- Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061589025
作品紹介・あらすじ
『教行信証』は、浄土真宗の教義の根本理念を述べた書である。親鸞はいう、浄土の真実の心(浄土真宗)を考えるとき、如来の恵みによって与えられた浄土に生まれるすがたには、真実の教と行と信と証とがあると。本書は、親鸞研究に深い理解と見識をもつ著者が、難解な書とされる『教行信証』6巻の中から親鸞の言葉や教えを抽出し、その真意を平易に解説した。親鸞の思想と信仰の核心に迫る好著。
感想・レビュー・書評
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親鸞の『教行信証』のなかから、テクストを引用し、現代語と著者による解説を付した本です。
タイトルには「入門」とありますが、親鸞の思想にすこし触れてみたいという読者には、多少敷居が高いと感じられるかもしれません。すでに概説書などで親鸞の思想の概要を知っていて、自分で『教行信証』を読み解こうとする読者にとっては、有益な内容ではないかと思います。とくに、『教行信証』のどこに、解釈上の論点や親鸞の思想を理解するための要があるのかわからないというひとにとっては、著者の綿密な議論の展開を追っていくことで、『教行信証』を読むということがどのようなことなのか、理解できることができるはずです。紙上で、著者による講読の授業に参加しているような気分になりました。
ただし、いちおう入門書という体裁になっているためか、あまりに立ち入った議論は割愛されているところがあります。たとえば著者は、親鸞にとっては信心が主、念仏が従であり、そのことが「正信偈」の呼称をめぐる経緯に示されているとの得ていますが、これについてのくわしい説明はなく、著者の『苦悩の親鸞』(有斐閣)を参照するようにと指示がなされているにすぎません。これについては、概要だけでも解説してほしかったという気がしないでもありません。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
p118 自分には浄土門は役に立たなそうな気がする。親鸞自身が阿弥陀を信じるのに必死すぎる上、実感できないものを信じろと言われても。噛んでも噛んでも一向に腑に落ちない、そんな感じ。
p129 阿弥陀が利他の本願を立てたなら、衆集はそれを知ろうと知るまいと救われる運命にあるはずである。悪人正機の悪人とはそれを知りつつ、それを疑う者である。称名とはそれを知って歓喜する者が阿弥陀を称えるのである。
つまりは本来、衆集に信心や信行は必要ない。
教団の必要性があるとすれば迷う者にこの如来の本願を伝える一点に尽きる。
しかし迷う者である凡夫が単純にそれに納得し、救われる事は少ないだろう(そんなにバカじゃない)。凡夫自身の問題として、それに賭ける覚悟が必要となる。ここに初めて方便として、実感を得るための手段として信心や信行が使われることになる。
これが果たして他力であり、易行であると言えるのか?
むしろその解決を外部に預ける分だけ、危うい選択肢の様に見えてならない。
p204 どうも問題として扱っている対象が自分自身ではなく阿弥陀になってしまっている印象を受ける。問題がここにはなく、あちら側にある。こちら側の問題はいつまで経っても置き去りにされたままで解決の方向に向かわない。だから腹に落ちない。所詮、人間の作った創作なのだが、一向にこちらに向かってこない(回向しない)。
p229 悲しきかな愚禿鸞。
p270 うーん、親鸞は転入できたのか。
著者プロフィール
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