探究2 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (370ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061591202

作品紹介・あらすじ

『探究1』で、独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されているような思考であると指摘した著者は、『探究2』では「この私」を単独性として見る。単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。固有名や超越論的コギト、さらに世界宗教に至る各レベルにおいて、個(特殊性)-類(一般性)という回路に閉じこめられた既成の思考への全面的批判を展開する。

感想・レビュー・書評

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  • "『探究』において問い続けたのは、「間」あるいは「外部」において生きることの条件と根拠だといってよい。それはいわば超越論的であると同時に、「超越論的動機」そのものを問うことである。むろん、これはたんに理論の問題ではなく生きることの問題だ。「探究」とは反復である。"
    『探究1』と同じく、少しずつ観点の角度を変えながら、他者性の問題を考察してゆく。本書がそれまでと少し異なるのは、第一部で単独性や固有名、第二部で超越論的な自己というように、「私」による閉じた体系と他者性だけでなく、第三部で共同体と社会的交換についての具体的な社会論に進めているところだ(実際には最初に連載されているが)。つまり、私の体系から共同体とその外部へと問題系を押し拡げている。これはすでに『世界史の構造』『力と交換様式』の交換様式の構想が先取りされている。本書そのものが閉じられた体系的な議論でない分、開かれており、探究の名に相応しく豊富で密度が高い論考だ。
    いわゆる独善的な哲学というよりは、文芸批評的に一つの関心に寄せて、そのテクストの可能性を読み取るところが本書の特徴である。第一部はクリプキ『名指しと必然性』を中心に、固有名の単独性と偶然性における外部性を論じ、第二部はデカルト『方法序説』をレヴィナス『全体性と無限』の私と他者の無限性の観点から読み、スピノザ『エチカ』を「無限の他者性を前提する自己」という同系列として接続し、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の内省的な自己との比較で批判的に検討する。第三部はフロイト『モーゼと一神教』における「世界を提示する世界宗教」の共同体外の他者性を手がかりに、レヴィストロース『親族の基本構造』の交換の議論を、共同体的交換(贈与)と社会的交換(売買)を区別し、共同体外部の他者との交通(交換=コミュニケーション)空間を示唆する。
    あとがきから抜粋して要約。第一部について。『探究1』では、独我論を万人に妥当する体系の批判、売る買う教える学ぶの非対称コミュニケーションの関係に求め、その時のみ現れる他者を考察した。『探究2』では同じ問題も別の観点、この私を単独性として見ることで考えた。認識論から論理学へ。独我論は個(特殊性)-類(一般性)の思考から、一般性に入らないこの私、すなわち固有名へ。私だけであれば実存主義になるが、それだけではなく物の単独性もあるから、社会的、非対称的関係と結びつく。
    第二部はデカルトのコギトが主観ではなく単独性、すなわち外部的単独的実存であることを示し、それを促すのは神、すなわち差異・他者性の絶対性。スピノザ はこれを推し進め、外部と超越のない世界を神とみなした。表象を疑うことは、この世界に原因を持つ。神=普遍性は単独性、外部的実存と切り離しえない。特殊-一般の概念から、単独-普遍の観念へ。
    第三部は、類個の枠組が思考をいかに共同体的に制約するか。内外の区別を廃棄する世界の観念は、世界宗教にある。それは、共同体の間、すなわち交通空間に生じ、共同体を脱構築する強迫的表象として立ち現れる。
    特に面白いと思ったのは、第二部なので、以下にまとめる。世界を批判的に見る「この」私は、主観や主体という特殊な個物個体として一般性(類)に回収されるものではなく、外部性としてある単独者である。デカルトが神=他者に保証を求めた疑う(批判する)立場、スピノザが神=自然を眺める観測地点として設定した超越論的な場所。探究1の他者=外部性の問題から、「この」私の単独者=外部性へと移行する。世界を眺める超越(論)的(メタ的)視点という意味では、徹底した形式化によって起源へ遡る内省者、すなわち『内省と遡行』において未完となった問題の再検討といえるが、決定的に違うのは、超越論的主体が、共同体(規則体系)内部に自己言及的に、あるいは外部に超越的に「在る」のではなく、「外部的であろうとする態度」(p209L4)としてあるということ。デカルト的な「疑うこと」は、カントの批判(吟味)することに直結する。他者性としてのデカルト的な神の立場を想定することが、疑う・批判する場所の根拠になる。言い換えれば、経験的自己・共同体との差異性として、疑い批判する、超越論的自己がある。
    ・1単独性と特殊性
    10代に哲学書を読み始めた頃から、「この私」が抜けていると感じてきた。「私」一般、主観、実存、人間存在、全て同じ。哲学の異和はそこにあった。「この私」は、ありふれているが、他の誰でもない。「この」性(this-ness)を単独性(singularity)と呼び、類一般の外見や性質などの特殊性(particularity)と区別する。単独性は、類の一般性に属さない個体性。「私がある」というどの私にも妥当する一般的な特殊に対し、「この私がある」は、ほかの私と取り替えできない単独性。
    個人individualを、身体的物理的合成物とみると、個体性は消える。分割すれば消滅してしまうような一つのまとまり。分子、脳、国家、"第二次世界大戦"も個体。個体とみなすことは、類クラス一般か、単独性で見るか。特殊だから固有名で呼ばれるのではなく、固有名で呼ばれるから特異(単独)なのである。
    恋愛において、「女(男)は他にいくらでもいる」というとき、この女(男)に失恋したのであり、他の人では代替できない。しかし、この人こそとある個体に固執するタイプの場合は、フロイト的にいえば、幼年期の母への固執の再現(想起)である。反復強迫、同一的なものの再現。したがって、単独性としての他者はいない。プラトン、エロスとは、一般性(イデア)への愛。ヘーゲル=ルネ・ジラール、欲望とは、他者の欲望、すなわち他者に承認されたいという欲望。この他者ではなく、他者一般を欲している。
    →単独性の恋愛などほとんどないので、他にいるというアドバイスはあたっているということ。
    子供に死なれた親に「また産めばいい」とはならない。しかし、子が財産という社会では可能。旧約聖書『ヨブ記』妻子と家畜が与えられるが、死んだ子は帰ってこない、にもかかわらず償われたことになる。取り替えの効かない「この」世で問題は解決されねばならない。一回性、単独性。しかし、元通りにはならない。旧約聖書に貫かれるのは、不条理への意識。同一の回帰がないからこそ、一回性が歴史(出来事)性として意識される。神の無限性は、この一回性と結びついている。キリスト教においては、あの世と復活の観念により解消した。キルケゴールの反復、ニーチェの永劫回帰は、この代替しえない単独性(一回性)にかかわる。敵対したのは単独性を特殊性(一般性・同一性)に置き換えてしまう思考、不条理を肯定すること。
    主観は、誰にでも妥当する、共同主観的、私という概念(集合)に属する。「この」私は、「この」物・他者との関係においてしかありえない。「この」がなければ分裂病的。
