探究(1) (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061590151

作品紹介・あらすじ

本書はあるいはに関する探究である。著者自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味すると同時に、知の領域に転回をせまる意欲作。

感想・レビュー・書評

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  • 柄谷行人を読むと、確かに何かつかめたような気持ちになる。でも、それははかなく終わる。たぶん柄谷行人は(坂口安吾やウィトゲンシュタインと同じで)「考えるヒント」を出す性格を保持しているのだろう。彼の思考が忠実にヴィヴィッドにトレースされたこの本を読むとそうした「ヒント」をつかめて、たしかに何かを得られたように思える。だが、それは「ヒント」にすぎない。そこから単独者として何か自分の哲学なり文学なりを始める存在は他でもない、柄谷のテクストを読んでしまった自分なのだ。その主体性を再確認して読んでこそ味が出る1冊だ

  • 「彼が斥けたいのは、私自身の『痛み』の確実な経験から、『他者の痛み』を推論するという考え方なのだ。『他者の痛み』は、論理的な証明の問題ではありえない。彼が私的言語を斥けるのは、それが他者の問題を自己の『内的状態』から出発して推論的に考えるようにさせてしまうからである」(p.226)私たちが普段考える他者の声は、実のところは自分の声である。自分自身も含めてわかり得ないものをさもわかっているような口をきく行為に些細ではあるが、違和感を持っていた私の心理状態を非常に明瞭にしてくれた一冊。また、マルクスの古典経済学派批判を用いて《他者》の他者性を論じた説明はとても面白く、納得させられた。

  •  柄谷は他者と《他者》を区別し、前者を自己との対称性に基づく他者、後者を自己との非対称性に基づく他者と定義する。柄谷によれば、内省から出発する従来の哲学は自己と他者の対称性を前提とする「話す‐聞く」モデルを暗黙のうちに採用しているが、そこで見出される他者は自己と同じ言語ゲームに属している他者であり、結局のところ他者はもうひとつの自己にすぎなくなる。その点で従来の哲学はモノローグ的な独我論におちいっている。
     それに対して柄谷は、自己と他者の非対称性を前提とする「教える‐学ぶ」モデルに依拠することで《他者》、すなわち他者の他者性を回復させようと試みる。この《他者》は自己と同じ言語ゲームを共有しない他者であり、自己の外部に位置する他者である。このモデルにおいては「教える」自己と「学ぶ」他者のあいだに根本的な非対称性(「命がけの飛躍」)が措定され、そこではじめて非対称的な自己と他者とのあいだの対話(イロニー)について考察することが可能となる。
     柄谷はこうした独我論から対話へのモデル転換の契機をデカルト、キルケゴール、マルクス、ウィトゲンシュタインのなかに見出す。その論理的切り口と接合方法は鮮やかで、現在、独我論や他者といった問題を考えようとするなら、この著作で提起された視点を避けて通ることはできない。

  • 連想に裏打ちされた放恣な論理展開と飛躍。理論書としての体裁は確かに逸脱しているのかもしれない。
    しかし、ウィトゲンシュタイン、それを援用したクリプキの言説に依拠しつつ、マルクスをカントを召還し「他者」とのコミュニケーションの場面に出来する「暗闇の中の根拠なき跳躍」を描く。「他者」を「他者」として歓待すること。ここに倫理がある。

