- Amazon.co.jp ・本 (443ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061591813
作品紹介・あらすじ
現代の「リヴァイアサン」ソ連の解体の後、「民主国家ロシア」によるチェチェンへの無差別攻撃は、全世界の人々に大きな衝撃をもたらした。このことはロシアの民主的な民族国家の建設が、きわめて困難な状況にあることを物語っている。国内に複雑な民族と宗教問題をかかえて苦悩するロシア。本書はその激動するロシアのイスラムと民族問題を、斯界の第一人者が確かなる史眼で捉えた刮目の書である。
感想・レビュー・書評
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まだ「研究者」だった頃の山内氏の著作。1980年代末という非常に学術的制約がある状況で、旧ソ連全体において辺境地域と言われる中央アジアやコーカサス、イスラーム地域に目を向け、そこで生じている民族問題をソ連全体の民族問題の中に位置づけようとする著作。このような意欲とその意味は当時においても高かったし、現在においても下記のような理由から価値があると思う。
現在における価値は、以下のような理由から指摘できる。第一に、ソ連解体後、中央アジアやイスラーム地域は基本的にそれまでモスクワやソ連西方部の視点から捉えられて来た見方とは違う、独自の歴史と独自の文化などがあり、これらの観点から歴史を捉え直す必要があるのだという「独自の歴史論」あるいは中央アジアに焦点を当てた「歴史の脱構築」が主張され、行われる様になって久しい。これはこれで十分な意義と価値がある事を大いに認めた上で、こうした傾向として中央アジアにおいてですら研究の分極化、ミクロ化減少が進み、ソ連期からそれ以後の中央アジア全体を相対的に、体系的に捉えるという試みが政治学的に日本ではほとんど十分になされていない。
なされているのは、歴史学者が「過去からの投影」として、自分のメインフィールドに関わる視座から現代政治史を捉えるか解釈を加える、もっと悪い場合は、評論的に支配的な議論に対して「ではない論」を加えるというものである。
第二に、こうした中央アジア研究の課題は、中央アジアの現代政治研究が日本では盛んではない事の裏返しなのだが(逆に歴史研究、特に近代以降現代未満の歴史研究は恐ろしいほど強固な基盤があるが)、ポストソ連空間全体で民族問題を理論や比較を意識し、まとめる際には中央アジアの動向が捉え難く(これは研究者の不在という以外にも現存する体制の問題にも関わるものである)、それ自体が我々にフラストレーションを与える。確かに、安易な比較や理論の適応には慎重であるべきだが、「ポスト山内世代」はそもそも理論や比較を意識した研究を「山内氏の失敗」とすら捉えているような印象すらある。
山内氏の研究が今から見れば種々の課題があり、しかも歴史研究者たる彼の理論や比較は、政治学者から見れば大いに穴があるものだが、それでも氏が制約を伴う時代的背景の中でソ連空間での民族問題の分類や整理を行おうとした意義は今も薄れない。むしろ、「ポスト山内世代」が山内氏の研究に内在した問題に批判的であり、こうした事に取組まないという姿勢を傾向としてとってきた事で、余計にこうした意義は高まっていると思われる。
全体をどう捉えるべきなのかという問いは、安易にレッテル張りをするようなものであればやらない方が良いのは確かかもしれないが、それでもそうしたリスクを避けつつ取組もうとしなければ、「ミイラ取りがミイラになる」可能性が高い。つまり、山内氏がモスクワのオリエンタリズム的姿勢を批判する事で、むしろその議論に乗っかってそうした言説まで流布させてしまったように、こうした彼の姿勢を批判する「ポスト山内世代」も中央アジアの一部の民族の視点からはどう見えるという、いわば「針の穴からの視点で全体を捉えようとする」無謀な試みを継続する事で、全体を見る事を放棄する事にすら繋がりかねない。針の穴からの視点は、広い全体的な視点から捉えた比較分類があってこそ、有意味なのだが、それが現在では少なくとも十分にあるとは言えない状況なのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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