アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)

  • 講談社
3.77
  • (20)
  • (25)
  • (31)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 319
感想 : 31
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061593909

作品紹介・あらすじ

祖国ドイツを愛する忠実な軍人であり、「心をもつ一人の人間」であったアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスが、抑留者大量虐殺に至ったその全貌を淡々とした筆致で記述した驚くべき告白遺録。人間への尊厳を見失ったとき、人は人に対してどのようなこともできるのだろうか。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • アウシュヴィッツ収容所にて長年所長を務めたルドルフ・ヘス氏の手記。あくまでも自身はヒットラー氏の命令に従っただけであり、すべてヒットラー氏一人の責任だと主張している。銃殺はむごたらしく嫌悪感を抱くと述べる一方で、手記内の別の箇所では、銃殺の場合銃弾がもったいないという。さらに、毒ガス殺は銃殺に比べて、犠牲者の最後の瞬間までいたわってやれるので心安らかになるそうだ。私が思うに、どうもヘス氏は他人の心が分からず、すべて自身の都合のいいように解釈する癖があるようだ。そうでもなければアウシュヴィッツの所長は務まるまい。特に、遺体の処分を行う特殊部隊について語る内容が印象的である。

    「脱衣やガス室への導入に際して、特殊部隊の抑留者たちが熱心に協力したことには、何か異様な感があった。」「彼らは、犠牲者たちをあざむき、ことに不安がっている者をなだめるために、あらゆる手を尽くした。」「(特殊部隊員の働きは)まるで自分自身が殺す側に属しているかのような自然さだった。」

    特殊部隊員が犠牲者のためを思って行った気遣いを嘘と呼び、彼らはナチスに熱心に協力し、犠牲者をあざむいていたようにヘス氏には見えるらしい。実際には特殊部隊員がどれほど辛い思いをしながら同胞の最後を手びく任務に就かされていたのか、ヘス氏には一生分かるまい。そもそも、誰に頼まれてもいないのに、自ら手記を残す犯罪者ほど自己顕示欲が強い悪人はいないだろう。ヘス氏は私と同じ人間だとは到底思えない。読了後に激しい不快感を覚えたが、収容者ではない立場の人の考えを覗けて勉強になった。 

  • ヒトラーに従い多くのユダヤ人のガス室殺害の指揮をとったアウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘスの手記。

    アンネの日記を読んだあとに、向こう側の手記があるという情報を教えて頂き読んでみました。

    彼は敬虔なカトリック教徒の両親を持つ家庭で生まれ育ち、聖職者を目指していたことが触れられる。
    考え方もしっかりしていて秩序と冷静さを持ち合わせている。

    だがその一方で代々続く名門軍人家庭の血も引き継いている彼は戦争に想いを駆り立てられてしまう。
    そしてヒトラーと出会った彼は、手記終盤に近付くにつれ冒頭での彼の秩序や冷静さを重んじる箇所が薄れていく…
    というより徐々に洗脳されていく彼の行動と完全な思考停止を余儀されなくなる彼がドイツの人間兵器のように思える。

    最後までヒトラーに尊敬をしつつ、任務を遂行する真面目な人間である。
    だがそれと同時に自身で気付いている心の矛盾さや葛藤を代弁している文章に触れると「加害者」になってしまった彼がただ哀しい。
    誰にでも自分自身に起こりうる悲劇であり、もしかしたら彼もある意味で戦争が作り出した「被害者」なのかもしれないと読んでいて感じました。

  • 始めに、これは自分の人間観を揺さぶる作品だった。

    本書はアウシュヴィッツ収容所の館長、ルドルフ・ヘスが戦後裁判の際に書き記した手記であり、自身の生い立ちやな収容所館長になってからの働きぶりに加え、収容所の内部構造や実像、さらにはユダヤ人虐殺の『効率的な』手法など、様々なことが克明に示されている。

    しかし、本書で一番注目に値すべきなのは、彼の描く『自身の高潔な人間性』であろう。
    ヘス自身も示している通り、彼は異常者でも暴力主義者でもなく、むしろ家庭を愛し、職務に忠実で、教養も備えていた常識人であった。しかし、ここにあの残虐な収容所の館長を務められた素質を垣間見てしまう。