  • "書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している。"
    タイトルが「探究」とあって、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』からの影響が大きく感じられる。言語ゲーム、内的な意味概念の批判、規則の使用説などを、ソシュール言語学と比較し、デリダの批判を参照しながら、ポストモダン的な他者概念に向かってゆく。マルクスの価値形態論は、『内省と遡行』から引き継いでいて、後期ウィトゲンシュタインからマルクスを読み直す意味で『内省と遡行』を批判しており、『論理哲学論考』を『哲学探究』で批判したウィトゲンシュタインと重ねているところがある。本書を通した目的としては、『内省と遡行』で徹底した形式化・内省が立ち行かなくなり、その原因を他者性の排除だったとしているところに主眼があるといえる。そして『内省と遡行』中断後、沈黙したあとに書かれた本書そのものが「命懸けの飛躍」として社会性を帯びている。以下要約。
    語る-教える意味が他者にとって成立するときのみ、文脈、言語ゲームが成立する。この神秘的社会的実践的な交換(コミュニケーション)の命懸けの飛躍・暗闇の中での跳躍のあとで、規則、コード、差異体系、学問が説明される。この意味で、他者とは、自分が想定(内省)したものではなく(独我論に陥る)、全く自分のことを理解しえない、想像を超えたものである。したがって、体系を内省する構造主義だけでなく、それを前提して動的な体系を提示するポスト構造主義をも批判する。
    そして、今度は逆にウィトゲンシュタインの使用説を、マルクスの価値論に重ね合わせる。価値(意味)は、言語(貨幣)に内在されているものではなく、他者に向かって発話(売る)されるときに、あとから規則化(等置)される。合理性が覆い隠す、慣習にひそむ社会的過程の神秘性。
    そこから、貨幣の他の商品と異なる直接的交換可能性の神秘的な力の解釈へと及び、『資本論』価値形態論から、貨幣獲得の自己目的化の運動を読み取る。そして、現世に無欲な信仰者と対比しながら、守銭奴が共同体外=流通の世界において、売る立場になることを避ける、実存的な問題へと繋げる。
    また、キルケゴールのキリストという神でも人でもない別の世界と、現在において信仰する単独者の接続点としての他者論を、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの外部・複数性と重ねる。さらには、カントール集合論にはじまる数学基礎論の危機、すなわち実無限の問題に接続する。フレーゲラッセルらの体系構築が、他者性を無視することであることを見る。平行線の無限遠点での交差という非ユークリッド幾何学の説が引用される、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンと結びつけ、キリストという存在の事実で多重化する世界を、交差点とキリスト二つの他者論で、キルケゴールと同じ問題を抱えていたことを示す。
    終盤では、レヴィナスを経由して対話を、外部的な他者との向かい合いを対関係、共通項を前提する弁証法的なもの(独我論・内省)を一般的関係と整理した上で、共同体から排除されたソクラテスの方法論イロニーを、対関係とする。他者性の排除が、プラトン的な体系知を作ったことを明らかにする。
    ちなみに、東浩紀の『観光客の哲学』の構成は、本書を下敷きにしているといえる。他者論、ウィトゲンシュタイン家族的類似性、数学論、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、精神分析。
    ・1他者とは何か
    『哲学探究』言語を理解しない外国人の次元、語る聞くから、教える学ぶへ。①コミュニケーションに問題がない子供の習得とは異なる。②教える側は、学ぶ側の合意を要する奴隷。マルクス、売れなければ商品に価値はない。売れるかどうかは命懸けの飛躍。言葉も受け手が意味を認めねば成立しない。デカルト主義は内的確実性を出発点とするが、言語を理解しない外国人には私が疑っているということが伝わらない。哲学も内省から始まるがこの態度変更が必要。
    教える学ぶの非対称な関係は、外国人、子供、精神病者だけでなく、通常のコミュニケーションにおいても基礎的事態で、その後に規範的なケース、つまりノーマルな対話の方が例外的である。これは、自己対話モノローグを規範として考えられているから。対話は、言語ゲームを共有しない者(他者)との非対称な関係にのみある。プラトン的内省には他者がいない。私に言えることは万人に言えることだという考えが独我論。この批判には他者、異なる言語ゲームのコミュニケーションを導入するよりほかない。
    デカルトは、共同体における真理が、それぞれの言語ゲームに基づくものにすぎないとする。差異性他者性が出発点。疑う主体は共同体(言語ゲーム)の外部に出ようとする意志、精神である。思考する主体は言語ゲーム内にあり、疑う精神は外部にあることから、己の実存を「われあり」と呼べる。ただし、デカルト「主義」は疑う主体と思考主体を同一視しているので誤り。デカルトにとって、亡命先のオランダは世界最大の商業都市かつ砂漠であり、マルクスにとってのロンドンと同様に、交通(コミュニケーション)の場としての砂漠。疑う主体は、私的な単独者。コギトの明証性は、それ自体では不確かである。カントやフッサールにとって超越論的主観は、疑う主体ではなく、考える主体、万人の基底。しかし、疑う主体は、単独の外部性。神が保証するとデカルトは考えた。カントはこれを存在論的証明として捉えてしまい、批判した。
    →通俗的なわれ思う故にわれありの理解はカントにある。
    デカルト、「私が疑うのは、不完全で有限だからであり、それは完全な他者、神があることの証拠証明である」。スピノザは、これを「われは思いつつある」にすぎないと注釈した。疑うように促す他者の存在があるということ。デカルトは主客二元論ではなく、むしろその確実性は共同体内の夢にすぎないと指摘した。★精神とは、考えることではなく、疑うこと、すなわち外部的であろうとする実存。★フッサールは、新デカルト主義を公言し、超越論的現象学において超越論的コギトから他我、共同主観性を構成するが、それはたんに自我の変様態にすぎない。ハイデガーの共同存在においても他者、交換=コミュニケーションはない。
    教える立場において、他者に出会う。抽象的な意味で共同体間での交換。相対的・等価の価値形態の非対称性。それはまた、貨幣(所有者)と商品(所有者)、資本と賃労働の関係に変形される。マルクスは、共同体の「間」の関係を社会的と呼んだ。
    マルクス、いかに複雑な過程でも、商品は単純労働を示し、その割合は社会的過程、慣習によって確定される。社会的なものとは、共同体間の交換(コミュニケーション)関係においてのみ言いうる。逆に、共同体とは、共同性によって言語ゲームが閉じる領域。★
    社会的関係が貨幣形態によって、あたかも対称的合理的根拠をもつかのように隠蔽されることが、物象化。★人が物の関係で現れることではない。マルクスは経済学において価値交換の非対称性が隠蔽されることを指摘した。非対称性(他者関係)の排除の独我論(モノローグ)の例として、ヤコブソン言語学(新・古典経済学)モデルは、メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)である。ソシュール言語学とフッサール現象学は、ともに厳密な学たることの問題に直面していた。語る主体の中にしか存在しないラングを、語る主体の意識に問い訊ねること、現象学的還元。しかし、ソシュールが目指したのは、意味(概念)と記号(音声)の結合ではなく、意味がどこかにある積極的なものと捉えることを否定すること。意味は、現象学のように明証性はなく、価値から派生するもの、差異でしかない。
    バフチンは、ソシュールを主観的言語学といって批判している。他者に語る主体から出発した。バフチン、言葉とは、私と他者の間の架け橋。フッサールの孤独な心的生活では、意味というものがない。一つの体系規則に吸収されない交換等置の交錯、社会的過程がある。共時的体系は、個人意識の現象学的還元において見出される閉じられたもの。「言語は自己差異化する差異体系である」というとき、ヘーゲル精神のように主体とみなされているが、他者とのコミュニケーションなしに言語が動くような神秘主義に陥っている。