    「この私」は、哲学にはないが、文学にはあると長く錯覚してきた。それは近代小説に限られる。ベンヤミン、近代小説は、単独性を特殊性に変える、特殊個物を一般的な象徴にさせる装置。「この私」を書くことはできない。説明は、一般的なものの特殊化限定でしかない。
    →言葉で説明するには、一般的な種類から特殊な性質を述べて絞るしかない。それは、類に属すこと。
    「この」は、私と他者の差異(非対称性)を指示する。差異が、私を私としてあらしめる。他者を前提した、「他ならぬこの」。これは、固有名以外にはあらわしようがない。固有名は、哲学的に軽視されてきた問題。
    ・第二章 固有名と歴史
    独我論における私は、一般性であるから、むしろこの私がない。ギリシア哲学には主観に基づく認識論がないから、個体性を論理学で考察してきた。パルメニデス、プラトン以降の傾向では、単独性ではなく特殊性であるが、ヘラクレイトスは「同じ川の同じ水はない」と単独性一回性を語った。したがって、プラトン以降の形而上学的哲学は、同一性・一般性に逃避する意志にほかならない。
    三段論法、人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ゆえにソクラテスは死ぬ。しかし、ソクラテスは固有名であるから、集合の中の個体だけでなく、代替不可能な個体性を示す。固有名は、アリストテレス以来特殊性を示すものとされてきた。中世の普遍論争とは、普遍(一般)先行のリアリズムと、個物(特殊)先行のノミナリズムの対立。個があって集合が形成されるのか否か。近代哲学において変奏され、概念の合理論と、感覚の経験論を、カントは両者を物自体が感性受容され、先験的に構成するとして統合した。しかし、そもそもノミナリストは個物(特殊)・感覚経験ではなく、固有名を対置した。経験論的には固有名は特殊の指示。
    →アリストテレスと経験論が同じ
    ロックは全てを特殊とし、抽象することによって一般名辞を得ると考えた。固有名は、特殊における指示にすぎないとして、無益なものとされた。ただし、個体を特殊ではなく、固有名で説明している。ラッセルは、論理的固有名(これ、あれ)によってノミナリズムを完成し、固有名の問題を消去した。
    現代論理学における個体の指示は、固有名と確定記述。富士山(固有名)、日本一高い山(確定記述)。ラッセルは、全てを確定記述に還元しうるとした。そして、日本、地球、宇宙は固有名。物理学も自然科学もこの宇宙の固有名の歴史に属し、取り除く訳にはいかない。この宇宙があることが神秘。
    固有名は、一頭しかいない牛の名前、ネコという名の猫、瀬戸物、陶器=china、漆器=japanなどのように、語や文のレベルで考えられない。言語学者は、固有名を指示対象レファレントと結びつく考えの源泉と考えている。指示対象を扱いうるのは、意味論ではなく、語用論プラグマティクスのレベルとされるが、固有名は指示一般になる。したがって、言語学は固有名を考えられない。
    フッサールは、固有名に、たんなる指標ではない、個体性を一挙に提示する知としての一種の普遍性を認めている。しかし、個体性(特殊性)と単独性を区別していない。フッサールによれば他者は、まず個体として現れ、次に他我を形成するとする。だが、他者を知覚する(個体性=特殊性)のと固有名(単独性)で呼ぶのは違う。固有名は、他我としての個体と関わること。他者は、後から構成されるのではなく、固有名において体験される。
    →特殊性(知覚)から単独性(固有名)に移行するのではなく、別個のものとして体験される。
    また、我の単独性は、他者が命名した(社会性)私の名によってしか開示されない。
    固有名で呼ぶ牛は殺せないが、兵士として敵という集合なら人間を殺せる。レヴィナスの顔は、単独性として他者を見ること。ただし、単独性は、人間の顔のみではない。
    単独性を固有名の問題とするのは、実存主義と区別するため。キルケゴールは、イエスという固有名を、キリストという概念のヘーゲル的な特殊性個体性と、固有名の単独性を区別した。
    サルトルは、ユダヤ人は他人にみなされた者(特殊性)としたが、アーレントは歴史的に実在する(固有名)とした。歴史的なものは、固有名であり、固有名なき歴史は科学、ヘーゲルの論理学である。しかし、自然科学、ヘーゲル絶対知も固有名を消せない。サルトルには、対自存在、他者、個体が構造を乗り越える歴史など、一貫して固有名がない。『弁証法的理性批判』はカント同様、非歴史的。それは、単独性としての実存に注目したことがなかったから。我々は、固有名で呼ぶとき、歴史性に出会う。個人、作者、歴史に関わる科学としての批評は、固有名を記述によって翻訳して消してしまう。そうしてはならないのではなく、逆説的に単独性に出会う。
    ・第三章 名と言語
    アリストテレスは、実体は個物であると考え、文・論理構造に投影されているとみなした。
    →ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』模型
    アリストテレス形式論理学は、存在と切り離せず、この形式化が体系的になされたのはラッセルによる。
    「ソクラテスは人間である」という文において、主語は実体とされるから、ソクラテスは第一実体。「人間は死ぬべきものである」と主語になるから、人間は第二実体とされる。古典論理学において、述語にならないのは固有名のみ。しかし、ソクラテスという名前が大勢いる場合、述語となる。ラッセルは、「これはソクラテスである」における「これ」が真の固有名(論理的固有名)とし、究極的な主語とみなした。この述語論理が完成するには、固有名を確定記述に置き換え可能なことが前提される。固有名を省略縮約された記述とみる。しかし、アリストテレスが実体としての個物として考えた固有名は消える。
    「これ」は、知覚内容percepts、すなわち私的な内省において見出される一つのもの。「これ」は、感覚でも実在でもなく、言語に媒介されたもの。ヘーゲル直接的な知、純粋なこれは、言語の「これ」として捉えたときには、直接的なものではなく、媒介された否定的なもの一般としてある。ラッセルの「これ」は意識=言語=私的な内省に基づく。どの私でも妥当する「私」の独我論。それを支えるのは、「私」という言語、共同的なもの[一般化されるもの]。
    →「これ」という指示語を使えば一般化され、単独性はなくなり、他のものに妥当する。
    指示対象をカッコにいれる形式化は必ず各主体においてなされる。
    形式化は主体によってなされるほかないから、独我論である。主体「私」は、誰でもない、一般的なもの。古典哲学に主観がないのは、個体が固有名だから。したがって、固有名を還元することは近代哲学に不可欠であるから、ラッセルによって完成された。「これ」は、何なのか明示しないからコミュニケーションの錯誤で何にでもなりうる。だが、固有名は言語体系に還元しえない、外国語に翻訳できない、外部性としてある。規則体系(共同体)に還元しえない、社会性を意味する。
    ここで、名と言語を区別する。名とは、本来固有名のみで、一般名は名ではなく言語に属する。①これは誰か=何と呼ぶか=固有名は何か。②これは何であるのか=一般名は何か。ハイデガー『存在と時間』、二つの存在性格、①実存カテゴリー=誰か(実存)、②カテゴリー=何か(目の前にあることフォアハンデンハイト)。
    ラッセルは、それらを固有名と一般名に区別し、固有名は「これ」に還元し、言語内に入れてしまった。
    ハイデガー、ひとりでいること(単独存在)は、目の前で知覚されない時もいる他人(共同存在)の欠如的様相である。
