- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061591714
作品紹介・あらすじ
人の精神感覚は、様々な社会構造とその変動による経験で形成される。現代日本社会の構造と経験と感覚と思想とが、互いに規定し合い変容してゆく仕方を描く好著。
感想・レビュー・書評
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言っていることに妥当性はあると思うが、語り口が何とも気色悪い。世代的なものが滲み出てしまっている。
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「<実感>を手放した身体が<観念>という病を呼ぶのだ。<実感>を疑うのではなく、<実感>を信じつつ相対化するということ、自己の実感を信ずるとともに他者の実感(他の性、他の文化、他の時代の実感)をも信ずること、自己のまた他者の内部のたがいに矛盾する実感たちを、矛盾をたしかめながら積分してゆくという方法だけが、「家族」や性の領域の問題を扱うことのできる方法である」
本当に本当に本当に大事なことなのに、しばしば(特に僕のような大学院生は)忘れがちなことなので、ここに改めて付記したい。
「思想」は病である。「思考」も病である。「観念」が病だからである。
文字化というのは抽象化であり、物事の単純化である。
いくらパソコンで文字が大量に打つことができるようになったとはいえ、その時の機微をすべて文字化することがほとんど不可能であることからもわかるように、文字化は現実を捨象する。単純化してしまう。
単純化そのものが悪いわけではない。単純化するということは混沌を整理して秩序をもたらすことに通じるし、他者とのコミュニケーションを生み出す。
しかしこの他者とのコミュニケーションというのが曲者で、自身を見つめなおすとき、文字を用いてしまうのであれば、それは単に自分を「他者」として扱ってしまうことを意味することになる。余所余所しい視線を自分自身に向け続けることがーーもっと最悪なことはそのことに自覚を持たないことなのだがーー、どれほど健康を害するかということがどうしてここまで常識化していないのだろう?
それ故に、いわゆるニューエイジだの精神世界だのスピリチュアルな人々は、その貧弱さと紙一重の繊細さがゆえに、いち早くその危険性に察知し、自らの身体と、イメージと向き合おうとする。身体でもイメージ(例えば夢)でも、その点において変わるところはあまりない。どちらのほうが自分自身を理解するための媒体として優れているのかは、僕に断言することは今のところできないけれども、どちらも他者とのコミュニケーションではなく、自己とのコミュニケーションを目的としたものであるということは共通している。
現在の他者とのコミュニケーションが過剰に推奨されている現代において、思想が蔓延するのは当然のことだと思うし、もう少し言ってしまえば、他者との言語的なコミュニケーションに長けていると一般的に見なされているヨーロッパにおいて思想が蔓延したのも偶然ではない。
思想の価値そのものは依然として多少ぐらいは残っているとは思うけれど、それが毒であるということ、というよりも考えることがそもそも毒という側面を持っていることは、忘れないように生きていきたいなと思う。
このへんのところが、「僕が人間は全て病人」であるとみなしている理由なのだ。つまり、思考をしてしまうことを強制されている存在というのは、いかなる場合であっても病にかかっている。勿論、このことが逆説的に、「病の有用性」を示唆していることにも注意しなければならないわけだけども。