    →内省と遡行批判。ウィトゲンシュタインの論考批判のような自己の理論の批判。
    ・2話す主体
    ソシュールの話す主体は、デリダ的に言えば、自分が話すのを聞く主体。構造主義は独我論的であるから、構造主義批判はフッサール批判から始まる。デリダ『声と現象』、現象学の明証性は自己への現前、自分が話すのを聞くこと、声は意識である。これは通俗的な音声中心主義批判ではなく、たんに哲学現象学が話す聞く立場にあるということ。自己への現前に先立つ痕跡差延の根源性。
    ウィトゲンシュタイン、動物は考えないから話さないのではない、たんに話さないのだ。つまり、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。自身が話すのを聞くとき感じるような、内的な意味などない。聞くまでの遅延、差異、デリダ的に言えば差延。話す立場というとき、実際は聞く立場に立ってしまっている。同じように、書くとき、その都度読んでいる。デリダは音声のみならず、書く読むも批判している。遅延が意識において消されてしまう。実際は、書くとき思いもよらぬ方向に運ばれながら、「意図」として回収される。自らの読解を示すには書くほかなく、さもなければ私的言語にすぎない。そして、同じ書く過程をたどる。
    "私はべつにこのことについてのべるだろう。ここでは、ただ、テクストそのものに「意味生産性」があるかのようにいう"神秘主義"をしりぞけておくにとどめる(テクストはまったく無意味である)。"『探究1』p35★
    話す書くではなく、教えるには、他者がある。デリダが強調する、テクストの外部性。クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』、語の新しい状況での適用は、暗黒の中における跳躍である、いかなる解釈もされうるのであり、適合も不適合もありえない。★マルクス、命懸けの飛躍。キルケゴール、質的弁証法、他者なき自己たらんとすることが死に至る病。キルケゴールに影響を受けたウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とは、宗教や芸術だが、後期にはこのカント的区別(事実判断と価値判断)は、いずれも言語ゲームに属するから、意味をもたない。★論理と倫理はいずれも、ニーチェ的に言えば価値の問題であるから、その区別は廃棄される。
    ウィトゲンシュタイン、探究101、論理学に曖昧さなどありえないと言うとき、ねばならぬという理想が混じっており、現実のものと錯覚している。論理学に価値判断が先行している。宗教的領域は、特殊なものではなく、共同体間の他者とのコミュニケーションに発する。日常の中のわれわれを理解しない他者。
    重要なのは、ウィトゲンシュタインの懐疑であり、態度変更。「石板!」も「石板をもってこい」も、たんに文脈によって決定されるような、共通する同一的な意味などない。ソシュールにとって、交通しうるのは、一つのラング(規則コード体系)を共有するからであり、コミュニケーションとはその意味でゲームである。しかし、ウィトゲンシュタインは、ゲームの規則は変更可能であること、結果に過ぎないこと、意味規則はあとからでっち上げられることを指摘する。生活様式が共通しているから、言葉の意味が成立するのではなく、逆に、言葉の意味が成立していると想定するから、生活様式が共通する。★
    ・3命懸けの飛躍
    現象学的な超越的な主体に中心化された、意味還元の差異的な形式体系(構造主義、システム論、情報理論)を批判する試みとして、外部性ではなく内部で、自己言及的な形式体系(自己差異的な差異体系)、リゾームがある。
    →内省と遡行の形式化の試み。
    しかし、これは結局は現象学的なあがきにすぎない。なぜなら、主体において構成された体系が変化することはありえない以上、言語が自ら活動するように神秘化されるからだ。ローティ『プラグマティズムの帰結』、作品(差異体系)、テクスト(自己差異的な体系)のテクスト論者=テクスチュアリズムは、フィヒテ-ヘーゲルのアイデアリズムと大差ない。カントの形式を動態化すれば、形式の自己差異化は必至で、自己や精神の自己運動を想定せざるをえなくなる。
    意識に立脚し体系を内部から脱構築するか、客観的外在的視点からモノローグ的単一体系を批判するか。しかし、このいずれも神秘=社会的なものに触れない。つまり、意味が他者に成立するかが問題。
    意味が他者に成立するときのみ、文脈、言語ゲームが成立する。この神秘的社会的実践的な交換(コミュニケーション)の命懸けの飛躍・暗闇の中での跳躍のあとで、規則、コード、差異体系、学問が説明される。★
    サルトル的な他者は、ヘーゲルの奴隷、すなわちもう一つの自己意識にすぎない。猫の眼差しでは、言語ゲームが成立しないから、対自存在を凝固させない。強迫的妄想、神のような声もまた自分の声である。自己が見通されるような他者を設定することは、注目されたくない分裂病的実存様式、すなわち自分であることができない状態。つまり、その他者は自己にすぎない。
    クリプキ、クワス算、解釈しだいで規則はいくらでも正解とみなせる。規則、語が意味していることを私自身は決められない、私的規則は不可能。
    ペテロ『新約聖書』、3度裏切るイエスの予言を否定するのは私的規則、実際の文脈において予言どおりとなり、暗闇の跳躍のあとで思い出して泣く。そして、予言もまた、あとから解釈されてのみ当たる。
    ウィトゲンシュタイン探究202、規則に従っていると信じていることは、実践的行為であるから、規則に従うことではないので、私的には従えない。
    この場合、ギリシア悲劇では無知による人物の行動と認識の引き受けとしてだが、キリスト教では規則に対する罰として認識される。したがって、ウィトゲンシュタインは倫理的、ギリシア悲劇的。たんに直視されるべき事実。
    マルクスの問いは、価値(意味)があるとは何か。価値の額は社会的象形文字に転化することで、人々が意味を付与する。労働が物の価値として変化するのではなく、物の価値から労働に価値をつける。生産物が等置(交換)されたあとで、共通の本質が想定される。
    マルクスの物象化されてしまう社会的性格。社会的とは、関係的の意ではなく、交換等置の盲目的跳躍。
    →数値化される前の価値が、物に変化することでその抽象性が隠蔽される。
    規則体系から始める新古典派経済学は、最大利益追求が均衡するゲーム理論を想定する。競争のゲーム、最大利益は、事後的な規則づけ。
    マルクス、労働の等置を意識しないが行う。フロイトの無意識もまた、ユングの規則と異なり、終わりなき分析であり、内省も客観もない。
    →フーコー『言葉と物』マルクス、フロイト評価。静的システムの批判。
    ペトロを罪とするのも無意識。社会的神秘が理論的神秘主義に変わる。ヘーゲル精神の運動の神秘主義。ヘーゲル、本質は結果において現れる。跳躍は盲目的多方向的だが、結果から全知の神、精神を想定してしまう。いずれにせよ、システムを想定すれば、日常的神秘を隠蔽する。
    ウィトゲンシュタイン探究124,125,126、哲学は推論も隠れたものを暴く説明もしない、新発見新発明の前に、「途方に暮れている」という形をとる。解決される前の、規則がうまくいかないような矛盾の展望が哲学。
    展望は、ニーチェの系譜学。遠近法パースペクティヴ(同一意味規則)に倒錯(不確定無根拠性多様性多方向性)を提示。規則を思いなすことに光明を投げかける。
    →ウィトゲンシュタインでニーチェを読む★
    跳躍を事後的に規則化するヘーゲル弁証法、不変の同一性プラトンイデア、西洋形而上学にとどまらない思考法。ニーチェ系譜学を可能にするのは他者(外部性)の導入。ニーチェ系譜学を、ウィトゲンシュタインのパラドックスから見ることは、ウィトゲンシュタインが語らなかったことを照明するかもしれない。規則がないということは、展望もありえないということ。規則的でない行為は、反復、永劫回帰。★
    ・4世界の境界
    クリプキ、私的言語論で否定されているのは、規則に従っているという私的モデル。
    ウィトゲンシュタイン探究では、痛みと数学基礎論の両極限が同列で扱われている。数学の対象が実在するかが問われ、ギリシア哲学が生じた。19世紀後半から言語を対象と無関係の形式的差異体系とみなされた。痛みの感覚言語も対象はない。
