- Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061584938
作品紹介・あらすじ
このうえなくわかりやすい言葉で、『論語』のエッセンスを読める!
孔子が伝えたかったことは、こんなことだった。
『次郎物語』で名高い作家にして教育思想家であった下村湖人が、
人生をかけて読んだ『論語』を、そこに残された言葉をもとに、ひとつの物語として書き紡いだ。
ページをひらけば、孔子や弟子たちが直接語りかけてくる!
【本書より―永杉喜輔「まえがき」】
湖人は生涯をかけて『論語』に学んだ。二千年以上も経た『論語』の章句を自由自在に使って、『論語』で養われた自分の思想を物語に構成したものが本書で、『論語』の精神を後世に伝えたい一念が結晶している。孔子と弟子たちが古い衣をぬぎすて、現代に躍り出す。その光景がみずみずしい現代語でたんねんに描かれている。
【本書より―「序文」】
論語は「天の書」であると共に「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。
彼の門人達も、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼等の多くは結局地の言葉しか語ることが出来なかった。中には天の響を以て地の言葉を語ろうとする虚偽をすら敢てする者があった。そこに彼等の弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通に持つ弱さである。吾々は孔子の天の言葉によって教えられると共に、彼等の地の言葉によって反省させられるところが非常に多い。
こうした論語の中の言葉を、読過の際の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立てて見たいというのが本書の意図である。無論、孔子の天の言葉の持つ意味を、誤りなく伝えることは、地臭の強い私にとっては不可能である。しかし、門人達の言葉を掘りかえして、そこに私自身の弱さや醜さを見出すことは、必ずしも不可能ではなかろうと思う。
この物語において、孔子の門人達は二千数百年前の中国人としてよりも、吾々の周囲にざらに見出しうる普通の人間として描かれている。そのために、史上の人物としての彼等の性格は、ひどく歪められ、傷けられていることであろう。この点、私は過去の求道者達に対して、深く深くおわびをしなければならない。
しかし、論語が歴史でなくて、心の書であり、人類の胸に、時処を超越して生かさるべきものであるならば、吾々が、それを現代人の意識を以て読み、現代人の心理を以て解剖し、そして吾々自身の姿をその中に見出そうと努めることは、必ずしも論語そのものに対する冒涜ではなかろうと信ずる。
感想・レビュー・書評
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孔子と弟子とのやり取りを描いた「論語」を、生涯を通して論語を研究した著者が、ストーリー仕立てで再構成したもの。
人物の心理描写がとても生き生きと生々しく描かれていて、すんなりと読むことができた。
本当に紀元前5世紀の書なのか?と思えるほど、人間の抱く悩みは古今東西ここまで共通するのかと思わされる。
あらゆるタイプの人物が弟子として描かれていて、一人は共感できる弟子がいるのではないでしょうか?
こんなことやってしまうな、思ってしまうな、とつい弟子に感情移入してしまい、緊張感を持って孔子の発言に聞き入ってしまう。
個人的に刺さったのは、「自らを限る者」の章。弟子の冉求(ぜんきゅう)は、孔子の教えにのめり込めず、素質や才能がないから向いてないと弱気になっていた。それを孔子に打ち明けたところ、『大して努力もしない内から、自分を見限ろうとするのは、自分への甘さであり言い訳でしかない。探究心が燃えてない証拠だ』と一蹴される。
単なるhow-toではなく、生き方の端緒を学べる。
学生から企業人まで、あらゆる世代に薦めたいし、常に傍らに置いて何度も読み返したい一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
”論語の言葉から、孔子と門人たちとの対話をストーリー仕立てで紹介した一冊。
論語研究をしてきた下村湖人氏の創作によるものだが、教えがとても立体的になり、僕のような初学者にはとてもありがたい。
これから『論語』本編を学ぶ前に読めてよかった。
<読書メモ>
・『論語』の解説書は無数にあるが、自分の生活をかけて『論語』を読みつづけた人はめずらしい。湖人は、その一人である。だから本書は、あくまで湖人の『論語』であって、だれの『論語』でもない。そしてそういう読み方こそが、孔子の学問態度であった。(略)学ぶとは古聖人の道を祖述し、かつ実行することだ、というのが『論語』をつらぬく教えである。(p.4:著書紹介「教育を正す名著」より)
