- Amazon.co.jp ・本 (390ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061589209
作品紹介・あらすじ
なぜ人間は遊ぶのか。人は夢、詩、神話とともに、遊びによって超現実の世界を創る。現代フランスの代表的知識人といわれるカイヨワは、遊びの独自の価値を理性の光に照らすことで、より豊かになると考え、非合理も最も合理的に語ってみせる。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。遊びの純粋な像を描き出した遊戯論の名著。
感想・レビュー・書評
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思ってたのと違いました。
エンターテインメントに関する論文。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
遊びについて、先人のホイジンガの説も取り上げながらその分類や文化との関わりについて述べられた本。文章は非常に難解であるが、特に文化に関する分析は興味深い。多くの地域の事例を基に示された、ミミクリ・イリンクスの原始的文明からアレア・アゴンの秩序文明への改革のくだりは、遊びに対する新たな一面を気づかせてくれた。
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○ホイジンガ―を批判的に検証しつつ、
遊びに「眩暈」という観点を追加。
・遊びは不毛。何も生み出さない。無償性。
・「遊び」の定義
1)自由 2)隔離 3)未確定 4)非生産的
5)規則的 6)虚構 ~の活動
・遊びの分類:
1)競争 2)偶然 3)模擬 4)眩暈
○「眩暈」が遊びって面白いなー。酒を飲むこともそうなのかも。
・遊びには、観衆の存在が必要。
・遊びの安定性は著しい。遊びが重要でないからこそ恒常性をもつ。
・成人儀礼とは、無神論的、不可知論的、否定的な教育である。
ごまかしの種を明し、片棒を担がせる。
・人が計算通りに動かないところに、遊びの究極の要素が存在する。
・どういう人を立派な遊技者というのか。それは、次のことを
わかっている人だ。
不測の事態を、好んで求めたとは言わずとも、進んで受け入れて
きたのだから、不運に文句を言ったり、不幸を嘆いたりする権利
は自分にはない、ということの分かっている人である。
たとえ負けても、自分にとって遊びは遊びだ、という態度の
とれる人のことだ。
○これかっこいいな~。そうあれたらいいな。 -
遊びを紐解く良著な気がした。
本書書かれた時代から随分時は流れ遊びも多様化したが、本質的には変わっていないだろう。 -
ううっ
遊びを、ルドゥスとパイディアがあるとして、遊びの中のアレア(あてっこ系)、ミミックリ(真似っこ系)、イリンクス(ぐるぐる系)、アゴーン(喧嘩系)それぞれにさう言ふのがあると分析。
本著に出てくるナニがー、北欧とかから輸入されててー嫌。 -
テーマはひきつけられるんだけど、議論の仕方には物足りなさを感じました。図式的に定義をして、その図式にあわせて事象を解釈している気がして、どうにも不自然な印象をぬぐい切れませんでした。社会学といいながら、遊びについての間主観的な観点についての考察が薄いような…。これはあくまで印象論だけなので、具体的な展開を想定しているわけではありませんが。(2017年11月9日読了)
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遊びの原理的な部分が解説されている。
4つの遊びのタイプの組み合わせが書かれている第2部は考えさせられることも多い。
筆者には”遊び”の地域性についても考察して欲しかった。 -
まじめに遊びを考える一冊。
遊びを1.アゴン(競争)、2.アレア(運だめし)、3.ミミクリ(模擬)、4.イリンクス(目眩)に分類し、世界中のサンプルを当てはめ検証す る。まさに女の子がする「ままごと」なん てミミクリまんまっすよね。
遊びによって文化が始まるのではなく、遊びの中に文化があるとは至言ではないで しょうか。
見返りや目的といった制約を越えて遊ぶという究極に、「思いで作り」の儚さや脆さと儚く脆いからこそ、一瞬に永遠を求める人の姿を見た気がしました。 -
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』をうけて、「遊び」の定義をより広く、より細かくとるべきと指摘した一冊。
アゴン(競争)、アレア(賭け)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)の四分類と遊び手の姿勢を表すルドゥスとパイディアの二分類。
本書では主に前者の四分類に焦点を当て、遊びの分類を示した後は、文明の発展とそれら四分類の結びつきを論じている。
ミミクリとイリンクス、すなわち宗教的な儀式やそれに伴うある種のトランス状態が社会を動かす前近代、そこに理性が加わることで自らの手による能力や地位によって社会的な地位を得るアゴンと生まれつきの身分差や能力の差を左右するアレア(運)的な要因が近代的な社会において重要視されている、と論を展開。
遊び論というよりは遊びを用いた社会学といった印象。
訳が読みづらい。
訳者解説は未読。
著者プロフィール
ロジェ・カイヨワの作品