    ウィトゲンシュタインの批判は、社会規則への批判と、個人と社会の対立という思考への批判。規則は明示できない。他者に意味が承認されるときのみ、文脈、言語ゲームがあり、その限りにおいて規則に従っている。★言語ゲームの中にある我々の世界を疑うことはできず、疑うことは言語ゲームの中でのみ可能。
    →人の世界観は、言語で構成されており、疑うこともそれに属するから、その外から世界観そのものを疑うことはできない。★
    探究241正誤は人間の一致というよりも、言語において人間が一致し正誤が定まるから、意見(意味内容)ではなく、生活様式の一致。
    探究206、規則は命令訓練に似ているが、別様に反応すれば正しさはわからず、異言語においては人間共通の行動様式を見なければ言語を解釈できない。
    人間共通の行動様式があるから言語ゲームが成立するのではなく、その逆。
    →言語が共通するから共通の行動様式があるとみなせる。使用によって言語を理解できる。
    共通の生活様式の境界はたえず浮動している。チューリング、質問に対する反応が人間と同じなら、機械も考えているとみなしてよい。考えるとは計算する(規則に従う)こと。
    ウィトゲンシュタインにとって、動物とは他者である。自然科学とは異なる、自然史的な立場。マルクスの等置された価値形態は、商品関係を連鎖させるから、「拡大された価値形態」と呼ばれるが、それはウィトゲンシュタインの少しずつ類似するあらゆるゲームのような性質、家族的類似性と同じ。一般的価値形態(貨幣形態)という共通の本質があるかのように意識せず行われる。家族的類似性は社会的関係性にほかならない。
    探究415、提供するのは人間の自然史に対する考察だが、誰も疑わなかった眼前にあることの確認。
    ・5他者と分裂病
    ブランケンブルク、分裂病者は、現象学的還元を生きているのだ。しかし、それだけでなく、超越論的主観がなく、他者に向き合い言動する。ベートソン、分裂病は幼少期の家族関係において、「命令に従うな」というようなダブルバインド状態の影響を指摘。肝心なのは、ダブルバインドが他者への応答にこそ現れること。ベートソン、分裂病者は、自身の言うことが別のことを意味することを恐れる。つまり、交換が命懸けの跳躍であることを知っている。
    →ドゥルーズガタリ的な分裂病分析
    ベイトソン、分裂病者は、担当医が遅刻したことを暗喩的な例え話で非難するが、暗喩でわからせるために奇想天外な内容にする。ブランケンブルクのように聞く立場、現象学的還元懐疑と、ベイトソンのように教える立場、いずれも徹底化したときに分裂病に似てくる。現象学、言語ゲームいずれも極限。
    バフチン、「ノーマル」な対話は独白。プラトンの対話は一つの声。『ドストエフスキー論』、登場人物は、他人の言葉を先回りするように言い訳をして話の腰を折る。
    相手が言い返す前に先取りして否定して喋り続ける。独白であるが、対話的、他者に向けられている。何かをいうことが別のことを意味すること、意味が他者に依存してしまうこと。意味と記号が一体である、実在しない内的な世界に引き込む。
    オースティンから始まったというべき日常言語学派は、ウィトゲンシュタインの懐疑が欠如している。「歴史に意味がある」という文は、事実確認なのか、そうあらねばならないという行為遂行なのか不明であるが、哲学的問いは、同じ日常言語の用法から生じる。
    →確認と遂行の区分は、日常と哲学の区分と同様に意味をなさない。
    オースティン、この区別は、カント理論的理性と実践的理性に端を発する。それまでの哲学は、行為=実践的な倫理を、確認=理論的に論理と取り違えたため、理論的理性の限界を確定することが『純粋理性批判』の課題だった。『言語と行為』、伝統的哲学の錯誤、ナンセンスと真正な事実の陳述を取り違えることの見解や提案は、革命である。
    ウィトゲンシュタイン『論考』の語りうることと、示しうることの区別はカント的問題意識に属する。しかし、後期では事実確認は「せねばならない」という行為遂行になるので、区別はつけられない、という言語ゲーム。オースティンは、作文の発語行為、文の意味内容の発語内行為、発話による影響の発語媒介行為に分ける。発語内行為に分析を集中し、慣習的な制約が適切ならしめる条件であるとした。つまり、遂行的でないはずの陳述が、発語内行為の性格をもち、遂行と確認の区別が破棄される。
    この三文法は、カント『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の伝統、すなわち理論的理性と実践的理性の根底に分岐する、ハイデガー曰く根源的構想力を想定していた。第三の可能性に注目するとき、ヘーゲル観念論、ハイデガー、ドゥルーズも観念論となる。発語内行為もまた、発語行為と発語媒介行為に分岐する。この日常言語学派独特の言語ゲームは、伝統的哲学の言い換えにすぎない。オースティンの慣習的は、フッサールの共同主観性と同じ。オースティンの発語内行為が経験的なものに先立つもの(超越論的)として想定している。チョムスキー超越論的な生成文法、サール慣習的、いずれも同類、聞く=話す立場でしかない。教える=学ぶ他者との関係から見れば、発語行為(事実確認的)か発語媒介行為(行為遂行的)かを発話者は決定できない。
    ・6売る立場
    マルクスは、価値形態論で、古典経済学の労働価値表示としての貨幣を批判し、貨幣が目的ともなりうる重金主義を再評価する。貨幣の神秘性。恐慌の時、人は商品ではなく、貨幣に殺到する。
    『ヘーゲル法哲学批判序説』では、啓蒙主義者の宗教批判は、現実に生まれる宗教を理論的に批判しても無駄だという。古典経済学による重金主義への貨幣論批判も同様。ヘーゲル、神は人間の類的本質の自己疎外であるから、人間は取り戻すべき。古典経済学、商品価値は人間の労働の対象化であるから、貨幣は表示にすぎなく、労働を人間に取り戻すべき。
    キルケゴール、「キリスト教の修練」、キリスト教を再導入が必要。キリストは理念の外化ではなく、絶対的他者であること。
    商品と貨幣には無限の質的差異がある。キルケゴール神の超越性を合理的理解に再導入、マルクス貨幣の外部性を経済学に再導入。
    貨幣の呪物崇拝フェティシズムの幻想こそ、資本主義の原動力。交換に伴う悲劇的条件。
    『資本論』、アリストテレスは貨幣をある商品の価値を任意の一商品で示したもの。
    貨幣の隠蔽は、売ることの盲目的飛躍の隠蔽、売ると買うの差異の隠蔽。マルクスは、資本(貨幣)と賃労働(労働力商品)に関して、貨幣と商品、等価形態と相対的価値形態へと遡行的に考察する。20エレのリンネル(相対的価値)は、1着の上着(等価形態)と等置されたあとで、価値を示される。価値の社会性、意味規則の事後性。相対的価値と等価の非対称的な関係は、古典経済学のように対称的関係としては、本来消去しえない。物々交換は、合理的な商品の交換ではなく、両者買うだけでなく売る立場に立たされる背理を含む。実践的な背理の解決、慣習に潜む社会的過程、命懸けの跳躍を取り出す。
    →価値もまた使用によって見出される。
    『資本論』、相対的価値形態は、交換可能な具体的な別のものとの社会的関係を表す。等価形態はある商品が価値を表しているとする。交換可能性をもっているように見えるから不可解と感じられる。貨幣として現れた時、はじめて経済学者は金銀の神秘的な性格を説明しようとする。
    古典経済学は商品を等価形態としてみている。しかしそれでは、貨幣は価格表示にすぎなくなる。必ず貨幣という商品と交換せねばならないという自明の事実が抜け落ちている。商品に価値は内在せず、他の商品(貨幣)と交換されねばならない。ウィトゲンシュタインの規則論と同様に、交換から規則が事後的に与えられるにすぎない。価値の社会性とは、社会的規範ではなく、交換の飛躍、無根拠性を意味する。
    『資本論』、商品形態の秘密は、労働、物、生産者の社会的関係を反映させることにある。商品交換は、共同体間で始まるが、対外的に商品になれば、内部的にも商品になる。
    規則が通じない共同体の外部を、社会と呼ぶ。全てを包括する1つの共同体のように見る時、古典経済学、物理学のような一均衡体系モデルとしてみてしまう。神の見えざる手のように、均衡しているように見えるのは、個々の交換が絶えず規則を変更するからである。エンゲルスは、無政府性を管理すれば社会性があるから社会主義になりうると考えたが、それでは共同体=単一体系に変える古典経済学と同類の思考。
    ・7蓄積と信用──他者からの逃走