・『論語』は「天の書」であるとともに「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇跡もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。(p.5:序文より)
#たしかに、水を割ったり、復活したり、という奇跡はでてこないなぁ。
・そこで、貧富を超越するということじゃが、それは結局、貧富を天に任せて、ただ一途に道を楽しみ礼を好む、ということなのじゃ。(p.20:富める子貢)
・万一にも、お前がその病気を恥じて、顔をかくしているとすると、それは正しいとはいえない。お前の病気は天命じゃ。天命は天命のままに受け取って、しずかに忍従するところに道がある。しかも、それこそ大きな道じゃ。そして、その道を歩む者のみが、真に知仁勇の徳を完成して、惑いも、憂いも、慴(おそ)れもない心境を開拓することができるのじゃ。(p.38:伯牛疾あり)
・私は、善に誇らず、労を衒(てら)わず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやってみたいと思うだけです。(p.46:志をいう:顔淵の台詞)
★お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、自分の気休めとするのか。そんなことをする隙があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましくいっているが、ほんとうに力があるかないかは、努力してみた上でなければわかるものではない。力のない者は途中で斃(たお)れる。斃れてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ。斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、天に対する冒涜じゃ。なにが悪だといっても、まだ試してもみない自分の力を否定するほどの悪はない。それは生命そのものの否定を意味するからじゃ。(p.62:自らを限る者:孔子→冉求)
・お前は、まだ心からお前自身の力を否定しているのではない。お前はそんなことをいって、わしに弁解をするとともに、お前自身に弁解をしているのじゃ。それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ。(p.62:同上)
★それというのも、お前の求道心が、まだほんとうには燃え上がっていないからじゃ。ほんとうに求道心が燃えておれば、自他におもねる心を焼き尽くして、素朴な心に返ることができる。素朴な心こそは、仁に近づく最善の道なのだ。元来、仁というものは、そんなに遠方にあるものではない。遠方にあると思うのは、心に無用の飾りをつけて、それに隔てられているからじゃ。つまり、求める心が、まだ真剣でないから、というよりしかたがない。どうじゃ、そうは思わないのか(p.63:同上)
#「寒いのは燃えていないから」を思い出した…。
・剛(つよ)いというのは、人に克つことではなくて、己に克つことじゃ。すなおに天理に従って、どんな難儀な目にあっても、安らかな心を持ち続けることじゃ(p.82:申とうの欲)
・元来、礼は敬(つつ)しみに始まって、調和に終わらなけらばならない。しかるに、今日私がみなさんにおたずねした結果、みなさんのお気持ちを害したとすると、私のどこかに、礼にかなわないところがあったのかもしれない。(p.91:大廟に入りて)
★音楽の世界は一如の世界じゃ。そこでは、いささかの対立意識も許されない。まず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一二四になって、きゅう如として一つの機(おり)をねらう。これが未発の音楽じゃ。(p.116:楽長と孔子の目)
・孔夫子の容貌や言動には、温・良・恭・倹・譲の五つの徳が、おのずから溢れている。各国の君主はそれに接すると、自然政治のことをたずねてみないわけにはいかなくなるのだ。(p.133:異聞を探る:子貢→陳こう)
★思いきりのよい男じゃな。しかし、一新を潔(きよ)くするというだけのことなら、たいしてむずかしいことではない。むずかしいのは天下とともに潔くなることじゃ(p.159:けいを撃つ孔子:冉有へ隠士を評して)
・君が、兄弟たちの悪事に関わりのないことは、君自身の心に問うて疑う余地のないことじゃ。それだのに、なぜ君はそんなにくよくよするのじゃ。なぜ乞食のように人にばかり批判を求めるのじゃ。それは、君が君自身を愛しすぎるためではないかな。……われわれには、もっとほかにすることがあるはずじゃ(p.193:司馬牛の悩み:孔子→司馬牛)
・わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。(p.218:渡し場)