    しかしこれもまた「私」を個別特殊として還元すること。レヴィナス『実存から実存者へ』、実存者が実存するのは、動詞の実詞化、すなわち名前を受け入れることで、存在一般の無名性を断ち切る。そして、実詞化は、他者による命名、すなわち、共同存在ではなく社会的存在としてなされる。
    ・第四章 可能性と現実性
    多数世界論は、二つに分けられる。①モナドを見る視点によって変わる多角的なライプニッツのモナドロジー。②言語システムなどによって世界は異なっているとするクーン以来の科学哲学。しかし、クリプキ可能世界は、いずれとも異なり、現実世界から出発する。真であったかもしれないかどうかを問う。『名指しと必然性』、可能世界とは、ありえたかもしれない世界の全体の状態ないし歴史。つまり、現実からみた遠くない世界。これにより、確定記述で固有名を置換できなくなる。クリプキ、固有名はあらゆる可能世界に妥当するから、固定指示子rigid designatorと呼ぶ。したがって、固有名は、諸性質の束ではない。
    →ラッセル批判
    さらに、クリプキにおける固有名の指示固定は、私的ではなく、社会的な伝達の連鎖によるものとした。共同体の他者、歴史、命名儀式。
    パスカル、なぜ私はここにいて、あそこにいないのか。ここにいるという現実性は、あそこにいふかもしれないという可能性の中にある、偶然性。「他(多)ならぬこれ」が固有名にある。クリプキの現実世界は、可能性の中で見出される。したがって、固有名を確定記述に置き換えると可能世界で背理が生じるのは、固有名が可能世界の中の現実性に関わるから。★
    →ウィトゲンシュタイン論理空間
    つまり、固有名は、可能世界でも固定されるが、確定記述ではそうではないから、「漱石は小説を書かなかった」と、「猫を書いた作家は小説を書かなかった」に矛盾として差異が現れ、置き換え不可能なことが示される。クリプキ可能世界意味論によって、ラッセルの「これ」が固有名と異なることを示した。むしろ、ライプニッツら多数世界論に比して、現実世界論といえる。
    固有名は、一つしかないものの指示ではなく、他を前提した「他ならぬもの」。クリプキが共同体を強調するとき、世代的な因果の連鎖において伝えられること、つまり非対称的な教える-習う関係。だからこそ、『名指しと必然性』のあと『ウィトゲンシュタインのパラドックス』が書かれた。
    →固有名を名指す非対称的なコミュニケーションの連続が、規則と私的言語の解釈につながる。
    固有名は、「他ならぬこれ」という固定で、他=多の可能性を排除する。名指しは外面的偶然的で、固有名が共同的規範に内面化されない性質をもつ。山や川につけられた名前は、後の世代が用いなければ失われる、というようにコミュニケーションの問題としてある。
    ヘーゲル『小論理学』、アリストテレスの現実解釈は、直接の現存ではなく、現実性としてのイデア。すなわち、プラトンのイデアはデュミナスにすぎず、現実性は、エネルゲイア、外に現れる内的なもの、内外の統一。
    ヘーゲルは、内的なもの(可能性)を、現実性のモメントとして捉える。可能性は、現実性の内面にすぎないから、外的な現実性すなわち偶然性である。偶然的なものは、存在の根拠を他のもののうちにもつ。
    柄谷の考えでは、現実性とは諸可能性の一つの「選別と排除」。「ああだったかもしれないが、こうである」。ヘーゲルは、現実性と必然性が自己完結したものだとするが、他なるものとの関係にある。他者性、差異性を消去してはならない。ソシュールの言語の線条性とは、発語が現実になされるとき、その他の表現の中でなされる性質。
    構造主義の名に値するのは、現実存在を経験的事実としたりヘーゲル的に必然化したりするのではなく、多数の系列と可能性の中で、現実性を見出すこと。この、様相modalityを問い直すことは、形而上学的問題。
    ・第五章 関係の偶然性
    固有名について語るためには、様態modality(可能性、現実性、偶然性、必然性)に関わる。可能世界論は、ライプニッツによって考え出され、ラッセルが批判し、クリプキが両者を批判した。
    唯名論において、実体である個体は、固有名で指示されるが、一般名から特殊される集合のメンバーではない。ライプニッツのモナドも同じで、多数で多様。しかし、形而上学においては、実体が先行し、固有名で呼ばれるにすぎないとされる。ライプニッツの固有名も個体を名指すときに用いられるだけ。突き詰めると、ラッセルのように「これ」を真の個体実体として、固有名を確定記述に置き換え可能とするほかない。
    →唯名論は、固有名があって実体を示すが、形而上学とモナドは実体があって固有名で名指す。
    ただし、ライプニッツのモナドは、分析的な述語を含む、現実的な個体(主語)であり、その意味で固有名に基づくといえる。ライプニッツ『形而上学叙説』、真なる命題は、全ての述語(必然的、偶然的、過去、現在、未来)を含む。分析・綜合的命題の区別ではなく、必然・偶然的真理の区別。必然的真理とは全ての可能世界で妥当する真理、偶然的真理とはこの世界でのみ妥当する真理。神が可能世界から最善選択する。これは、個体としての主語にすぎない。微分法的な思考で、微分=差異化ディファレンシエートされた点が連続性としての生成や運動を表出する。
    →ウィトゲンシュタイン名
    しかし、「他でない」にとどまり、「他であったかもしれない」というモナド間の交通が不明瞭。
    モナドは、同一の宇宙を媒介して交通しあっている。商品が貨幣を通じて交換されることで、各商品が交通するように。しかし、この見方は、貨幣の単一性に帰着する。
    ラッセルはスピノザ-ヘーゲル主義者の内面的関係の一元論(むしろスピノザは多元的だが)に対置して、多数性を確保するために多数の実体の関係を想定する外面的関係を強調した。しかし、関係の外面性は、関係の偶然性に置き換えできねばならない。ライプニッツの個体的実体は、外的関係(可能世界)をも含む。つまり、クリプキの可能世界を通したラッセル批判は、多数を想定する多くの「これ」では不足し、可能世界を含む現実における偶然性を指示せねばならない。ライプニッツの問題は、個体的実体が固有名に基づくにも拘らず、実体が固有名に先立つとしたところ。モナドを固有名で指示することで単独性になるのは自明で、そのことが同時に多数性を意味する。したがって、個体的実体ではなく、固有名を考察すればよい。固有名を確定記述に還元すれば可能世界で背理する。固有名の「他ならぬこれ」は、可能性をはらんでいる。そして、名指し関係の外面性と偶然性に依存し、交通=コミュニケーション=交換にかかわっている。
    固有名が確定記述に還元されないということは、一つの言語体系に内面化されないということ。それが外国語に翻訳されない理由。
    マルクスのモナドロシー批判、単純個別的偶然的な価値形態、拡大された価値形態、共通の本質をもたない外面的偶然的な関係。売り買いの非対称な外面的関係は、命懸けの飛躍=関係の偶然性の結果。古典経済学やヘーゲル論理学のような単一の関係体系への還元に対する、拒否。個体の多数性。
    九鬼周造は、ヘーゲルの定言・仮言・選言的判断にあわせて偶然性を三つに分けた。①定言的偶然は、一般的本質に対する綜合的な個物・事象の関係。②仮説的偶然は、理由性(理由帰結)と因果性(原因結果)において、2系列の邂逅(出会い)が偶然的であるもの。③離接的偶然は、可能的離接肢(選択肢)、ないことの可能性からみた偶然。
    九鬼周造『偶然性の問題』、個物及び個々の事象の核心的意味は、一と他の系列の邂逅、無いことの可能に存する。偶然性の意味は、必然性という一者(同一性)に対する他者の措定、すなわち一者と他者の二元性のあるところに存する。★
