点でも、三浦は秀逸なのである。■3章から5章では日本語の文法構造が扱われているが、メモ書きとして現すと、名詞は対象の実体を、たとえそれが物質的なものであれ、頭の中の観念的なものであれ、現す品詞であり、実体の静的な属性を捉えた品詞を、形容詞とする。そして、形容動詞は、三浦は存在しないとする。静的な属性を現す形容詞と助動詞が合体したものである。この見方は大いに説得力がある。活用のない形容詞と活用のある形容詞的な内容の語を<静詞>とよぶべきだとしている。■助詞の「は」と「が」の区別。おそらく三浦ほど認識から説得的な品詞分解をしている文法学者はいないだろうと思わせる説得的な論理展開である。<副助詞>と<係助詞>、<接続助詞>と<終助詞>、<助動詞>に認識構造など、示唆に富みまた、納得のいく論理が展開されている。言語の理論や、文法を語るなら、ソシュールだけではなく三浦の言語過程説を深く検討されるべきだと言語学研究者には要求したい。■なお、三浦はマルクス主義者であったが、1960年代に、「レーニンから疑え」で、レーニンの「国家と革命」の理論的欠陥を理論的に指摘。そして、ソビエトの理論的虚妄性指摘していたのである。また、同時に、毛沢東の「矛盾論」の間違いを敵対的矛盾と非敵対的矛盾の相違を理論的にとき、「文化革命」虚妄性を指摘していたのである。彼が、夜間高校中退であることも、彼の人となりを偲ぶよすがとしても付け足しておこう。

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著者プロフィール

東京に生まれる。
少年時代は算数の応用問題や探偵小説に熱中し、名探偵になることを夢みた。
実業学校(東京府立工芸)を中途退学。その後は働きながら独学で、映画論・言語論・哲学などの研究を進めた。
以後、在野の理論家として、認識論・言語論・芸術論・組織論・人生論など社会科学や哲学の幅ひろい分野において活発な研究著作活動をつづけた。
【主な著書】
『哲学入門』(仮説社)『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)『三浦つとむ選集』全6巻(勁草書房)『日本語の文法』(勁草書房)『1たす1は2にならない』(明石書店)『こころとことば』(明石書店)

(生:1911年2月15日~没:1989年10月27日)

「2011年 『芸術とはどういうものか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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