    『資本論』産業資本の解明だが、商人資本に費やされている。なぜなら、商人資本の装置が、産業資本において隠蔽されているからだ。歴史学的な考察ではなく、抽象力による明示である。剰余価値(利潤)は、差額(不等価交換)から得られる。古典経済学では貨幣は価値の表示尺度であるから、等価交換しかない。物=財=使用価値の生産しかないから、金=貨幣を蓄蔵する動機は説明できない。古典経済学は、商人資本=重商主義を批判し、産業資本が合理的であることを主張した(マックスウェーバーも)が、『資本論』第一篇では、商人資本が産業資本と本質的に異ならないことを明らかにする。いずれも差額から利潤を得るが、商人資本が異なる価値体系の差異から空間的に剰余価値を得るが、産業資本は技術革新による価値体系の差異化によって時間的に差額を創出する(『マルクスその可能性の中心』)。★
    労働価値説は、貨幣との交換で得られた事後的な価値の言い換えにすぎない。生産過程は、貨幣経済(流通)に規制されている。
    古典派、新古典派経済学は、商品で商品を買うことが可能であるかのようにみなすが、貨幣でしか交換できないという自明の事実こそ驚くべき。★価値の売り買いの差異抜きに、価格分析から始めるのは、観念論的である。
    価値形態論は、貨幣の起源や必然性ではなく、売買の差異を確認するもの。貨幣は価格表示という二次媒体ではなく、神秘的な力の由来、商品の等価形態すなわち直接的交換可能性。貨幣は交換しうるのに、他の商品は交換しえないという神秘的な力。古典経済学は、商品が直接的に交換可能であるかのように想定されてしまう。
    『資本論』、売り買いは均衡ではなく売るという流通は無限であるから、売り買いが内的統一をなしているという古典経済学は、外的な対立なしで独立していることになるが、それは恐慌によって貫かれる。
    つまり、商品W-貨幣G-商品W'において、W-GとG-W'は分離しているから、W-W'という直接生産物交換と異なり、時間的空間的に無限に広がるということ。W-G(売り)に命懸けの飛躍があるがゆえに恐慌の可能性がある。資本の運動は、G-W-G'(G+GΔ)となり、商品流通が貨幣の蓄積過程となり、使用価値の獲得が貨幣獲得という目的になる。つまり、資本と商品の流通はたんに表裏ではなく、異質なものであり、貨幣が自己目的化することで、流通拡大の原動力となり、産業資本を生み出した。★売買一致の古典経済学では、この資本の自己運動が、商品の生産消費の中に隠れてしまう。
    『資本論』、これにより、貨幣は譲渡すべきもの、交換のための一時的なものではなくなり、退蔵するものになる。金によって、楽園に達せる。
    守銭奴は、購買手段としての貨幣であることを禁ずるから、必然的に物欲はなくなる。勤勉節約吝嗇。天国のために無欲な信仰者の宗教的倒錯と類似している。貨幣蓄蔵も世界宗教も、流通が一定の世界性(外部性が内面化される)をもちえたときに現れる。守銭奴の動機は、物=使用価値への欲望ではなく、実存的な問題がある。つまり、共同体外=流通世界において、売るという危うい立場を免れようとする衝動。★貨幣が等価形態にあり、直接的交換可能性(交換価値)をもつがゆえに、その可能性のみを蓄積しようとするところから生じる。
    →売ることの回避は、消費偏重にもつながる。守銭奴の売るは共同体内の生産、多く売って安く買うこと。他方、命懸けの飛躍は、価値が不明瞭なものを共同体外の他者に新たに売ること。
    かくして蓄積が貨幣フェティシズムによって生じる。守銭奴が流通過程から脱落するのに対して、資本家の蓄積は剰余価値獲得の自己運動に飛び込む。産業資本主義は、生産中心主義ではない。物の使用価値への禁欲断念は明白。同様に、ボードリヤールのようにポスト産業資本主義、消費社会に生産中心主義の消滅を見出そうとするのもまた誤り。なぜなら、消費社会の差額も資本の自己運動から生まれ、資本の蓄積に帰結する。つまり、①蓄積は生産消費と無関係であり、②蓄積は自己目的化するため、そもそも産業資本は生産中心ではない。
    産業資本は、労働力という商品を買い、その生産物を売る商人資本。★資本論、資本は流通の中で発生しなければならないが、同時に流通の中で発生してはならない。この背理が、「使用価値が価値の源泉であり、消費が労働の対象化、すなわち価値創造である」という特殊な商品、労働力によって解決される。資本と賃労働の対立は、資本と商品の対立の変奏。肝心なのは流通過程。
    →労働も商品であるから、商人資本と同じ仕組み。
    G-W-G'の剰余価値自己増殖の動機は、産業資本、商人資本、守銭奴と同じ。自己増殖は、貨幣の神秘的な性質。ヘーゲル精神やテクスト主義のテクストとは異なり、現実の高利貸し資本(利子生み資本)としてある。信用、銀行信用という売りを観念的に先取りすること。信用とは、他者に向かい合うことの回避。自己運動は、決済を無限に先延ばしにするために強いられたもの。決済が不意打ちで現れたものが恐慌。信用の崩壊。どんな信用制度も金=貨幣に依存している。資本主義の時間性は、未来を絶えず先延ばしすること。価値形態、貨幣の古典経済学における看過を批判するのがマルクス。本書は、哲学、言語論において同型の思考を行う。
    ・8教えることと語ること
    tellとteachは語ると教えるで異なるが、秘密を教える、道を教える、いずれも規則性パターンを学んでいることを前提とするtell。日本語文法を知っているというが、語ることは難しい、知っているには二つのレベルがある。
    →使える、説明できる
    水泳、野球、悟りを教えるとき、物理学的ではなくメタフォリカルに語るしかない。ウィトゲンシュタイン『論考』では語りうることと、語りえず示されるほかないことの区別は、後期『哲学探究』で哲学と宗教芸術の区別にとどまりえないものとして転回された。「哲学的文法」、言語それ自身は語りえない。肝心なのは、言葉について語りえないということ。言語についての言語、メタ言語を否定。教える-習うの視点。
    柳田國男、学ぶ=まねぶ、習う=倣う。覚えるの下にまねぶを置く。曹洞禅(道元)、芸道は、形すなわちまねぶことから入る。ウィトゲンシュタインの言語の訓練とはこのこと。子供は言葉を真似る。ピアジェ知能の発達と論理的数学的構造の変形、ラッセル算術の論理的基礎づけは同じ発想。数えることは、語りえず、示すほかない。フッサール、ソシュール、ヤコブソン、他者を内省するバフチン、そしてテクストの一義性の体系を前提する仮想敵が批判者自身であるデリダ、結局は独我論に陥る。ウィトゲンシュタインは、ラッセルの外側から攻撃し、ゲーデルのわきを通る。
    ・9家族的類似性
    日本語を喋るとき、規則を意識しない。盲目的に従っている。
    クリプキ、対偶、私が受け入れないならば、相手は規則に従っていない。
    →規則に従えば受け入れられるのではなく、暗黙の使用の結果としてわかること。
    意味を所有しているのではなく、使用において示される。教える学ぶの関係においては、規則を積極的に取り出しえない。
    『探究』、規則はゲームの教授補助になり、訓練、ゲームの道具、ゲームの自然法になるが、観察者はどのように正誤を区別するのか。
    ゲームから一定の規則は取り出しえない。ソシュールにおいては内省的な体系であるが、現実のコミュニケーションでは大小異なる規則体系を使う。"相手に理解されなくてよいのなら、それはコミュニケーションではない"。★
    ソシュールの欠陥は、多様な言語ゲームを、意味を了解する体験に還元したこと。必然的に一つのラング規則体系しかなくなる。
    『探究』23、記号語句文章には無数の使い方があり、発生し忘れられていく(数学の諸変化のように)、話すことは生活様式の一部。
    →言語を使うことは、様々な人間の活動の一部で、話すことはさらにその一つにすぎない。
    多様性は、教える学ぶが先行して生活様式を形成した上で、話す聞くがある。話すことは、言語ゲームの一部にすぎない。したがって、言語ゲームが一定の規則に従うなどとはいえない。
    囲碁に定石があるように、学ぶことは歴史的に形成された定石を習熟することだが、一定の規則ではなく、ナダレ定石のようにその後の囲碁のスタイルが一変するような革命的な発明がある。その意味で、専門家は、発見家ではなく、発明家だ。
    数学も同様に、ラッセルのように翻訳して一つの体系を作ることは可能だが、多様な表現があり、発明されるものだ。3を(1+1)+1と表現できるが、数が大きくなれば見渡すことはできない。十進法も一つの数学的発明であり、証明の体系である。