    重要なのは②仮説的偶然で、2系列を見渡すヘーゲル精神のような透過的視点を否定することは、偶然性を回復すること。マルクス『ドイツイデオロギー』における交通の強調。ヘーゲルのように「本質は結果において」みるなら、いかに複数であっても一系列としてみえる。歴史が一系列になる。これに対して、単に複数性を主張しても一系列に回収されてしまうから、一つの立場に立てない売る買う、教える学ぶの非対称な関係で見る必要がある。個体単独性の問題は、固有名の問題であり、偶然性(可能性)に関わるが、それは社会的(非対称的)交通の問題になる。
    ・第二部 超越論的動機をめぐって
    ・第一章 精神の場所
    精神身体・主客のような近代哲学批判は、実はデカルトと無縁である。デカルトにとって二元論の拒否にこそ精神がある。
    →魂
    コギトは、「私は考える」とは異質。レヴィストロースはルソーを持ち出し、デカルトのコギトの自明性を批判するが、回想、数学的構造はむしろ方法序説的。デカルトは、人間が認識よりも先例や習慣で確信していることを見出し、自然と演繹的な原理との差異のために、旅、実験を行う。レヴィストロースの意識されない構造もまた、演繹的なもので、実証されない。これは、デカルト的方法。構造論的分析は、意味内容を排除して、要素と関係の形式的集合を取り出しうる場合のみ有効。したがって、構造主義の祖は、デカルト。感覚図形を幾何学座標に変更し、古代的ユークリッド幾何学から転化した。数を形式化する現代数学の公理主義と、そのゲーデル不可能性も、デカルトが発端。
    デカルトが住んだオランダの商業都市は、フランスにもオランダにも属さない荒野としての場所。私は何者でもない、だからこそ私は在るかという問いが生じる。慣習に属す限りこの問いは必要ない。見出された私は、神によるしかないが、それは何も支えがないのと同義。デカルト「主義者」においてコギトは内省的。デカルトの私は思惟を疑うゆえにあり、精神がある。精神は、自己意識の外部にある。デカルトのコギトを特徴は、外部性。デカルトの明証的原理は、慣習における思惟にとっては一致せず、反対を生むから公表しなかった。
    「私が考える」が慣習にすぎないのではないか、という疑いが、精神の証明。意識は身体。方法的懐疑が、超越論的な外部性としてのみ可能であることを、デカルトは神の存在として結論づける。ウィトゲンシュタインが、多様な言語ゲームの外に出られないというとき、その外部に立っている。内的体験、私的言語を批判するとき、それが社会的慣習としての言語ゲームであることを指摘し、精神と私的実存を要求していた。
    デカルトの身体は、制度、構造、システム、規則を含意する。そして身体は、自然、心理的文化的精神的なものと同じで、すべて機械。異質なものを同一原理で説明する方法は、機械論システム論の物質生命の区別を除く方法と同じで、デカルト自然学。デカルトは人間と動物の差異を精神の条件としての言語に求めるが、精神の証明ではない。言語体系は機械である。
    ・第二章 神の証明
    デカルト思惟cogitatioは、フッサール意識作用。カント『純粋理性批判』、デカルトのコギトは、思考作用の超越論的主観すなわちX。誰にもある基底的な自己意識。考えると疑うは異なる。疑うは私的な決断。デカルトは、コギトの明証性についてなお、私的であると感じている。我思う、ゆえに我ありではなく、我疑う、ゆえに我ありというとき、共同体の外部に出ること、一般的な私=主観に還元されずに実存することを意味する。
    神の存在証明は、原理的にキリスト教的な神に反するギリシャ的な知の哲学において、哲学の範囲で証明する必要があった。しかし、中世西欧哲学者はイスラム経由のギリシャ哲学であるがゆえにキリスト教を擁護せざるをえなかったが、カントは哲学的に、理性の越権行為として神の証明を斥けた。実践理性の問題として、トマスアクィナス的な理性と信仰の合一を、分離した。
    デカルトの神は、慣習の外部にある。スピノザ、神は、表象知覚ではない、観念。パスカルが『パンセ』でいうように「デカルトは神なしに済ましたかった」が、できなかった。観念に含まれる原理が現存するように、神も現存するという証明は、元々アンセルムスのものであり、カントの批判は的を射ていない。私が疑うのは、不完全だからであり、それは疑わしめる完全なもの、すなわち神があるから。★
    疑いを強いる差異の絶対性が神。疑うことには、他者の他者性、レヴィナス他者の痕跡がある。全知全能は、無限界的拡大ではなく、異質なものということ。神は、全然異質的な他者。
    デカルトの通俗的な物心(主客)二元論(デカルト主義)は、他者を見出しえないことな問題にされ、フッサールの他我の共同主観性もその域を出ない。レヴィナス『全体性と無限』、デカルトのコギトは、無限なる神の存在の確実性に依拠したもので、コギトの有限性は、その死ではなく、完全無限に対する自己の不完全性有限性。カントフッサールハイデガーとは逆に、デカルトは無限を先行させて、有限を捉えた。ヘーゲルは全体性の哲学の系譜にあるのに対して、デカルトは構成しえない外部性、無限を見出した。
    デカルトへの誤解は、疑う思うを同一視するデカルト主義、一般的自己意識を精神と呼んでしまう。しかし、疑うことが他者性(差異性)と私の単独性を示す。
    →批判的精神★
    ニーチェ力への意志。スピノザ『エチカ』倫理。我思うゆえに我ありと、無限なる神の存在は、コギトの明証性からの証明ではない。むしろ、無限によって外部的実存としてのコギトが可能であり、無限の中で疑いつつ我ありということ。★
    カントの主観は一般的自己、すなわち客観的世界が構成されるときの視点。人類、ヘーゲル精神。それに対して、デカルトのコギトは私的単独的。カントから振り返ってデカルトを見ると、主体的自由は何にも基づかないから神によって基礎づけられないということになり、近代認識論と実存主義を見出すが、これは誤解。理論実践も認識倫理の区別はデカルトにはない。subjectivitätは、新カント派認識論の主観性と、西田哲学の存在論的倫理的実践的な主体性に訳し分けられる。subjectの両義性はデカルト我思う(主観性)ゆえに我あり(主体性)から生じた。フッサール現象学とハイデガー存在論。実存主義における実存は、共同体システムに対する外部性、つまり認識論的な側面が欠けている。逆に、認識論には実存が欠ける。
    →主観と主体、現象学と存在論、認識論と実存主義、共同体と私★
    客観性は、知覚に反している。数学的関係における把握。デカルトは、数学を知覚から解放し、数量ではなく関係の規則性でみた。のちの集合論につながる。ライプニッツ普遍数学もその拡張だが、その普遍性は、一般性にすぎない。デカルトは、知覚に基づく自然主義ではない、客観的世界を基礎づけたが、フッサールは超越論的コギトにしてしまった。デカルトは、客観性を神の観念に見出した。主客二元論は、客観ではない。科学哲学の客観的世界のパラダイム論は、『方法序説』の慣習としてすでに指摘されている。科学哲学の通約不能性は、デカルトが斥けた懐疑主義に陥っている。デカルトの神は、我々に疑いを引き起こす、絶対的な差異性。外的な場所などはない。これは、メタレベルの無効化。これを徹底したのは、スピノザ。
    ・第三章 観念と表象
    コギト(外部的実存)は、無限の中で思惟しつつ在るということ。デカルトを批判的に読んだスピノザにとって、神とはこの世界であり、観念。スピノザは、表象と観念を区別した。デカルトの神は、人格的表象であるとした。また、無限の延長も、その外部を想定しているので、表象にすぎない。デカルトは、図形表象の想像力を代数化し、数学を表象から解放した。スピノザは、三角形の内角の和の定義(観念)をもつ者にはそれ以外の想像ができないように、神の観念をもつものは、デカルトのように神が人間を欺くという人間的な表象はせず、存在証明の問題を必要としない。『エチカ』、神とは、絶対に無限なる実体、永遠無限の属性からなる実体。
