- Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061590014
感想・レビュー・書評
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p.1991/11/12
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数十年ぶりに再読。気の利いたことを断定的に言ってのける、そんな俺ってカッコイイ、と思っていそうな文章。言葉遣いはキャッチ―で、コピーライターの才能は確かにある。だから時代の波に乗れたのだろう。しかし、本書の実態は、単なる感想文であり、なぜかよく分からない八つ当たりであり、知的意匠をまとったハッタリである。
(追記)このように、読者も柄谷行人風の物言いにさせてしまうような魅力を持った文章だということも言えるのかもしれない。やくざ映画を見終えた観客が肩で風を切って映画館を出てくるように(笑)。 -
”だが、それは”もの”として恐ろしいのではなく、意識しようとしまいとそれが媒介的に意味するわれわれの生の条件が恐ろしいのである。ところが大江氏にとっては、原爆という”もの”が直接性として恐ろしいのだ。”(p13.6)
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柄谷行人 「 反文学論 」70年代後半の文芸時評。文学にそれほどの価値を見出していない 著者だから書ける 痛烈な批評。
「文学批評は 現在の知の総体における重要な実験室」
「小説は中年の仕事〜ガキの書くものなど うんざり」
新人作家などへの批判点と 中上健次、田中小実昌 の評価点が、著者の論理的思考に近づく方法だと思う。著者が文学や作家を評価するポイントは
*言語の肉体性
*詩的凝縮である平淡な叙述
*過去を 地平の自明性(潜在的に当たり前と考えられていること)を転倒するために書く
*作家は一つの病気と生涯 関わり続ける
吉本隆明「戦争の不可避性と不可能性」
戦争が不可避なのは明らかであると同時に 戦争は不可能そのものの現れである
坂口安吾「堕落論」
堕ちよ と叫ぶ言葉と裏腹に 倫理的な書。道徳的な人間が荒廃とみる現実をこうてしようとする価値転換がある
フロイト「遊びの反対は真剣ではない、現実である」 -
柄谷氏が投げかけたいことは大体わかるし、あらためて学ばされるものもあった。ところが私がこの本にいちばん惹かれる部分は何より氏の文体である。人柄と言ってもいい。断言的にあーだこーだとバシバシ論じる口調は実に小気味よい。
“もしかしたらわたしは深読みしすぎているだけかもしれないが、しかし私は深読みさせる作品にしか興味が持てないのである。”(108、109ページ)
というくだりには体が軽くなるのを感じがした。
“私は小説はもともと「中年の仕事」だと思う。率直にいえば、ガキの書くものなどもううんざりである。”(218ページ)
言ってしまった感はあるが、「“新しさ”について」という章の中で賞レースに固執する若手作家志望をバッサバサと斬っていく姿は清々しい。
そして「今月はこんなのもよかったので名を挙げておく」といったように、詳しく読み解く作品の傍らで雑に紹介される作品たちがなんやら哀れで可笑しい。まだ良くないとされる作品のほうがそれなりと“理由”を持たされているのに。
これは後に『探求』の批評家となる柄谷行人の前夜であるが、その片鱗というか凄みみたいなものが既に宿っている。小説中心主義である私が反文学論反論など唱えてみたところでぶった斬られるがオチである。また一つ景色の広がる思いである。 -
2010/12/11
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大学時代の友人に勧められて読んだ記憶がある。
ここに記されていた「書きたいことがなくなったときから、作家は書き始める」という古井由吉の言葉が
いつまでも頭の中に残っている。
2002年6月3日読了 -
手もとの本は、1991年刊行の講談社学術文庫版。底本は、1979年、冬樹社刊行の単行本。1977年〜1978年中、東京中日新聞などでに掲載された、いわゆる文芸時評が採録されている。文庫本解説(島弘之氏)によれば「柄谷行人唯一の文芸時評集」。
本文末尾に収められた、22「理論について−−あとがきにかえて」によれば「私はこれらの文章を本にするつもりで書いたのではなく、書き捨てのつもりで、とりとめもなく書きつづけてきたにすぎない」とのこと。
著者自身による「講談社学術文庫版あとがき」によれば、「この本を出すとき、私はためらったおぼえがある」とのこと。しかし、「十数年ぶりに読み返してみると、案外に面白かった。それは、この時評を書いた時期が、『近代文学』の終焉がはっきりする転換期だったからである。」とも。
著者プロフィール
柄谷行人の作品






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