- Amazon.co.jp ・本 (367ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061591936
作品紹介・あらすじ
開国以来、近代化を急務とした日本では、英語の習得は必須とされ、明治以降、多くの英語名人が輩出した。その一方でナショナリズムの台頭が英語廃止論を生むなど、時代の変遷につれて英語と日本人のかかわりは大きく変化して来た。世界の先進国としての役割を担う現代の日本人には、技能としての英語ではなく、文化の壁を超えて機能する国際語としての日本英語こそ必要であると説く刮目の英語論。
感想・レビュー・書評
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モントリオールのマクギル大学で教鞭をとる大田雄三先生の著書。
「英語と日本人」
明治時代に英語が得意すぎてむしろ日本語よりも自然に使ってしまった世代を「英語名人世代」と名づけ、どうしてそんなことが可能だったか歴史的な考察を加え、また、現代の日本の英語教育や、筆者の仏英バイリンガル環境での生活で得た経験などのコメンタリーを交えながら、追っていく。
ジョン万次郎の英文の手紙や、ネイティブアメリカンと白人の混血で日本での初の英語ネイティブ教師といわれるラナルド・マクドナルドのエピソードなど、幕末末期から明治初期のエピソードが豊富でおもしろい。また、当時の日本人がどのように英語の発音を解釈していたかなども紹介がある。
Girl: ゲロ
という表記にはなんだか笑ってしまった。他にも、人々が持っていた好奇心や憧れの表出などの微笑ましいエピソードが満載だった。
明治初期に初等教育から大学卒業までをほぼ全て英語で受けた世代がいたこと、そして、母国語である日本語をないがしろにして獲得された英語能力が尊敬の対象であったことなどは驚きだった。
英語(外国語)能力を習得すること事態に盲目的に固執する姿勢にも疑問を投げかける本書は、こう結ぶ。
外国語を学ぶことは一種の危険もないことはないと言えるだろう。それは自分が何者かと言うアイデンティティーの問題をめぐる危機を作り出す引き金のような働きをするかもしれない。いずれにせよ、とおりいっぺん以上の水準に達するためには、相当な時間とエネルギーをついやさなければならない外国語の学習から、大きな利益を得ることのできるのは、自分で考える習慣を持ち、何語を媒介するかによらず、浅薄なもので満足しない、主体性に富んだ人間だと言えそうだ。(P330)
「英語らしい英語」を躍起になって身に着けようとするのではなく、日本人の発想を生かす日本英語があっても良いじゃないか、と言う論は本当に最もだと思う、というか、自然にそうならざるを得ないのではないかと思う。
筆者が本書で触れるように、言葉は発想と切り離せるものではないから、「英語らしい英語」(この場合広くモデルとされるアメリカ、イギリス英語を指している)を喋ろうとしても、育った環境で培った自分が必ず反映されると思う。好き勝手にみなが皆、英語を話せばおそらくコミュニケーションに支障をきたすので、お互いの歩み寄りの作業が必要になってくると思う。(そしてそれはどこででも行われていることとも思う)
私は言語を学ぶのが楽しくてとても好きなので、「なんで勉強するのか」をそんなに深く考えたことも無かった。また、外国語学習する過程が主体性を育んでくれたようにも感じる。淡々と、そして丁寧に歴史の事実を挙げながらの「日本人と英語」についての考察はとても興味深かった。また、筆者に共感できるところも多かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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