    スピノザにとって概念は、表象に属するから、観念とは区別される。概念は、人間が事物を抽象的に把握することで形成されるもの。円は「1点を固定し他点が動く一つの線によって画かれる空間である」という観念(定義)をもとに、全ての特質が導き出される(起成原因を表現している)。同じように、「神は最高完全な実体である」というのは概念であり、「神は無限な実体である」というのは観念である。概念は、言語の規則体系(共同体)の同一性に依る。概念で考えることは独我論。観念は、通俗的な内省ではなく、概念=言語の同一性の外部。『エチカ』49註解、観念・精神の概念と、想像の像と区別し、観念と言葉と区別することが必要。ドゥルーズ『差異と反復』、キルケゴールの反復は、単独なものの普遍性(観念)であり、特殊なものの一般性(概念)と対立する。★
          <観念>
          普遍性
    <概念>一般性 ╋ 特殊性
          単独性
    これは、スピノザの概念と観念の区別と同じ。ドゥルーズ、一般特殊は媒介あるいは運動が必要だが、単独普遍は直接的結合。スピノザの神も同じ。直接知。無限の中で私は思いつつ在るは、証明=媒介を要しない。スピノザに反復を見るなら、自己原因的・能産的自然(神)。そうでなければ自然法則(科学)に取って代わられる。神の永遠性は、絶えず反復する観念。デカルト主義、カント、フッサールの主観(特殊)は、共同主観性(一般性)。スピノザは、単独性がかかわる普遍性を観念と呼んだ。★
    『スピノザ往復書簡』、物を一と数えるのは、共通の類を多数想定した上でのことであり、神は一般的観念を形成できないから、一、唯一と呼びえない。
    つまり、多くの神に対して一つの神性があるから、一つの神とは言えないということ。この神=世界が在る。ウィトゲンシュタイン、世界が在ることが神秘だ。主観ではなく、この私、この世界。単独性としてのコギトなしに神=普遍性という観念はありえない。
    ・第四章 スピノザの幾何学
    スピノザの表象(想像知)の批判は、無限の実体としての神の観念によって可能になる。我々は、無限を事物のように見ることはできない。抽象的に想像した無限は、表象概念である。デカルト幾何学は、図形を数で表すが、数の間にいくらでも数が見出される。ライプニッツ微分法は、無限小をdx/dyという比として代数的記号的に解決。無限小の点は、形而上学的であり、いわばモナドである。無限性を全体性にすること。個(特殊性)と類(一般性)。個々のモナドには窓がないが、あらかじめ規定された相互関係において、交通し合う、予定調和。無限を数として扱うのは、19世紀後半のカントールを待たねばならず、それがスピノザに類似する。
    スピノザの本当の内的構造は、『エチカ』の幾何学的形式に潜んでいるのではないか。
    ブルーノ宇宙論の非ユークリッド幾何学は、球面がモデル(表象)。対して、数学は形式(観念)。一群の公理から演繹して得られた定理の形式(観念)を、解釈して得られたものを公理系のモデルという。モデルは、一般的概念にすぎない。どんな解釈モデルにも妥当する公理系が観念。スピノザの幾何学的叙述は必然的、デカルトのユークリッド的叙述は恣意的。無限は、知覚や表象の対象ではない。公理主義(形式主義)が生まれる。無限とは、それ以上の超越がありえないと世界を閉じるもの。内外、本質現象、真理幻想、精神身体などの二分法を止める。
    ・第五章 無限と歴史
    『エチカ』18、神は、超越的ではなく、内在的である。神とは、自然であり、世界である。★他ならぬこの世界、無限。神のみが実体ということは、それのみが自己原因。この世界の外は、超越的神にしろ、世界の意味目的にしろ、表象(想像物)でしかない。
    →ウィトゲンシュタイン語りえぬもの
    『エチカ』29、偶然は存在せず、神の本性の必然性から存在や作用を決定されている。個物は、あらゆる個物との原因と結果の連鎖であるから、個物を単位とみなしえない。アルチュセール、スピノザ因果性は、構造論的因果性、多元的決定論。『エチカ』第4部序文、自然に目的はないが、それは永遠無限の神の必然性に理由ないし原因がないから、存在と活動に目的はない。ここには、カントのように自然と自由、科学と倫理の分離はない。スピノザ自然史。一切が歴史的で、世界に外部(理念目的物語)がないから、あらゆる歴史(出来事)は、自然史に属する。スピノザは、奇跡はなく、あらゆる出来事と同様に、必然的に自然の法則に従って生起する。自然の能力が、神の能力そのものなのだから。奇跡は、自然=神そのもの。ウィトゲンシュタイン、世界が在ることが神秘だ。
    スピノザの無限は、超越の不可能性、全体性の不可能性。ヘーゲル精神の全体性はない。スピノザの自然史は、観念であり、それのみが歴史の物語性・表象性を明らかにする。マルクス『資本論』序文、経済的社会構成の発展を自然史的過程としてみれば、個人は、諸関係を超越せず、社会的諸関係の所産としてある。つまり、歴史は、理念目的道徳をもたない、自然史。これはスピノザに由来する。コジェーヴ『ヘーゲル哲学入門』、ヘーゲル弁証法は、弁証法的に揚棄される言説ではないから(弁証法批判は弁証法であるから)、ヘーゲル哲学は、超越の哲学を完結したもの。マルクスは、超越の不可能性を示した。
    註、自然法則は、この宇宙内に限定されているから、宇宙・自然の歴史に属している。したがって、自然科学は自然史に近づいている。
    ・第六章 受動性と意志
    スピノザ、自由意志、超越は表象にすぎない。一切が神=自然の中にあり、外に全知の神などいない。スピノザ、神の表象は、幼年期に親に対してもつ畏怖と依存の感情による。この自然=世界に起源がある。
    →フロイト
    『エチカ』35注解、自由意志があると思い込むのは、自分の行動の決定原因を知らないから。
    原因を構造に入れ替えれば、構造主義。
    『デカルトの哲学原理』、人間の精神あるいは霊魂もまた絶対的なものでなく、むしろたんに思惟的自然の法則に従い観念によって一定の仕方で限定された思惟である。
    デカルトのように思惟と延長が実体なのではなく、思惟は身体の中で可能なので分離できない。思惟はつねに表象でしかありえない。フッサール『ヨーロッパ諸学問の危機』、自然科学的知が知覚や生活世界から遊離していることを危惧。科学という表象も自然史に属す。意志は、感情(情念)と対置されるものではなく、別の感情、すなわち欲動(意識的衝動)。感情欲望は不可避であり、理性や意志で克服しえない。フロイト、宗教は集団神経症。『エチカ』第5部3、受動感情は、その感情について明瞭判明な観念を形成すれば、ただちになくなる。★真理も受動の表象。別のイデオロギーが取って代わる。
    しかし、観念は意識ではないか。超越は表象にすぎないということが、超越ではないか。受動的な表象とは、主体ではないか。
    スピノザは超越論的である。スピノザで、語られずに存するのは、超越論的コギト。主体(個)を否定しうるのは単独性。★『エチカ』の外部的な場所、実存が、無限を見出しうる。スピノザ、聖書の奇跡は民衆を動かすため。理性ではなく、想像力表象力の刺激。オプティミズム、信仰的に映る。
    フロイト『文化への不満』、文化は人類を完全性へ高めたりしないから、私は預言者面をしないが、人々が求めるのは慰めであり、この点革命家と信心家は同じ。ペシミズム、ニヒリズムに映る。
    希望なきゆえ絶望はなく、意味目的なきゆえ無意味はない。
    ・第七章 自然権
