- Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061590816
作品紹介・あらすじ
『マクベス』やギリシア悲劇を例に、「悲劇は言葉の両義性にかかわる」と指摘した「言葉と悲劇」、小説『こころ』を分析し、夏目漱石の深層心理に迫った「漱石の多様性」など、柄谷行人の代表的講演を収録。
感想・レビュー・書評
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(*01)
1984年から約4年間に語られたものから採録された講演録であり、図式的であることも手伝って、著者の思索やその対象への入門者にも分かりやすい編集となっている。
目次からも明らかであるように、バフチン、ウィトゲンシュタイン、漱石、ドフトエフスキー、仁斎、三島、丸山、フロイト、スピノザ、マルクス、デカルト、ハイデガー、キルケゴール、ニーチェ、安吾といった近代の哲学、文学についての言及が主となっており、宗教や広告を主題とした章もある。
現在では意外とも言えないのかもしれないが、江戸注釈学あたりで、朱子学を再評価し、仁斎、徂徠、宣長の系列を近代的な文脈に説き起こしているくだりは秀逸である。
スピノザは当時としても再興されていたのかもしれないが、デカルトについての評価も、講演から30年を経過しようとする現在でも新しさを感じる。
標題には、悲劇とあるが、同名の章は一章をなしており、ギリシア悲劇からシェイクスピアまでを視野にしているが、全体では悲劇は主要な演題ではない。言葉と悲劇という標題にとらわれることなく、広いテーマを分かりやすく読むことができる。詳細をみるコメント1件をすべて表示-
corpusさん面白そうな本ですね。面白そうな本ですね。2023/05/29
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[ 内容 ]
『マクベス』やギリシア悲劇を例に、「悲劇は言葉の両義性にかかわる」と指摘した「言葉と悲劇」、小説『こころ』を分析し、夏目漱石の深層心理に迫った「漱石の多様性」など、柄谷行人の代表的講演を収録。
[ 目次 ]
バフチンとウィトゲンシュタイン
漱石の多様性―『こゝろ』をめぐって
言葉と悲劇
ドストエフスキーの幾何学
江戸の注釈学と現在
「理」の批判―日本思想におけるプレモダンとポストモダン
日本的「自然」について
世界宗教について
スピノザの「無限」
政治、あるいは批評としての広告
単独性と個別性について
ファシズムの問題
ポストモダンにおける「主体」の問題
固有名をめぐって
安吾その可能性の中心
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
漱石のとこだけ、ざざっと。
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柄谷行人の講演集。
・個別性と単独性の違いを語る箇所が印象的。
単独性は、普遍性と対になる。
個別性は、一般性と対になる。
近代小説とは、個別の私が、一般化するものだという。つまり近代小説ではある個人の生活が現象学的に描写されるが、読者はある個人の生活描写を読むことで、その個人の体験を自分にひきつけて読む。この時、小説に書かれた「この私」の単独性は消失する。近代小説は、1回限りの単独の出来事を書いているようで、実は、誰にも共有し得る個人の事柄しか書かれていないし、そうとしか読まれ得ないのだという。単独性を描けないことこそ、近代小説の限界となる。
・ドストエフスキーの小説について語る箇所も印象的。
普通の小説では、作者は小説の語り手(1人称)か、小説を神の位置から客観的に眺めている(3人称)。ドストエフスキーは特殊で、虚構である小説の中に作者自身もいる。作者も小説の登場人物の一人に過ぎない。かといって、作者はしゃしゃり出てくるわけではない。例えば『カラマーゾフの兄弟』では、小説の語り手は、カラマーゾフ家のある村にいる。村で起こった出来事をその場で見て、読者に語り伝えているという体裁をとっている。ドストエフスキーの小説に出てくる登場人物は、作者の分身ではなく、虚構の世界にいる、作者とは完全に別物の他者である。 -
石原千秋『教養としての大学受験国語』(066)。「柄谷の文章はいつもひどく難しいのだが、これは講演ということもあってか、内容は高度なのにたいへん読みやすい」
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一人一人の人間の感情、心、哀しみのための慈愛、そのための個人性、即ち異邦人であること、がここに提示されている。
著者プロフィール
柄谷行人の作品






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