    現代数学は、集合論と記号論理学によって全数学領域を統一的に基礎づけるものだが、ゲーデルによって不可能も証明された。真理探究は構わないが、背後に基礎的な規則、言語があるわけではない。言語に共通なものはなく、互いに似ている、家族的類似性がある。数もまた、異なっているが連関している。通約可能性コメンシュラジリティなどない。マルクス、商品の相対的価値表現の連鎖体系を、拡大された価値形態と呼ぶ。そこに中心はない、欠陥。各商品が、一商品にすぎない貨幣によって、価値という共通の本質があるかに見える。
    ウィトゲンシュタインは、哲学がコミュニケーション(交換)の社会性を隠蔽してしまう。言葉の意味はその用法である、とは、内的意味=私的言語ではなく、他者との交換というレベルに立ち戻るべきということ。日常言語学派と異なり、倫理的である。
    →倫理、自己完結ではなく、他者との交換。規則の罰ではなく、行動と認識。
    ・10キルケゴールとウィトゲンシュタイン
    カント批判哲学は、理性の越権から道徳宗教を守り、自然科学の応用可能性の領域を確定する。『論考』はカント的。★『探究』はキルケゴール的。キリストという他者の問題。コミュニケーションの基礎の問題。
    『実践理性批判』は、神(超越者)は理論的に知りえないが実践的に知りうる、というありふれた考えだが、キルケゴールはキリストという他者がいた現実。合理化も事後的解釈もない出来事。他方、思想家として見ることも、理解しうる我々自身であり、キリストという他者ではない。キルケゴール、キリスト教にキリストを再導入する。独我論に他者を導入すること。超越性、社会的制度、共同主観性は未だ独我論。カントの超越者(物自体)を理論的に知りうるのは、他者・自己なき一般的自己。ヘーゲル精神は、ヘーゲルの意識。
    キルケゴール『キリスト教の修練』、近代人は、キリストを教えだけにするか、空想化によって抹殺した。
    神かつ人間ということは、神でないかつ人間でもない。他者。ウィトゲンシュタインも他者の導入をする。コミュニケーションが合理的には不可能で基礎づけできないにも拘らず、現実になされている事実性に驚くべき。それを無視するのは、キルケゴール的なキリストの抹殺。
    イエスと弟子は、教える学ぶの関係。神人と人間(単独者)、その間の深淵は越えがたい、躓きの可能性があらゆる瞬間に現れる。教える側は、神であることを直接的に語りえないという無力さがある。人はキリストが神であることを知ることができない。証明は信ずるか躓くかの二者択一であり、論議反駁弁明の余地があるもの。
    ウィトゲンシュタイン、言語ゲームは哲学的合理的に不可能なのに、日常的実践的には可能という驚くべき事実性。
    キリストは、すべての人に躓きの可能性を示唆するもの。
    平行線が無限遠点で交わるというとき、非ユークリッド幾何学となる。キリストを認めることは、非ユークリッド的な時空間に世界が変容すること(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)。『悪霊』キリーロフ、人神による世界変容。キリストによって、歴史的(ユークリッド幾何学時空間的)に世界を捉えることはできない。
    『キリスト教の修練』、絶対者キリストとの関係は、信仰によるために現在しかない。詩は可能性、空想、創作の世界であるのに対して、現実に起こったこと(過去)はその対立にすぎない。現実のみが、私自身にとって、君自身にとって真理、宗教性としての同時的なもの。キリストの生涯は、聖なる歴史として、歴史の外にある。
    キリストという現実(事実)によって、世界が変容する。相対性理論の世界のように。神ではなく、キリストという事実。
    カントールの集合論、対角線論法は、無限は実在のものとして捉えられる。無限を有限とすること。キリストの到来。ウィトゲンシュタインに、集合論=無限論が態度変更をさせた。19世紀末、カントールの集合論のパラドックス、フレーゲラッセルのパラドックス、ゲーデル不完全性定理でとどめをさされた。数学という事実性に向き合うための出発点。非ユークリッド幾何学が自然界に適用しうること、有限が無限たりうることは数学基礎論から失われている。数学そのものがパラドックス。
    ・11無限としての他者
    バフチン『ドストエフスキー論』、他者を先回りして独白する登場人物、先回りするということは、自分のために他者に無関心な最後の言葉を保留するということ。彼らは自分の判断ではなく、他者の意識に依存している。
    彼らが語るのは、他者を説得する、教えること。自意識過剰や、対自存在(自己意識)が物(即自存在)化することに抗うことでもない。言語ゲーム規則を異にする他者に、誤解されることを恐れる。教えることのパラドックス。★沈黙もまた深淵を越えようとする言語行為。対話不可能な他者と語ることから、自己の単独性が生じる。
    近代小説、ヘーゲル、ヘーゲル的マルクス主義がモノローグ(独我論)的。いかに複数性を強調しようと、単一体系的なものであれば独我論にすぎず、それに欠けているのは、他者。言語ゲームの複数性は、他者に関わる。★ドストエフスキーの他者は、キリスト。
    バフチン、ドストエフスキーの批評家研究者は、登場人物に、一つの言葉声抑揚を聞き取ろうとして、理論的認識に失敗し、統一の世界が未開拓のまま残されている。
    『白痴』『悪霊』は、目まぐるしく事件が起きるが、数日間経っていないという長編。この時空間は、非ユークリッド幾何学的。平行線が交わるように、あらゆる二項対立を内包し統一する。しかし、ドストエフスキーは、無限遠点にキリスト教的終末を想定して、それに異議を唱えていた。そのやり方が、数学基礎論に異議を唱えたウィトゲンシュタインに類似している。
    ドストエフスキーの「地下生活者」、我々の意識は2+2=5を欲するのだという。
    →ジョージオーウェル『1984』、radiohead 2+2=5、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』2×2=5、ドストエフスキー『地下室人の手記』
    『カラマーゾフの兄弟』、非ユークリッド幾何学では平行線が無限の中で交わるかもしれないと聞いて、幾何学的知性の人間に神の実在など理解できるはずがないと諦めた。
    ドストエフスキーは、ユークリッド幾何学的知性に反撥し、意識や神の世界をもち出す。しかし、数学の基礎づけの危機が同時代に進行していた。フレーゲラッセルに対するゲーデル。しかし、いずれも独我論であるから、ここで転回、すなわち他者の導入が必要である。
    数学の危機は、無限を実在として措定したところにある。★ウィトゲンシュタインは、そもそも数学的対象が実在するという考えに反対する。数学は、言語ゲームであるから、その対象をもたない。規則が変更され、発明されていくゲームである。基礎づけは、後付けであり、基礎的な規則はない。つまり、言語ゲームは、多数的で一つのシステムに還元されない。
    非ユークリッド幾何学は、天文学的関心であり、論理学的な危機に関心はない。数学は多いを取る発見dis-coverではなく、発明in-ventである。2+2=11は三進法なら誤りではない。
    クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』、ウィトゲンシュタインに影響を与えた直観主義者(有限主義者)ブロウェルは、プラトン主義よりも独我論的で、一人の数学者によって数学は理想化され、定理は心の状態の言明であり、コミュニケーションは不可能としていた。
    しかし、ウィトゲンシュタインは無限を相手にする。1/3=0.3333...「以下同様」は、無限番目3の証明は直観主義者は疑わないが、ウィトゲンシュタインは必ずしもそうは言えないと、証明として認めない。無限を他者との一致の問題に転化する。実無限、無限遠点へのドストエフスキーの反応に似ている。
    イワンは神の世界を承認しない。神の世界が存在することは知っていても、平行線の一致を自分の目で見たとしても、それを欲しない。
    イワンは、言葉を理解しない子供、言語ゲームを共有しない他者。ウィトゲンシュタインの私的言語の否定は、私的な痛みの経験から、他者の痛みを推論する、内的状態からの出発。他者との平行線の交差は、推論にすぎない、あるいは他者が不在。