    主体は、自然史(無意識的構造、制度)に規定されており、受動性としてしかありえない。意志の自由と超越の否定。しかし、通俗的には、原因を知らないから、自己を自由な主体と想像している。現代の主体批判は、全てスピノザ的。例えばサルトルは、実存は、投げ込まれた歴史的状況という存在の無を超越するほかない「自由の刑」に処せられているとするが、これはデカルト的。スピノザの主体批判は、外部的単独的実存。
    『エチカ』第四部序文、人々の形成する概念の典型に自然物が一致しないとき、自然の背理ないし誤りによる不完全と偏見されるが、神=自然に活動や存在の原因や目的はない。
    リアリズムとノミナリズムの対立は、アトミズムとホーリズム、個が全体とするライプニッツ的ホロニックス、個と全体が循環するヘーゲル弁証法に引き継がれている。これらに欠けるのは単独性。★
    ノミナリストのホッブズ、人間は自然状態で対立するから、自然権は国家に譲渡されねばならない。『エチカ』第四部34、人間が感情的なかぎり、対立的。しかし、全面的には譲渡しない。『神学政治論』、自分の力や権利を、人間としての立場を失うほど譲渡はできず、最高権力も感情までを命じることはできないから、各人が決定できる権利は保留される。ホッブズは個から類、スピノザは類に関わらない単独性としての個。譲渡しえない単独性としての個体間の社会的な関係が、社会契約。『エチカ』4-18、自然権は、共同の居住、土地確保、自己を守る、暴力排除、共同意志に従い生活するときのみのもの。
    →ルソー一般意志
    スピノザの国家を、マルクスは市民社会と呼ぶ。社会的な関係と交通の網の目。スピノザは、社会主義的国家。
    個-共同体(一般性・表象)と、単独者-社会の区別。カント的なコスモポリタニズムが破綻するのは、ヘーゲルのように共同体(家族民族国家)がその内部で思い込んだ表象にすぎないから。
    ・第八章 超越論的自己
    『エチカ』第一部付録、目的論は自然観を変えてしまい、原因を結果、結果を原因と見做してしまう。
    これは遠近法的倒錯への批判。デカルトの経験的心理的主体を疑う主体は、超越論的自己(フッサール)。しかし、身体的心理的主体と同一視すると、外部性なき超越的主体になってしまう。
    超越論的主観は、在るのではなく、外部的であろうという態度。★共同体の外に超越してあると思い込むのは、共同体の内部にある思考。自己言及ではなく、共同的システムに自己関係的でなければならない。超越論的と、意識は分けるべき。
    →『内省と遡行』批判
    デカルトに懐疑を促したのは、共同体間の差異。★差異は、諸共同体を超える世界(神)の普遍性を証す。差異性(単独性)としての私において、はじめて普遍性が存在する。★
    スピノザにおいて、超越論的主体は、理論的に呈示しえないから消されている。フッサール『危機』、判断中止した自我は世界のうちに登場しうるものではない。
    →ウィトゲンシュタイン『論考』独我論
    超越論的自己は、個・孤立・一人や一般的共同主観的な私ではなく、単独者、この私。超越論的自己とは、反復、意志。単独性の主体と、普遍性の観念は、「疑うこと」によって、直接無媒介的に繋がっている。
    フッサールの共同主観性は、普遍的言語がない、多様な言語(共同体)の意識規制を受けるから、存在しない。
    ・第九章 超越論的動機
    カントの批判は、前提に遡り吟味すること。超越的(メタ的)レベルにおいてではなく、積極的立場の二律背反を示し斥ける、その意味で批判は超越論的。脱構築。
    ここでは超越論的とは、フッサール的な自己意識構造や統一ではなく、経験的に自明とされていることを括弧に入れて、その可能性の条件を吟味(批判)すること。デカルト二元論的近代思考は、認識論的枠組みを吟味した意味で、超越論的。
    これは、現代の認識論的枠組みで過去を解釈する歴史主義とは異なる。
    →過去の解釈では認識論的枠組みが変わらないので、認識論的枠組みそのものを変える視点が超越論的。
    ニーチェの系譜学的とは、認識の遠近法的倒錯(歴史性)を抉り出すということ。マルクス『ドイツイデオロギー』、後代の歴史は、前代の歴史の目的ではなく、前代から後代への影響の抽象物があるにすぎない。ひとは目的論的に生きている。物が私の前にあることを括弧に入れることが超越論的。日常でそれをすれば分裂病者。
    柳田國男の学問は、歴史学民俗学いずれでもなく、歴史性を見出す内省の学問、現在の自明性を超越論的に問い直すこと。スピノザは、自由や意志を否定したのではなく、原因を無視して自由と思う状態を批判し、超越論的な意志(知性)に自由を見出す。★原因と結果の遠近法的倒錯を見出す超越論的思考を最初にいったのはスピノザ。現象学、マルクス主義、精神分析、知の考古学、ディコントラクションは、それぞれ超越論的。
    超越論的主体が在るというと直ちに経験的(超越的)主体になってしまうから、そのような主体を批判することにおいてのみ、つまり、外部に立とうとする実践的主体性においてしかない。★
    カントは万人に妥当する主体とするが、対してフッサールは語りえない単独性を主張する。それを語ったのはデカルト『方法序説』。デカルトと同じスタイル、レヴィストロース『悲しき熱帯』、旅人と探検家が嫌いだ、海外調査を物語る必要があるのだろうか。旅と探検は超越論的動機と切り離しえない。経験的自明性を疑わせる絶対的他者性差異性の体験である、旅なくしてコギトはない。逆に、旅や探検を好む者は、他者性を奪うこと、差異を吸収すること、自己のうちに所有することを目指す。超越論的主体的であることが、他者によってこそ可能。
    →他者性としてのデカルト的な神の立場を想定することが、疑う批判する場所の根拠になる。★経験的自己・共同体との差異性として、疑い批判する、超越論的自己がある。★
    キルケゴール『死に至る病』、絶望は自己との関係の齟齬であり、自己で自己を基礎づけようとすること。
    絶望は、『資本論』でいう命懸けの跳躍なしの価値の内在を信じること。経済学の否定ではなく、経済学の法則性反復の基底に反復(飛躍)を見出すことが、マルクスの超越論的な経済学批判。
    ニーチェ『道徳の系譜』、負い目責務の感情は、原始的な売買、債権債務の関係に起源がある。他者との非対称な関係、交換=コミュニケーションの超越論的構造。個別性-一般性から単独性-普遍性へ。
    ・第三部 世界宗教をめぐって
    ・第一章 内在性と超越性
    他者とは、言語ゲームを共有しない者。共同体とは、自己対話(内省モノローグ)を含む、規則が共有される内部の関係。それに対して、社会とは、命懸けの飛躍を伴う非対称な交換=コミュニケーションからなる世界。
    注意すべきは、①共同体の外、間は、空間ではなく、体系の差異としての場所。②他者は、人類学民俗学における共同体外の異者(共同体内部から要求され共同体を強固にする一般的類型から見た特殊な者)ではなく、単独性において見られる多様。
    →分類によって、固有性が消される。
    フロイト、不気味なものは、元々親密なもの。すなわち、異者は共同体内部と同質。フォイエルバッハ、神は人間の自己疎外、ヘーゲル、神は人間として現れたから人間は神的。いずれも類と個、一般特殊において、超越性(類)を人間に内在させること。ホッブズ社会契約論の譲渡は自己疎外論。
    超越性とは、他者の外部性、内面化しえない他者性、他者との関係の外面性、非対称性。絶対的他者や超越者がいるということではなく、性格。
    キルケゴール『現代の批判』、天才と使徒、内在性と超越性。①天才がもたらす新しいものは、人類一般に同化されるとその差異が消える。②天才は自身の内に、使徒は神の権能によって存する。③天才は内在的な目的論をもつ、使徒は絶対的逆説的な目的論の立場。
    →カント『判断力批判』天才は規則を作り、一般に受け入れられる。
