- Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061588103
作品紹介・あらすじ
日本の農山漁村は昔から貧しかった。そして古い時代からこの貧の問題の根本的な追究が欠けていたのではないか、と著者はいう。本書は、とくに戦中・戦後における嫁の座、私有財産、出稼ぎ、村の民主化、村里の教育、民話の伝承などを通して、その貧しい生活を克服するため、あらゆる工夫を試みながら精いっぱいに生きる庶民の姿を多角的に捉えたものである。庶民の内側からの目覚めを克明に記録した貴重な庶民の生活史といえよう。
感想・レビュー・書評
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2013.8記。
明治生まれのある村人の話。
村では中級程度の農家だったが、小学校卒業させてもらうのが精いっぱい。野良仕事の終わったあと、四里の夜道を走って街に出て農業技師の指導を毎日1時間受け、また走って帰った。それを4年続けて、自分の村の湿田も改良すれば乾田になると知る。並々ならぬ苦労をして暗渠排水工事をやり遂げ、田はすべて乾田となった。すると今度は夏の用水がいる。池の堤を高くして水を蓄える作業が必要になる。こうして作った土地を地主から買い取り、念願の自作農となる。乾田になると農道をつけられる。農道を作るからには車が通れるようにまっすぐ道を引きたい、つまり区画整理がはじまる。経営が進むと簿記の勉強も必要になる。
こうして「・・・しごとはつぎつぎに順を追うて展開していった。・・・いよいよ責任はおもくなって、ついに村長にまでなって村の世話をつづけている。私はこの人の姿に、ほんとに日本のすぐれた農民の姿を見るように思う」。
宮本氏の著作を読むと、どれもなんだか胸が熱くなる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
とても感銘をうけた。宮本常一が1961年に書いた本で、村に住む庶民の生活や苦労が旅で出会った実例を通して語られていて迫力がある。日本人の昔からの智慧にであえる本。農村の「寄り合い」は戦前戦後にかけて年に60~70回もあり、300~400時間あまりも話し合いに費やした。「話し合い」は全員が反対しなくなるまで、「心を溶かしあう」作業であり、多数決はとらない。ミカンの害虫(カイガラムシ)に新しい消毒方法を取り入れる話がリアルである。まず、今までの方法では駆除できない害虫が発生する。青酸化合物の消毒が効くということになり、村で導入を決めるが、一部の農家は費用負担に耐えかねてできなかった。そうすると、消毒しなかった所からまた害虫が発生する。二度目は費用を出せない所にも「一斉作業」したのだが、今度は周囲の村から害虫が侵入する。三度目には「費用を出せない所もやってもらえるなら、うちも費用はださない」といいだす所がでて、紛糾する。宮本は「(農民が)新しいものの理解のために払っている努力は、前衛と自称する人々以上に大きい」とする。ひとりだけ豊かになろうとするのではなく、「村を同じ高さに押し上げよう」とするからだ。これはとても難しい作業だ。ひきずる生活がない知識人や「前衛」は勝手に「農村は封建的だ」と言い、片方で貶しながら、味方のふりをする。農村というのは同業者集団であり、みんなが同じように進まなければならない。また、悩みも一緒なので、誰かが代表者で外部にいえばいいので、出しゃばらない。これが日本人の公の場で発言をしない性向をつくっているのである。言葉の研究では、「ムコ」が「迎える」から来ており、労働補助の男子。「ヨメ」は「結い女」であり、「結い」(ユイ)とは労働交換である。また、一人前の定義は村の教育では非常に具体的で、力なら俵を一俵背負える程度、夜なべ仕事にワラジ三足などである。「ヘソクリ」は婆さんの私有財産だか、主に葬式代であった。貧しさから子供を間引いた老婆が自分の寝室の床下に間引いた子を産めていたという話は胸をつくもので、「死んだら、極楽には行かず、賽の河原で子供達と石をつみます」といっていたそうだ。宮本はこうした人々を非難するのではなく、「与えられた状況の中で精一杯愛情をもって生きていた」としている。基本的に庶民はやさしくてたくましいのだ。
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名著と言っていいのではないか。私たちが学んできた「歴史」と呼ばれるものは、祖先が暮らしてきた社会の変遷の、ほんの上澄みをすくい取ったに過ぎないことを思い知らされる。
巻末の解説に引用してある次の文章が、宮本常一の依って立つところを明確に表している。
“一般大衆は声をたてたがらない。だからいつも見過ごされ、見落とされる。しかし見落としてはいけないのである。記録を持っていないから、また事件がないからといって、平穏無事だったのではない。孜々営々として働き、その爪跡は文字にのこさなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、そのほかあらゆるものにきざみつけられている。”
私はこれまで、明治期に始まった学校教育制度は肯定的に評価されるべきものであると考えてきた。だが物事にはやはり表裏があるのであって、確かにそれは全国津々浦々の子ども達の資質向上に大いに貢献し彼らの人生を豊かにしてきたことは間違いないが、富国強兵政策の一環として推し進められた結果、それは同時に、各村落共同体が古くからそれぞれ持っていた地域で子どもを育むための「仕組み」を廃れさせてしまった。
政治家や官僚や進歩的な人々から、「封建的」「遅れている」と一方的に決めつけられ、強圧的に変革させられた農村。それがために地域社会から失われてしまった何か。夏目漱石が『三四郎』の中で広田先生に「滅びるね」と言わしめた由縁であるところの何か(たぶん)。その痕跡を、宮本常一は戦前戦後を通じて温ね歩いたのだと思う。
そして、彼が私達に託した膨大なレポートを、どのように次代に活かしていくのかという問題が、いままさに私達に課せられているのである。
最後に、私がいちばん好きな個所を紹介して終わりにしたい。
“汽車に乗って山陽線をゆききするとき、車窓からの風景を見て、私は日本の風土に限りなきしたしさを覚える。何という平和で明るく律儀な人々の住んでいる国だろう……と。とくに汽車が三原から西条高原をこえて海田市へ出るまでの間の風景は好きだ。美しい藁屋根と細い柱、ぬれ縁、障子ばかり多くて壁の少ない家、それが点々として棚田のそこここに散らばっている。瓦葺きのものは赤褐色なのが多い。この瓦は八本松あたりののぼりがまでやいている。あんなに開放的に思い思いのところに家をつくって住んでも、迫害をうけることもなければ泥棒もはいらない。夏などはろくに戸もしめないでねている。” -
NDC(8版) 380.4
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歴史の陰に隠れ、これまであまり日のあたらなかった庶民の生活。
封建時代の意識の強く残る時代、珪砂的な環境のなか貧しい生活を、人々がどんな生活の知恵で乗り越えていたのか
民俗学者として日本の隅々まで歩きまわった著者が、権力に虐げられてきた人々に、あたたかい視線を向ける -
聞く人がいて、語る人がいる。
宮本常一氏の作品の背景には、いつもこの豊富なやり取りが背景に想像される。
民話はただ採集されるだけでなく、その語り手の生活をも考慮しなければならないという、民話に関する章においてそれを特に強く感じた。 -
解説:田村善次郎
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学問的にあまり光が当てられてこなかった「庶民」の生きざまを、全国の農村漁村を巡った著者の経験をもとに、複数の観点から述べた本。
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電子ブックURL↓
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