★自分は倦(う)んではならない。一時の感傷にひたって、門人たちを甘やかしてはならない。彼らの中には苗のままで花をつけないものもあろう。また、花をつけても実を結ばない者もあろう。だが自分は退いてはならない。なぜなら、自分は彼らを愛しているからだ。彼らの忠実な友でありたいからだ。愛する以上は彼らに苦労をさせなくてはならない。(p.226:陳蔡の野)
・わしの肉体を生かすために、わしの大切な精神を殺さないようにしてくれ。(p.239)
・しかし、自分はこれで死んでいいのか。顔回亡きあとに、真に身をもって道に奉じ、玲瓏として仁に生きる者が、今どこにいるのだ。道は言葉ではない。真理は概念ではない。自分の後世に求めているのは、言説でなくて実行なのだ。もし自分がこのまま死んだら、自分はいったい、一生を通じて何をしてきたというのだ。自分はまだ死ねない。断じて死ねない。ただ一人の真の後継者を得るまでは(p.265:永遠に流るるもの)
・子いわく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず(p.267:泰山に立ちて)
#よく耳にするフレーズだが、この本の最後におさめられているのが、意義深い。
・わしとわしの信念とは、まだ真に一体にはなっていなかった。信念を信念と意識していたのがなによりの証拠じゃ。まことの信念は、信念を信念と意識しないまでに、その信念が自分に溶けこんだ時に得られるものじゃ。(p.283:同上)
・当時は、軍部に協力するいわゆる自称愛国者がエリートとされたが、湖人はその思いあがりをいましめ、あくまで誠実な凡下の庶民の育成を真の教育とした。その教育のモットーは、「地下水」「縁の下の力持ち」「白鳥芦花(ろか)に入る」「善行轍せきなし」などで、湖人は当時の学校教育を切花にたとえ、ここでは雑草の根につちかうのを真の教育としたのである。(p.291:「人生の案内者 下村湖人」より)
<きっかけ>
人間塾 2013年3月課題図書” -
2015.6.15儒学の教典であり、紀元前4〜500年頃に生きた、孔子の言葉をまとめた論語。それを物語風にした本。序文で著者により書かれた、論語は天の書であり地の書であるという意味が、最初はわからなかったが、読んでみてよくわかった。言わば孔子は、すごく徳を積んだ、おじいちゃんだったのだと思う。決して神のような、高嶺の花のような存在でなく、ただ天に従い、その天が作った人間として、どこまでも人であろうと、人として善く生きることを極めた人だったのだろうと思った。ここからは勝手な解釈を書きたい。まずひとつに、善く生きるためにまず必要な条件として自己が満たされていることが大事ではと思った。自分を愛しすぎる人間には人を愛することは中々難しい。徳も同様である。そして徳は、それ自体が目的、コンサマトリーでなければならない。仁義、礼、智、信、すべて、それ自体が目的であり、それを行うことが喜びである、という段階になければその実行は難しい。徳の実践が、虚栄心を満たすとかいう利己的なものであれば、見た目には君子でもそうではないのだろうと思った。自らの喜び、幸せ、安心が、常に他者の幸福の結果として成り立つようなものこそ、徳と呼べるのではないか。他者が幸福で自分が不幸、または自分が幸福で他者が不幸、ここに徳はない。その意味での徳を身につけるための方法として、人間の観念や情動を形成するための習慣、教育の大切さ、そしてその習慣を選ぶ理性という、人間の可能性を見出せる気がする。まずは自らを満たすために学び、そして徳を身体化していく。そのためには学ぶこと、実行することが欠かせないのだろう。読みながらまるで老人の話を聞いているかのような気分だった。こんな親近感を感じさせる、教典のようなものは初めてで、人生の書になる一冊だと思った。
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物語として読めるので分かりやすいし、感情が感じられて面白い!
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現代語で描かれた論語。漢文では堅い印象だった孔子がここでは活き活きとしています。
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読みやすい論語、孔子の口調が説教臭く少し抵抗あるも概ねの部分は共感出来る。
印象的なワード
朝に道を聞けば夕べに死んでも悔いはない。
永遠は現在の一瞬にある。刻下に生きる心こそ永遠に生きる心。
なぜ君はそんなにクヨクヨするのじゃ、それは君が君自身を愛しすぎるためではないかな。 -
論語に記される言葉を、物語にしてわかりやすく説明されていて、自分の理解がいかに表面的であったか身に積まされると同時に、深い感嘆を覚える作品でした。
著者プロフィール
下村湖人の作品






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