    英雄は、共同体の目的を先取りするがゆえに、共同体に捨てられる、あるいは対立する。シャーマンは、共同体の目的を察知するために、個体性を滅却する。天才、英雄、シャーマンは、共同体にとって異者であり、それにより共同体の目的を先取り活性化する、内在的な存在。それに対して、使徒、預言者は、共同体間の相対的な他者との関係における言葉、他者の言葉、超越性。
    スピノザ、他者との関係を超越できないことから、表象的な神は超越的ではなく内在的。『神学政治論』、言葉信条ではなく、行為が善なれば信仰者、行為が悪なら不信者。
    絶対的超越的他者への信仰は、自己の絶対化超越化にほかならず、相対的他者に対して、非倫理的である。念頭にあったのは、ユダヤ教の選民思想による共同体絶対化の否定だ。超越的な表象をする預言者も人間。超越的なものは、世界の内にあるにすぎない。だから、超越的な他者は存在せず、他者との関係の超越性(外在性)としてのみある。
    スピノザ『神学政治論』、宗教儀式は、他者の命令権利に委ねること、福祉ではなく物質的便益を眼中においたことを明示している。
    宗教は二つに分かれる。①共同体宗教、②スピノザ的な世界観念を提示する世界宗教。
    エリアーデ「聖と俗」、聖なるものは、俗なるものの対照として顕現する。宗教は、聖なるもの、超越的領域にかかわるとされるが、キルケゴールは内在的領域にすぎないという。共同体の儀礼、排除のメカニズム。それに対して、世界宗教は、異質性、超越的領域をもたらす。イエスにとって、共同体的な異者(聖俗)は存在せず、他者のみがある。フロイト、パンと葡萄酒はイエスとされるが、トーテム動物を食べるのと変わらない。
    他者は、外在的超越的である。決して、疎外や理想化、聖なるもの、不気味、親密としてあるのではない。他者との交通には、飛躍、自己同一性から出ることが伴う。ハイデガーの実存existenceは、エクスタシーecstasy、共同存在、自己同一性への回帰。相対的他者との関係性が排除されている。西田幾多郎も、自己の自覚の底に絶対無という汝を見る。キルケゴールは、イエスという他者、すなわち相対的他者との関係の絶対性。西田は予定調和的なモナドロジーにすぎない。
    ・第二章 ユダヤ的なもの
    フロイト『人間モーゼと一神教』は、ナチスユダヤ人排斥期に、歴史小説とことわって書かれた、学問的証拠を欠く、意図が不透明な作品。精神分析の出自を問い直す仕事。モーゼはエジプト人であるのに、神が別の民を選んで自分の民であると宣言する。神と民はふつうはじめから一つであるから奇異である。ユダヤ人は、モーゼによって選ばれた民。ユダヤ人は、唯一神を強要したモーゼに抗い、殺した。他方、ゲルマン人の憤怒は、キリスト教には向けられず、源泉であるユダヤ人に転嫁される。つまり、共同体の宗教を奪ったのが「モーゼの一神教」。モーゼは、共同性を確立するとともに、共同体の宗教を奪った。ユダヤ的であることの起源にモーゼがある。批判すれば、その前提にもモーゼがある。
    モーゼ殺しはエディプス的。キリスト殺しは、原父殺しの反復。精神分析が、ユダヤ的であることと切り離しえない。フロイトは、ユダヤ人であるからこそ、多数者の偏見(偶像)を拒否し、排斥される覚悟もできていた。ユダヤ的であることは、共同体の間に立つこと。モーゼ偶像崇拝禁止は、いかなる共同体の神々をも禁じること。フロイトにとってモーゼは、禁止、外国人(他者)。しかし、精神分析がモーゼのような在り方であり運動。★フロイトがモーゼのように振る舞った。
    →精神分析の創始者としてのフロイト、ユダヤ教の預言者としてのモーゼ。
    ユダヤ教の法そのもの部族的にすぎない。重要なのは、偶像崇拝の禁止。★フロイトは、ユダヤ律法教義の閉鎖的共同体シオニズムに否定的であるが、偏見に対し知的に自由であることをユダヤ的であることに見出す。律法拘束と、偶像崇拝禁止による知的精神的開放の両義性。つまり、この世界の外部に何かがあること(表象)を認めない。エリアーデのような聖なるものが宗教の本質なのではなく、聖俗の対立機制そのもの(共同体宗教)に対立するもの。
    レヴィナス『超越外傷神曲』「マイモニデスの現代性」、異教とは、世界の外に出る能力を欠くこと、聖霊や神々を世界内に定位し、自足し自閉した世界の中に閉じ込められている。
    シオニズムを認めないフロイトにとって、国家は偶像。ユダヤ的なものの起源は、モーゼの偶像崇拝禁止。世界外に出る能力は、モーゼが外国人(エジプト人)であること。元々世界の外にいた。フロイトによれば、モーゼは締め出されたファラオイクナートンに繋がる貴族であり、アートン(一神教の宇宙)信仰を再興させようと異民族のセム族を自分の民に選び、理想を実現しようと試みた。エジプトが世界帝国になったことと、一神教の形成は、貨幣・市場の形成と並行している。フロイトが注目するのは、セム族が唯一神を選んだことではなく、逆に唯一神がセム族を選んだこと。民が神を選ぶことは、内部的な願望の表象、すなわち偶像崇拝。しかし、神が民を選ぶのは、偶像崇拝の禁止。したがって、他者との契約。フロイトが弟子から離反されたのは、感情転移、リビドー、エディプスコンプレックスへの一神教。フロイトはモーゼに自らを重ねていた。
    ・第三章 思想の外部性
    ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』、道徳宗教は閉じられた社会(共同体)の自己存続維持を目的とする。開かれた社会は、世界宗教(ギリシア賢者、イスラエル預言者、ブッダ、キリスト)の手本となる特権的な人格によって開示された。閉じられた社会は自然に強いられているが、開かれた社会は自然と絶縁する、自然の創造的進化、生の飛躍エランヴィタルがある。しかし、柄谷は閉じられた社会を前提にすることと、歴史的発展を疑う。
    自然科学に似せようとした文化諸科学は単一の均衡システムから出発した。レヴィストロースだけでなく、不均衡な動的プロセスを重視したベートソン分裂生成、ジラールスケープゴートもキルケゴール的な内在的な領域から端を発する。柄谷が考えたいのは、そのモデルが隠蔽する超越的領域、社会的領域。経験的でないから、抽象力を必要とする。自己・共同体の外部との関係、他者との交換コミュニケーション。共通の本質は、他者との交換という命懸けの飛躍の後から、もたらされる。
    人間の共同性を最初に疑ったのは、ルソー。自然状態、自然人は、共同体の自明性を疑うために提起される。ルソー、人間の不平等は、相互依存的、共同体的存在であるがゆえに生じる。ホッブズと異なるのは、自然状態に、動物を含む他の感性的存在への同情を見出す点。ルソー『人間不平等起源論』、理性に先立つ二つの原理、①安楽と自己保存の関心、②感情をもった存在、特に同類の死苦への嫌悪感。この二つを競合・組み合わせにより、社会性原理なしで自然権や規則を生む。そして理性が自然を押し殺すとき、この規則を別の根拠で確立させる。他人への義務は、後発の知恵の教訓のみではなく、同情によらなければ自己保存が優先されてしまう。『言語起源論』、野蛮の時代は黄金時代で、人々は離れており、手の届くものしか知らず欲しがらなかった、人々は出会うことは滅多になく、戦争状態だが地上は全て平和だった。中井久夫『分裂病と人類』、狩猟民は分裂病的だが、農耕社会から産業資本主義に至るまで強迫神経症的であり、分裂病を治療することは強迫神経症タイプに変えることを意味する。ルソー、未開人は狩人、野蛮人は羊飼い、文明人は耕作者。自然人の孤独な自足と、社会的であること。おそらくこれはスピノザの国家に基づいている。
    フロイト『トーテムとタブー』、トーテミズムが宗教の起源、つまり原始時代の族長支配に対する息子たちの父殺し、父を食うことによる同一化。『モーゼと一神教』、闘争の洞察、協力による解放、感情的結合が、和解、つまり社会