    アリョーシャは、神の世界は、唯一全ての人に代わって血を流した、赦す権利をもつ人、この人を基礎として成り立っているという。ドストエフスキーの無限遠点は、終末でなく、キリスト。キルケゴールの、キリストとの同時性。キリストは躓きにほかならない。自己と他者との平行線が交わる特異点が存在することが、ドストエフスキーの小説世界の統一のかすがい。★
    ・12対話とイロニー
    他者は一対一関係である。すなわち事後的にしか共同的一般的規則が成り立たないような、売る立場教える立場において、同一の言語ゲームをもたないゆえに命懸けの飛躍を必要とする関係。
    対話には、規則があるから、自己意識と等しくなり、他者がいない。
    レヴィナス『時間と他者』、ヘーゲル主僕関係のように他者を一つの自由として措定するのではなく、出来事、疎外、エロスとして他者性を措定する。対話は、他者性としての一対一の向かい合ってface-à-faceではなく、共通項(真理)をめぐっての隣り合わせcôte à côte、mit(共に)の関係 (私的実存に関わる)。他者性は、対話のようなmitではない。
    ここでは、他者性としての向かい合わせを「対関係」、共通規則をもつ対話などの隣り合わせを「一般的関係」と呼ぶ。論理的説得は一般的関係、恋愛エロス、精神病者への説得は他者性なので対関係。
    →対話は共通項としての規則をもつ一般的関係。それに対して、他者性は共通項をもたない対関係。
    売る立場、教える立場は、価格(規則)において、隣り合わせの一般的関係。
    囲碁で、対局と五目並べなどと、規則が異なれば他者性。ニコラスレッシャーの弁証法の論争の比喩、法廷裁判に似ている、アメリカ博士論文審査に残る形式。提案者に立証責任があり、反対答弁者に論駁されなければ、推定的真理とされる。
    →ポパー反証不可能性としての真理、東浩紀公共性の訂正可能性、デリダ法における脱構築は正義。
    レッシャーは、ポパーの反駁可能性なしの真理を科学的合理性の外におく考えに従い、対話なしの真理を否定したい。ヘーゲル弁証法、矛盾律の言い直しにすぎない。
    『対話の論理』、論争を、打ち負かす敵対ではなく、合理的思考、真理探究の弁証法として捉え直す。論争と立証的探究は、立証的に健全な論証を作り上げる意味において、構造が同一。自己を納得させるという、デカルト以来の自我中心的視点は害を与えた。
    つまり、自己内の対話であっても、私の対話の中に他者が内面化されているということ。法廷に他者を認めないのと同じ。形式的論争しか認めないことは、暴力。プラトンは、ルールを混乱させる詩人を、哲学者=王の王国から追放した。私と汝が共同で真理探究できるのは、一つの共同体に属しているからで、それ以外は非理性となる。レッシャーにとって手続きを踏まない者(懐疑論者)は、私的尺度の使用に引き下がり、合理的推論者のコミュニティからの退場、理性放棄とみなされる。
    レッシャーに他者はない。懐疑論者デカルトの意識の明証性は、私的である。したがって、神の保証が必要で、神の存在証明をコギトの明証性からなそうとした。むしろ独我論からの脱出。
    プラトンの我を我々に一般化する弁証法は、独我論的で、デカルトの神の存在証明のあとでは、私は一般的主観となり、カントやヘーゲルにつながる。
    他方、デカルトの神と私の循環論法は、飛躍、信仰、投企の実存主義を生ずる。神に関わって、超越論的自己、社会、共同体、制度、共同主観性が現れる。デカルト懐疑を退けるが、従属している。ソシュール体系もまた、私の意識に閉じ込められている。社会的一般的とはいえない。言語体系・構造によって社会化された一般的な私を前提することは、問題回避。デカルトの神の変形にすぎない。
    デカルトは数学も私的言語であり、神の保証が必要と考えていた。ウィトゲンシュタインに通ずる懐疑。無意識の構造をもちだす構造主義は、超越論的数学的構造として、神の代わりに自然科学の客観性を置くにすぎない。同じ循環論的困難。ウィトゲンシュタインの他人の痛み論(共同存在の前提否定)は、数学基礎論に関わる。
    フレデリックジェームソン、言葉の牢獄とは、言語の形式的差異体系に固執することが意識に固執する独我論の変形にすぎない。その批判は、外部を見出すだけでは独我論批判の再版にほかならず、内的に破る差異化の戯れは神秘主義でしかない。
    独我論の問題は、閉鎖性ではなく、私を一般者としての他者との関係にしてしまう、他者性のなさ。フロイトは、個人心理・集団心理ではなく、他者(医者・親)との対関係における、事後的に見出される無意識。ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」といって、無意識を構造化してしまった。しかし、言語はそもそも対関係にない。ユングの集合的無意識は、個-一般者の図式であり、他者がない。デカルト、フッサールを離れ、もう一つの独我論となる。仏教哲学は、神の代わりに空をもちだす。西田幾多郎は、主客以前の純粋経験という自己の中の他、すなわち一般者のもの。自己が自己を写像するずれ(自己差異化)は、独我論にすぎない。かくして、日本のポスト構造主義者は東洋哲学、神秘主義と融合する。しかし、仏陀も孔子も独我論をイロニカルに否定することによって他者に向かい合わせようとした。他者を愛せ。真理を愛することは、共同体を愛することであるが、その言語ゲームを共有しない他者は排除される。他者を愛すること、対関係が関心事。ソクラテス、イエスと同様に書かなかった。書かないことは、事実の根拠を問う弁証法に向かわないこと。しかし、その言ったことは、共同体、神秘主義、私と他者、私と神の合一性に回収され、他者は排除された。真理(実在)を強制する共同体の権力。西田幾多郎、ハイデガーのファシズム加担も偶然ではない。
    対話を二つに分ける。①一般関係の対話、弁証法であり、内省により事象の根拠・本質に向かい、哲学あるいは形而上学がある。②対関係における他者との対話、これをイロニーとよぶ。★
    ソクラテスが共同体のルールを危うくする対関係の他者との対話に終始した、イロニー。バフチン、対話としての言語。ソクラテスの言葉は、他者との対関係の位相にある。ディスコントラクションは、イロニーと同じだが、用語による新しさの誇示。プラトン的な体系的知は、ソクラテス的なイロニーを隠蔽することで生まれた。イロニーは、他者性の回復。
    ・あとがき
    1985年から連載中の『群像』における評論で、漠然としたもので、ウィトゲンシュタインについて書いてみようと思うものだったので、タイトルも漠然と「探究」とした。何を論じても良いことになった。一言で言えば、本書は、他者あるいは外部に対する探究。自身を含むこれまでの思考に対する態度変更。これまで、どこかで決着をつけようと緊張と焦燥をもっていたがそれがなくなり、無期限に持続しようと思った。書くことが生きることである。★本書は体系的なものではなく、書きながら多重的に形成されていく性格のものである。1986.11.10
    ・文庫版あとがき
    東洋には7年で世界が一変するという説がある。テクストが属していた文脈から切り離されるのに必要最小限の時間であり、以降はそれ自身の力によって存続する。本書そのものが、「命懸けの飛躍」であった。★"私は、私の「真意」が伝えられることを期待していない。そんなものはありえないのだから。"1992.1.23
    ・危機の探究者『探究1』を読む 野家啓一
    柄谷行人は、文芸評論家から批評家になった。批評家criticは危機crisisの探究者。「隠喩としての建築」を連載し始め、「形式化の諸問題」を執筆した1981年から。ラッセル、ゲーデルの理解は疑念があった。しかし、「探究」は、文章の背後に独特な孤独な面貌があった。哲学や思想において孤立無援は名誉でこそあれ恥辱ではない。★柄谷の孤独には尋常ならざるものがあり、ウィトゲンシュタインを近づけていると感じた。態度変更は、未踏の領域への愉悦と困難を二重に象徴する。主題は、独我論と他者。既成の問題機制そのものを根本的に転倒すること。これまでの哲学が独我論、弁証法にすぎないことを批判し、ウィトゲンシュタインと出会う。ウィトゲンシュタイン研究からすれば誤解曲解を指摘することは難しいことではないが、柄谷にとってはどうでもよいことのはず。その眼差しは、ウィトゲンシュタインが語らなかったことにこそ向けられている。あるいは、既存の理解に対する他者としてある。「書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している」という1行のために『探究』は書き継がれている。1987.3.16に加筆訂正

