- Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061592780
作品紹介・あらすじ
『老子』は、『論語』とならぶ中国の代表的な古典である。その思想は、人間はその背後に広がる自然世界の万物のなかの一つであるという自然思想の立場をつらぬくことにある。したがって老子は、人間の知識と欲望が作りあげた文化や文明にたいして懐疑をいだき、鋭く批判する。無知無欲であれ、無為であれ、そして自然に帰って本来の自己を発見せよ、という。中国思想研究の第一人者が説く老子の精髄。
感想・レビュー・書評
-
大成若欠 が気に入っているのでそのためだけに手に入れた本。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「上善如水」が飲み物としても言葉としても好きだったのだけれど、言葉としての意味は恥ずかしながらネットの知識しかなかったため読んでみた。
「孫子」が読みやすくて個人的に好相性と感じた金谷治先生による老子道徳経の上篇・下篇、全81章の解釈と解説。
構成として、各章ごとに「意訳」「読み下し」「原文」「解説」となっていたり、副題?を付けてくれているなど、初心者にも読み進めやすい工夫が随所に凝らしてある。
この人の古典解説本、親切で本当にすき。
全体の率直な感想としては「老子、水、好きだなぁ」というのと「不幸な弱者がこれ言ったからってただの強がりにしかならんでしょ」。
たまに老子自身も「これ言っても世間は誰もわかってくれない」的な恨み節を言っていて急に親近感がわく。
そして、著者の解説が上手いのか、特に下篇の後半にかけてだんだんエキサイトしてくる感じに、ひとつの物語モノで味わうようなストーリー性を感じた。
読み終えたときの達成感とか読後感が清々しい。
かいつまんで拾い読みしても得られるものは多々あるとおもうけれども、個人的には頭から終わりまでぶっとおしで読んで痛快な清々しさを感じる、というのを何回もやりたい。
これは名著。 -
「老子」と聖書を比較すると面白い。
「これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。これこそが確かな「名」だといって言いあらわすことのできるような「名」は、一定不変の真実の「名」ではない。
「名」としてあらわせないところに真実の「名」はひそみ、そこに真実の「道」があって、それこそが、天と地の生まれ出てくる唯一の始源である。そして、天と地というように「名」としてあらわせるようになったところが、さまざまな万物の生まれ出て来る母胎である。」
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。」
ヨハネによる福音書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
創世記
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」
ベイトソンが創世の神話を比較しているのを模倣できそうな感じがする。「老子」と「ヨハネの福音書」、「創世記」は言葉から万物が生まれるという点で類似している。聖書においては「神=言葉」はほとんど「創造」そのものであるが、「老子」においては、その向こうを見出そうとしているという差異をみてとれる。「ものそれ自体を認める立場」と「認めない立場」という差異性を見てもいいかもしれない。その立場は認識をどう切り取るかという話なので、どちらが正しいとかではなく。
ガリレオは「宇宙は数学の言葉で書かれている」という言葉を残している。ソクラテスのような対話が継承され、言葉は世界であるという世界観と交われば、科学が西洋で発展したということに頷ける。
ただし、アインシュタインになるとそれはほとんど反転しているかもしれない。「この世界について最も理解できないことは、それが理解可能だということだ。」
なにかまとまったことを言うには知識がない。
カッシーラーは「実体概念と関数概念」という本を記していて、それは確かプラトンからアインシュタインに至るまでの科学の言説の変化を「実体」的な概念から、「関数」のような関係の概念への変遷として捉えたものであったよう思う。あまり覚えていない。ガリレオの言葉とアインシュタインの言葉にある差異は存在の言語、神の言語としての世界の解読を行っていた科学が、世界を関係の言語によって読み解くに至った過程を示しているのかもしれない、なんて。それが正しければカルロ•ロヴェッリまでそのストーリーで直接繋がっていくわけであるが、そこまで、一貫した何かが、果たしてあるのかどうか。
「まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成り立ち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いともたがいに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、たがいに相手によって順序づけられている。」
「故に有と無と相い生じ、難と易と相い成り、長と短と相い形われ、高と下と相い傾き、音と声相い和し、前と後と相い随う。
是を以て聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。」
この「老子」の言葉にはある項が他の項との差異性においてそうであることが書かれており、そして「聖人」がそれらに惑わされない、「ものそれ自体」のような位置にとどまりつづけることが示されているのではないだろうか。
ソシュールの言語学との類似性を見てもいいし、自分の作った比較尺度の話ともかなりの類似性を持っている。禅宗は道教との交流が多く、その禅について学んだベイトソンを読んで禅について考えるようになった自分が、「老子」の言葉に類似していくのは何かあるかもしれない。
