- Amazon.co.jp ・本 (217ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061593510
作品紹介・あらすじ
ルネサンス以来の西欧近代思想を論理学、自然哲学、精神哲学からなる体系に構築して、現代哲学の母胎となったヘーゲル哲学。本書はその形成と思想的遍歴を大著『精神現象学』や『民族宗教とキリスト教』などから探りつつ、筆者自らの思想を、啓蒙思想批判から古代ギリシアへの讃美に至る歴史意識の帰趨の中でとらえ直す。大学紛争の経験を通して「国家」と「自由」の問題を真摯に追求した意欲作。
感想・レビュー・書評
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著者によれば74年に刊行したものを内容そのままに文庫化したもの。そのせいかヘーゲル像がやや古い。
例えば、ヘーゲルのものとする『ドイツ観念論の最古の体系計画』(88頁以下)は、現在ではヘルダーリンが書いたものをヘーゲルが書き写しただけだとされている。
また「『法哲学』の序文は、名誉と自由と祖国をモットーとする学生団体ドイツ・ブルシェンシャフトの過激な行動と、それを指示する知識人にたいする敵意につらぬかれている。」(105頁)とあるところも一面的で誤解を招く表現である。たしかにヘーゲルはブルシェンシャフトのザントが保守的と見なされたコッツェブー(ちなみにヘーゲルは若い時代コッツェブーをこき下ろした手紙をシェリングに書いている)を殺害したことなどを重くみて『法哲学』の著述に臨んでいることは明らかである。しかし、ジャック・ドントの伝記などから、ヘーゲルはたんにブルシェンシャフトに敵対していたのでなく、むしろ密接な結びつきがあったということが明らかになっている(ヘーゲルの聴講生もブルシェンシャフトに入っていた)。つまりヘーゲルは保守でも急進的な革新派でもなく、かといって両者を高い位置から冷やかに見下ろすノンポリでもなく、両者の意見を汲みあげながらよりよい国家観を『法哲学』で提示しようとしていたはずである。
さらに長谷川は、『法哲学』の序文にある哲学は時代を越えていかないという内容の文言を引いて、「現実の歴史は、その歴史的現在をのりこえるような思想を自己の内部にはらむことができない、と、ここでは主張されているのだ」(108頁)と断言している。しかし、ヘーゲルが言わんとしていることは、いくら未来を夢想しようともそれは過去を含む現在の世界から越え出るものでは決してなく、仮に歴史認識なしに未来を夢想しても現代からその未来へと至る内的な必然性がないかぎり実現できないと考えているのではないか。そして、歴史認識によって現代を位置づけることが、これから先の歴史を動かしていく原動力になると考えているのではないか。実際、ひとは過去の自分を認識し、今の位置を見定めることによって次の一歩が出てくるものだろう。現に、『法哲学』の最後は国家ではなく世界史で終わっている。
もっと突き詰めれば肯定的なヘーゲル像が出てくるはずなのに、長谷川はヘーゲルの意図を汲みとったつもりで早急に判断を下すために、議論が浅くなってしまっている感が否めない。ヘーゲルの歴史概念を解明するものであるかとおもって読んでみたが、ヘーゲルが当時の歴史をどう捉えていたかという話だけだった。ヘーゲルにとって歴史概念とは何かとか、ヘーゲルはなぜ国家を主張する必要があったか(それは長谷川が言うようなドイツの統一を希求してということだけでなく、国家である必然性があったはずである)などを一層踏み込んで議論する必要があるようにおもった。長谷川は「いまのわたしの考えとくいちがうところがなくはない」(3頁)と言ってはいるものの、違うならば刊行しないか書き換えるべきだろうし、書き換えなかったということはそれほど決定的にヘーゲル像が変わったわけではないということだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示