- Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061589988
感想・レビュー・書評
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大学時代の愛読書。
メモを取りながら何度も読んだ。
大学1-2年生を相手にした廣松助教授による「哲学概論」の講義も熱心に聴講した。
講義中に「わたしは革命家ですから、一生独身です」と高らかに独身宣言をしていたが、訃報の記事を見たら、結婚していた。
60歳で亡くなられたのにはショックを受けた。
あまりに早すぎる。
本書により、世界が「共同主観的に存在」していることを知り、全く新しい見方=事的世界観の提示に興奮した。
存在が四肢的構造を有し、独立自存するものではないこと、全ては関係であること(「関係の一次性」)
に衝撃を受けた。
存在の謎に初めて触れた瞬間だった。
廣松の著作はどれも初めはとっつきにくいが、一旦廣松ワールドにハマってしまうと難解と思われた廣松名彙に言いしれぬ愛着を覚えるようになる。
ドイツ語に加えて漢語を多用し、章立て、項立てが、綺麗に同じ長さに整えられている偏執狂的編成にも心惹かれた。
廣松が愛用する漢語、「剰え」「就中」「恰も」「所以」「畢竟」「苟も」「茲に」「却る」「嚮に」「扨」「啻」等々は、まるで「東大王」に出題される難問漢字のリストアップのようだ。
最初は、汗をかきながら漢和辞典のお世話になるが、一度理解すると、この漢字を使いたくなるから不思議だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本哲学界の巨人廣松渉、必殺のデビュー作である。
主観客観図式。他我問題というアポリアをも生み出すこのパラダイムにこそ、現代における科学および哲学の閉塞状況は淵源していると廣松は冒頭で宣言する。主観客観という構図に異議を申し立てた哲学者はむろん廣松が初めてではない。しかしそれに代わる新たなパラダイムを打ち立てようとした(そして現に打ち立てた)のは、国内では後にも先にも廣松(そして大森荘蔵)だけではなかったか。
認識の場面において、認識される側は「それ以上の或る物」として、認識する側は「それ以上の或る者」として現象する。主観の各私性はこの共同主観性によってまず解除される。さらに主客それぞれの二肢性を併せて成立する四肢構造は、まず関係があってしかる後にそれぞれの項が決まるという点が重要である。関係の第一次性、物より事の方が存在論的に先立つという事的世界観等、廣松哲学はこのデビュー作においてすでに完成の域に達している。
岩波書店版『廣島渉著作集』の第一巻冒頭に収められている本論文は廣松の代表作であり、未完に終わったライフワーク『存在と意味』よりもはるかにコンパクトに、しかも廣松哲学のほぼ全論域がまとまっている。常用範囲をはるかに超えた漢字を多用するその強烈な文体から、拒絶反応を起こしてしまうのはあまりにも勿体無い、日本哲学界の至宝ともいうべき古典的名著である。 -
名著
要再読 -
[ 内容 ]
廣松渉は、思想としての近代とはなにか、近代を超克するとはどのようなことがらであるのか、を哲学的に問いつめる。
その若き日の主要論文をおさめたこの書は、「大きな物語」の終焉がささやかれる現在においてなお、新鮮なかがやきと衝撃力をうしなっていない。
否、思想的指針の一切を喪失したかに見える今日にあってこそ、それらの論考の課題意識が十分にふまえられてなければならないとおもわれる。
[ 目次 ]
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
『ぼくらの頭脳の鍛え方』
文庫&新書百冊(佐藤優選)182
マルクスと資本主義 -
日本の思想を勉強しようとする時、この本は丸山真男や市川浩などの著作同様にマストアイテムだろう。
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2冊目の廣松渉。「事的世界観」の前に来る哲学的な基本書と思われる。
特に第1部の諸論文はおもしろく、「現象(フェノメノン)」とその認識をめぐる問題圏に鋭く肉薄している。
「主観/客観」という二元論に基づいた近代哲学を脱却するため、個としての主体を超え、「共同主観」を提唱する。たぶんここから「社会」という概念に伸展し、マルクス主義的な視野へと変移していくのだろうなと思う。ただし、廣松渉のマルクス関係の書物はまだ読んでないのでわからない。(マルクス主義そのものがもともとあまり好きになれないので、マルクス関連の書物を、私はこれまで避けてきたのだ。)
論旨にはときどき、反論したくなる部分が見られるが、この深い思想内容を、もっと十分に把握してからでなければならないだろう。
ともあれ、とてもよい、頭脳を悩ませながら耽読するに値する哲学書だと思った。 -
著者は哲学者で、言葉が難解なので、有名だが(笑)
認識論に基礎を置く、著者の立場を考えれば当然だ。
共通認識によってしか通用しない言語で、彼独自の
認識地平を切り開くことが、そもそもが無理なのだ。
その無理を試みた結果が、難解になると推察される。
その思索の、中心部分をなすものが、本書であろう。
廣松さんの「主観」からは「存在と意味」だろうが
読者が廣松哲学を理解するには、本書が最適だろう。
廣松渉の作品






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