「老子」の言葉は奇妙に思う。自分が練りに練ってたどり着いた場所に近いところに頻繁に言及しているが、そこに至るまでの論証過程がなく、答えだけがあるように見える。答えしか示さないのはあまり教育上よくない。その点対話篇が残っているソクラテスや哲学の過程は優れている。論証過程があまりないから、むしろ複数人の非常に優れた知恵者が残してきた伝承や言い伝えに近いような気がする。知識の形態がなにか違うのかもしれない。道を探求してきた知恵者の身体や習慣の中に刻まれているのかもしれない。
自分が比較尺度の話に思い至るに至ったのはシャノンの情報理論、ベイトソンの情報の定義、ノイマンのいう影の社会、ソシュールの言語学や柄谷行人の可能世界論などの近代以後の論者の多くの手がかりから考えていたにも関わらず、それと類似したものを古代に閃いていたということに驚きを禁じえない。神秘。
「慈なるが故に能く勇」という言葉には感銘を受けた。訳者の解釈とは少し違うが、自分はこう思った。多分、「慈しみ」を持っていること自体が「勇」そのものなのだと。相手を倒そうと「戦う者」はその相手に打ちのめされることを恐れている。あるいは相手に何かを奪われ、失うことを。しかし、たとい相手が自らよりも強大で敵意を持っている場合でも、そのものに対して恐れからでなく「慈しみ」を分け与えることができるものは「戦う者」よりも遥かに「勇」を持っていると言わざるを得ない。その者は相手もその暴力も、何かを失うことも、自らの死も恐れていないのだから。そして、その命がけの跳躍に成功したならば、確かに「敵」を打倒できるであろうし、それは「争い」への勝利であり、そこにはただ平和だけが残るであろう。
ただし、これはほとんど「人間」にできることではない。それができるのは神性を帯びた「聖人」のみであろう。多分、それは「福音」の最も崇高ななにかの一つでもあるのだと思う。
ウクライナでは争いが起こっている。自分にはその争いは否定することはできない。自分自身、聖人になんてなれやしない。ただ、それでも最も勇敢な者は争う者ではなく、慈しみを持っている者だということを信じて、それに近いものに満ちあふれた世界作ることを夢見ていたい。
なぜこんなことを書くのか本当に意味がわからないのだが、思いついたことを記しておく。
分断する世界でも、我々は「共通の利益」を持っていないわけではない。米国と中国がどれだけ対立しても、①「第3次世界大戦」、「核戦争」の勃発、ひいてはそれを連鎖的に誘発する紛争の発生、あるいは②環境問題による人類、地球上に生けとし生けるすべての生物の現在と未来の住環境の毀損、それらを避けることは「共通の利益」であろう。
それは米中間のみならず、すべての国家、地球上のすべての生物の利益に当たるはずだ。米中ほどの大国、さらには、西洋、日本、韓国と中国の衝突が起こればいずれの側にも多数の犠牲が出ることは目に見えている。
まずは、以上の2点がいかに世界が分断しても、存在し続ける「共通の利益」であることを確認した上で、西側と東側が双方「調和をもたらす自由」と「総体から見られた真実」を尊重して、一昼夜で問題を解決するのではなく、根気強く対話を進めれば軍事的な衝突を避けることはできないだろうか。
紛らわしいレトリックや表現を弄んでいる自分が言うのもどうなのだろうという感じである。一応はあくまで、メタファーやらなんやらを用いただけであって嘘をついたわけではないと思っているのだが、まあ、そんなことはどうでもいいだろう。ただ、自身の言説における真理の探究という点で妥協をしたおぼえはないから、残しておきたい。
いつも通りのいい加減なお話。
正直なところ、自分が考えるべきでない、考えたいとも思わない、現代の時勢についてあれこれ考えすぎてしまった。向いてもいない、知りもしないことに注意を向けてどうも道を誤ってしまったようだ。
自分のこれからの本当の仕事はプラットフォームは少なくとも10年〜、思想やら社会の仕組みやらは200~300年単位の仕事であるはずだ。未だに誰からも何のコメントもメールもないから、最初で最後かもしれないが、心意気だけはそのつもりでやっていこう。何か見られているような気はするけど、それに反応するとまた病院行きだ。ただの自意識過剰であり、自分は何も見ていない。
これから諸々のことに集中するために、この読書録は次とその次で終わりにする。
「老子」は文句なしの星5つ!繰り返し読んで人生の道標にしたい。素晴らしい読書体験だった。 -
-
私には、これに書かれている内容がよくわかりませんでした。
-
漢書翻訳のスタンダード、金谷治先生。
-
自分にとっては日々の生活の、そして心の拠り所となる古典。昔も今も本質は変わらないんだなと感じる。
-
”金谷治さん訳注の『老子』。“現代人と古典とを直結するよう配慮”された訳文が読みやすい。サブタイトルは「無知無欲のすすめ」。
ガツガツせず自然体をよしとする老子の言葉は耳になじむが、以下の2文の厳しさにはドキリとした。
★他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智である。他人にうち勝つのは力があるからだが、自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。(p.113)
★聖人に短所がないのは、かれがその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ短所がないのだ。(p.215)
「権下」や「不争」など、相手に対するやわらかな姿勢も、実は、内なる厳しさや強さが表現されているのかもしれない。
読了後、本書に対して親しみを感じつつ、一方でそんなことを考えた。
<キーフレーズ>