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740016

  • マルクスを読むようにウィトゲンシュタインを読む。それがこの本のテーマだろうか。共同体と共同体の間でなされる交換は等価だと思われているけれども、そうではない。売り手は常に命懸けの飛躍をしなければならず、非対称性が存在している。にもかかわらず、買い手と売り手の間には交換が成立し、そこでは貨幣が隠蔽されている。言語ゲームでも同じことが言える。なぜなら、共同体とは一つの言語ゲームが閉じる境界に他ならないのだから。言語コードを共有しない「他者」に対して語りかけることは、間違って理解される恐れを常にはらんでいる(飛躍しなければならない)。にもかかわらず、話し手と聞き手のコミュニケーションが成立する。そして、そこに規則があったことが後から気づかれる。
    従来の哲学は、他者を言語コードを共有する者と捉えてきた。筆者は、そうした他者からスタートすることは独我論的であるという。そうではなくて、「他者」からスタートすることが必要だとしている。

  • 柄谷行人 「 探究 1 」他者という概念を探究した本。マルクス、ウィトゲンシュタイン、ドストエフスキー などの思想から 他者の態様を抽出。

    この本の現在的意味は 次のことと解釈した
    *自己対話型の哲学の批判
    *他者と自己(共同体)の再定義
    *社会的の定義と規則が起きるタイミング
    *教える へ 態度変更

    他者とは
    *共通の規則を持たない
    *私自身の確実性を失わせる→私の言葉の意味は 他者が認めなければ 成立しない
    *自分と言語ゲームを共有しない者→教えるとは 他者を前提とする

    教えるへの態度変更
    *教える=他者を喚起する
    *暗黒の中の跳躍→規則は跳躍の後に見出される
    *対話=命がけの飛躍→言葉(私と他者との間に渡された かけ橋)は 渡るというより 飛び越えるほかない

    ウィトゲンシュタイン
    「幸福な人の世界は 不幸な人の世界と別な世界である」
    「世界の中に神秘はない、世界が在ることが神秘だ」
    「哲学の仕事は われわれを動揺させている数学、矛盾が解決する前の状態を展望できるようにすること」

    マルクス
    *他者=共同体の外にいる
    *商品交換は 共同体と共同体の間で始まる→社会的とは共同体と共同体の間に存在する関係
    *社会的とは 交換(等置)に存する 盲目的な跳躍を意味する→等置があったから 規則が見出される

    商品は売れなければ 価値ではない→売れるかどうかは 命がけの飛躍→商品の価値は 内在しているのでなく、交換された結果として与えられる

    ドストエフスキー作品の根本テーマ
    人間を 他者の言葉、他者の意識との関係において 設定すること

  • [ 内容 ]
    <Ⅰ>
    本書は〈他者〉あるいは〈外部〉に関する探究である。
    著者自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味すると同時に、知の領域に転回をせまる意欲作。

    <Ⅱ>
    『探究1』で、独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されているような思考であると指摘した著者は、『探究2』では「この私」を単独性として見る。
    単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。
    固有名や超越論的コギト、さらに世界宗教に至る各レベルにおいて、個(特殊性)―類(一般性)という回路に閉じこめられた既成の思考への全面的批判を展開する。

    [ 目次 ]
    <Ⅰ>
    第1章 他者とはなにか
    第2章 話す主体
    第3章 命がけの飛躍
    第4章 世界の境界
    第5章 他者と分裂病
    第6章 売る立場
    第7章 蓄積と信用―他者からの逃走
    第8章 教えることと語ること
    第9章 家族的類似性
    第10章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
    第11章 無限としての他者
    第12章 対話とイロニー

    <Ⅱ>
    第1部 固有名をめぐって(単独性と特殊性;固有名と歴史;名と言語;可能性と現実性;関係の偶然性)
    第2部 超越論的動機をめぐって(精神の場所;神の証明;観念と表象;スピノザの幾何学;無限と歴史;受動性と意志;自然権;超越論的自己;超越論的動機)
    第3部 世界宗教をめぐって(内在性と超越性;ユダヤ的なもの;思想の外部性;精神分析の他者;交通空間;無限と無限定;贈与と交換)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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