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740017

  • [ 内容 ]
    <Ⅰ>
    本書は〈他者〉あるいは〈外部〉に関する探究である。
    著者自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味すると同時に、知の領域に転回をせまる意欲作。

    <Ⅱ>
    『探究1』で、独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されているような思考であると指摘した著者は、『探究2』では「この私」を単独性として見る。
    単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。
    固有名や超越論的コギト、さらに世界宗教に至る各レベルにおいて、個(特殊性)―類(一般性)という回路に閉じこめられた既成の思考への全面的批判を展開する。

    [ 目次 ]
    <Ⅰ>
    第1章 他者とはなにか
    第2章 話す主体
    第3章 命がけの飛躍
    第4章 世界の境界
    第5章 他者と分裂病
    第6章 売る立場
    第7章 蓄積と信用―他者からの逃走
    第8章 教えることと語ること
    第9章 家族的類似性
    第10章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
    第11章 無限としての他者
    第12章 対話とイロニー

    <Ⅱ>
    第1部 固有名をめぐって(単独性と特殊性;固有名と歴史;名と言語;可能性と現実性;関係の偶然性)
    第2部 超越論的動機をめぐって(精神の場所;神の証明;観念と表象;スピノザの幾何学;無限と歴史;受動性と意志;自然権;超越論的自己;超越論的動機)
    第3部 世界宗教をめぐって(内在性と超越性;ユダヤ的なもの;思想の外部性;精神分析の他者;交通空間;無限と無限定;贈与と交換)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 『探求I』を読んでしまったならば、『探求II』も読まねばなるまい、という気持ちで読んだ。
    岩井克人の本と併読、あるいは続けて読むべし。

  • 最近読んだ『感じる脳』 (Looking for Spinoza: A.R.ダマシオ)で、スピノザについて参照されていたので、同じくスピノザを援用して著者の持論が展開されていた柄谷行人『探求 II』を手に取り再読した。

    結果、ダマシオのスピノザと柄谷のスピノザは全然違うもので、改めてテキストというものは多様に読めるものでらうということがわかった。単純化して説明すると、ダマシオが『エチカ』第二部の「精神の本性および起源について」や第三部の「感情の起源および本性について」に強い反応をしているのに対して、柄谷はより根源的であろう第一部の「神について」に対して強い反応を示す。スピノザが「無限の実体」として規定したような「神」が、外部性や他者についての思索を深めていたこの頃の柄谷にとってピタリとはまるものであったのか、ずいぶんとスピノザに依拠して論を進めている(スピノザだけではないが)。

    今あらためて読んでも、はっきり言って自分が理解できているのか分からないが、有無を言わさず読むものを説き伏せてしまうような力強さは相変わらず。
    第一章では、一般性に回収されない「この私」の「この」性、つまり柄谷のいう「単独性」について語られる。基本的にはこの本の中では、主題となる「単独性」を巡る言説が、デカルト、スピノザ、レヴィ=ストロース、フロイトなど古の哲学者の言葉を挙げながら繰り返される。固有名(第一章)や世界宗教(第三章)もいわゆる「この」性を探究するために挙げられた要素である。「世界に神秘はない、世界があることが神秘だ」とウィトゲンシュタインがいった場合の"この"世界についての思考とも言える。
    超越論的自己にも繰り返し言及し、自由意志や自発性、受動性についても興味深い論が展開される。「主体または自己は、本来身体の変様として受動的であり、さまざまな「原因」によって規定されているにもかかわらず、そのことを知りえないがゆえに自発性と思い込まれた"想像的なもの"である」という点でスピノザに共感を示す。この辺りの自由意志の話は現代の脳神経科学の知見にも沿っているようで、興味深い考察となる。

    「むろん私は、別にデカルトやウィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってもかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。」と言い切ってしまう傲慢さが心地よい。倫理的に批判を突き詰めているという趣があり、緊張感が感じられる。個人的には柄谷行人が最も輝いている時期の最高峰の著作である。


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    『感じる脳』(アントニオ・ダマシオ)のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4478860513

  • 共産主義だとか、マルクス主義だとか、古典的な資本論だとか、僕が学生時代に既に見向きもされなかった思想や背景について、「合点がいく」説明を初めてしてくれたのがこの著書です。 なぜ大学で教えてくれなかったのか、とマネタリズムを勉強しながら、一方マルクス経済学の講義を受けていた僕は思いました。

  • 大学に入ってすぐに大きな影響を受けた一冊。
    全般的な主張よりも、「単独性」が指し示す「この私」の「この」という概念に惹かれた。

    私がいつまでも「他者性」を問題にしてしまうのは、この本が一つのきっかけ。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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