道、水、無知無欲、明智、無為自然、さかしらの、権下・不争の徳
<読書メモ>
・「道」はからっぽで何の役にもたたないようであるが、そのはたらきは無尽であって、そのからっぽが何かで満たされたりすることは決してない。満たされていると、それを使い果たせば終わりであって有限だが、からっぽであるからこそ、無限のはたらきが出てくるのだ。(p.25)
・「最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。」
#上善は水の若し、が登場。「水」のたとえが意味するものって、こういうことだったんだ。
・この「道」をわがものとして守っている人は、何ごとについてもいっぱいになるまで満ちることは望まない。そもそもいっぱいにまでなろうとはしないからこそ、だめになってもまた新たになることができるのだ。(p.56-57)
#”いっぱいになりきると再生の活力が消える”→十分な満足を貪らない
・君主がこせつかずに悠然(ゆったり)として、ことばを慎んで口出しをしなければ、それで仕事の成果はあがり事業は完成して、しかも人民たちはだれもが「自分はひとりでにこうなった」というであろう。(p.65)
#大上の政治。
★世俗の人びとはきらきらと輝いているが、わたしだけはひとりぼんやりと暗い。世俗の人びとは利口ではっきりしているが、わたしだけはひとりもやもやとしている。ゆらゆらとまるで海原のようにたゆたい、ひゅうひゅうとまるで止まない風のようにそよぐ。多くの人はだれもがそれぞれ何かの役にたつのに、私だけはひとり融通のきかない能なしだ。わたしだけはひとり、他人とは違っている。そして、母なる根本の「道」に養われることをたいせつにしているのだ。(p.74)
#なんだかしみる…。
★他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智である。他人にうち勝つのは力があるからだが、自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。(p.113)
#!!
・内なる「徳」を深く豊かにたくわえた人は、ちょうど赤ん坊のありさまにも似ている。赤ん坊には蜂やさそりや蝮(まむし)のたぐいもかみつかず、猛獣もつかみかからず、猛禽もうちかからない。骨格は弱く筋肉もやわらかいが、握りこぶしは固い。(p.171)
#知を棄て欲を忘れて無心になる = 嬰児への復帰
★聖人はまた人と争うことがないから、だから世界じゅうにかれと争うことのできるものはだれもいないのだ。(p.203)
#逆説的な強さ。権下・不争の徳。
★聖人に短所がないのは、かれがその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ短所がないのだ。(p.215)
#知りて知らずとするは…
・天の道?自然のはこびかた?は、すべてのものに利益を与えて害を加えることはない。聖人の道?やりかた?は、いろいろなことをするとしても、他人と争うことはない。(p.241)
・老荘の道家(どうか)のほうでは、そうしたあるべき人間の姿の追求よりは、あるがままの本来の自然な人間にたちかえることによって、世界の騒乱は静まり、人びとの安定した暮らしが復活すると考えた。(p.248:解説 より)
・それによって考えられる人物像は、ほぼ紀元前300年頃の隠君子、世俗の外にあって超然としながら、しかも世俗の混乱と特に民衆の苦しみを救いたいと念願する憂世の哲学者であった、ということである。その他のことは一切わからない。(p.263:解説 より)
<きっかけ>
人間塾in東京 10月の課題図書。” -
金谷治さんの講談社学術文庫から出ている『老子 無知無欲のすすめ』。老子道徳経 上下編 計81章。底本は王弼本。馬王堆から出土した帛書の内容を吟味し、積極的に取り入れている。本文の翻訳は、逐語訳を離れ、多少の言葉を補って理解を助けるようにしている。また、脚注や解説も充実し、理解の助けになっている。
-
個人で老子の思想を取り入れるのはいいと思いますが、政治で老子の思想を取り入れるのは非現実的だと思います。
1.この本を一言で表すと?
・自己を自然から探す
2.よかった点を3〜5つ
・78 天下水より柔弱なるはなし(柔弱の徳)
→物事を受け入れる柔軟さを持つ人が強いということだと思う。固定観念に縛られないようにしたい
・71 知りて知らずとするは(わかったと思うな)
→知ったと思ったところに落とし穴があると忠告してくれている感じ。
・33 人を知るものは智(外よりも内を)
→自分自身を理解するのは本当に難しいことと思う。自分で満足できれば十分幸せであると思う。ただ自己満足との区別は難しそう。
・81 信言は美ならず(結びのことば)
→大げさなことや立派そうに聞こえる言葉は中身があるのかよく吟味しなければいけない。人に与えながら自分が豊かになるのは理想的。
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・65 古の善く道を為す者は(智をすてる政治) など理想の政治像について
→国を治めるのに知恵を不要とし、無為がよいという考えは賛同できない。現代の国の状況からいうと無為では滅んでしまうと思う。
3.実践してみようとおもうこと
・何度も読み返す。
・自分自身の弱みを見つめなおす。
4.みんなで議論したいこと
・道とはどういうものかイメージがつきましたか?
・無知無欲になれますか?
5.全体の感想
・老子は、聖人というより悟りを開いた人または仙人みたいな人だと感じました。
・各章ごとの解説がとてもわかりやすかった
著者プロフィール
金谷治の作品






この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。





