- Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061581357
作品紹介・あらすじ
われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと結合することになったでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまの文化を借りておりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、又は幽霊などというものの本質を、解説することはできぬように思います。国が自ら識る能力を具える日を気永く待っているより他はない……(自序より)
感想・レビュー・書評
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いつか自分の研究にもいかしたいテーマ。方言と妖怪の名前は興味深い。
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妖怪について大まじめに。しかも認める方向で。
河童や山男、一つ目のもの、大人などについて、その背後にある無形の歴史について問いかけを集めた一冊。 -
妖怪を学問の対象としたこと。それも単なるキャラクター研究ではなく、畏怖・畏敬の対象として捉えたことには、大きな意義があったと思う。が、そういったことをぬきにして無心で向き合う本書は、見たこともないほど玉石が混交した読み物だ。
たとえば、川の神に瓜を捧げる風習と河童のキュウリ好きを関連付ける考察がある。これはたいへんな慧眼であって、私は興奮のあまり口をあんぐり開けてしまった(外で読んでいたのに)。河童が実は零落した河神であるということを示唆しているわけであるが、キュウリがその傍証となっているのが驚きだ。見たところ河童の戯画的な面を強調しているかのようなキュウリが。
その一方で、眉をひそめたくなる記述も多い。ところどころに登場する差別意識に満ちた文章は、今日なら出版も覚束ないのでは。また山中の猿人説などは、久しぶりに川口浩の探検隊を思い出してしまった。
とはいえそれもまた、この時代の意識レベルを知るための史料として有効…という見方もできるかも。 -
元々は利益や富を齎す存在であったモノが、有り得ないと思う人々の心によりその恐怖感や不信感のみが抜き取られ、さらにその話をより一般向けに組み替えることで怪談となされ、同感する者の心に巣食って今に至る、というのが恐怖心の根源、なのかな。まだ序盤しか読んでいないのでわからないが。
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妖怪談義とはいっても伝説や昔話を語るのではなく、その時代に生きる人々が何を信じ、何を願い、何を考えたのかを、各地の妖怪の呼称を手掛りにしてその根拠を論じ、原初的な古意を明らかにしようとする。古い日本語で黄昏時をカハタレといい、もしくはタソガレドキといっていたのはともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定化した形であって、昼の光が薄れ、ふと過ぎ行く人の顔も見分け難い、よそ者との区別もつかない、唯単なる言葉の面白味以上に、もとは正体不明なものに対する畏怖の念を含んでいたのかもしれない。
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柳田国男 「 妖怪談義 」 妖怪(お化け)を 全国の伝承を通じて民俗学的に考察した本。妖怪研究というより 妖怪を信じる人間研究。井上円了の妖怪学を批判する立場。河童、座敷わらしの記述は 面白い
著者の研究スタンス
「古い話が新しい衣装を着て〜その辺をあるいている」
「宇宙第一の不思議は 人間そのもの」
妖怪が全国で名前を変えて伝承された意味
*妖怪=水の神(疾病や災害への警戒)、山の神(飢饉への警戒)など自然信仰の別の姿
*自然信仰、神への敬い、畏れを失った人間へ罰する
妖怪と幽霊の違い
*妖怪は出現場所が決まってる
*妖怪は相手と時間を選ばない
人間の妖怪に対する三段階
1.敬して遠ざける、逃げる
2.半信半疑、妖怪の力を試す
3.妖怪の正体=神、仏の慈悲→妖怪を畏れない人間に罰
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解説:中島河太郎
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日本人の思考の痕跡を丁寧に拾い集めるような本です。
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【つぶやきブックレビュー】立秋過ぎてなお猛暑。妖怪本でもいかが?妖怪を真面目に語ります。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN04293132
著者プロフィール
柳田國男の作品