    陳腐で低俗な国粋主義に囚われ、暴力的で短絡的な発想をする人より、論理的に物事を考え、理路整然と思考を構築して粛々と仕事に励む真面目な人。そんな人の方が、ある意味極端な政治状態では、一番危険な存在なのではないだろうか。ルドルフ・ヘスのように。

    史実誤認や、当時の一方的な差別意識も描かれており、彼の主張を素直に受け止めるのは注意が必要だが、それでも歴史的価値が高い作品だと思う。僕はそう感じました。

  • 序文と解説は読まずに手記だけ読んだ。
    人の人生を左右する社会力には誰も抗えない。
    国力が弱くなれば、人間の負の部分が歴史に強く作用する。すべてが終わってからジャッジされるのは、皆同じ。
    彼は自分が断罪されることにいつ気がついたのだろうか。それとも気がつかないまま処刑台に上がったのだろうか。

  • 手記中、「SS 隊長として、戦争に勝つために任務を果たさねばならない。心の奥底では、苦しんでいたが、心を鬼にして真面目に職務を遂行したのだ。私は直接的には抑留者に対して何の手もくだしていない。」と繰返し主張されている。しかし、チクロンBの提案や人体実験等、能動的にホロコーストに加担していた以上、上記のような責任転嫁とも思われる主張は許されないのではないか?

    むしろ、真面目で国家や自己保全のためには絶対服従するであろう彼の職務態度が、アウシュヴィッツ所長へ選抜の起因となったのだと思う。

    このような環境においては、もう個人の道徳心や倫理観が最も重要でないかと感じた。だからこそ、私たちは古典を読み、名作映画や人生経験を通じて健全な精神を育てていく必要があると実感。

  • アウシュヴィッツビルケナウ強制収容所所長を最も長く(終戦までではない)努めたルドルフ・ヘスの戦後処刑までに与えられた時間で「誰に強いられたものではなく」自発的に書かれた自伝的手記。ないし手記的自伝。
     加害者、しかもポーランド各地に設置された絶滅収容所の中でも最大の規模を誇り、最も多くの犠牲者を生んだアウシュヴィッツ所長の直接的かつ具体的で冷酷無残さに満ちた殺害過程や、処理方法、ユダヤ系やロマの人々、その他の望ましからぬとされた属性の人々から衣服や貴金属類、貨幣、女性の頭髪、殺害後の金歯の絶対の回収など、多くの証言や破棄しきれず残った物証とほぼ矛盾することなくそれらを補強して、人間には天国は不可能かもしれないが、まさに地獄は現世に現出させるうのだという恐ろしい実例が当事者のヘスによって、淡々と冷静さするすら感じさせながら記述されていく。謹厳実直に部下に残忍非道行為への動揺を見せぬように粛々と大量殺戮を続けていくヘス。そこには「弱さを見せてはならない」というナチズムの理念の一つへの盲信しか見られないが、当手記ではなるべく早く苦しまぬよう、清潔に迅速にそれらを私は行なおうと尽力したのだ、と人道的姿勢を自分なりには持っていたのだと折に触れて挿入もされるのだ。
    「人々は私を血に飢えた獣と見なすだろう。そうでなければならないからだ。だが私にも心がある。そして私は行かなければならない。(ヘスが処刑されねばならぬのは)世界がそれを要求するから」と書く人格には無自覚なまでの強烈な分断がある。
     これを我々はどう捉えるべきなのだろうか?権威に盲従し付き従い疑うことを知らぬものはホロコーストの一翼を担いうる、それが人間の恐らく簡単には克服できない本性の一つ、なのだということではないだろうか。だからこそ、これらの命令をくだす権威たる国家は、民主的に運営され、権力への批判は絶対に許容され、権力機構は分散され監視されねばならない。つまるところ、民主政治のさらなる更新こそが、このような事態を防ぎうる唯一の、世代を越えて受け継がれねばならない精神だということではないだろうか。
     とりとめのない感想じみたレビューとなった。後日訂正の余地あり。しかし慄然とする、そうなるべき近現代史の殺戮の代表格ホロコーストを考えるのには必読の書、と言っていいだろう。

  • 夏休みのとある場所訪問を契機に再読。
    うーん、この内容をどのように消化すれば良いのか皆目見当がつかない。気が狂っている人間どもの所業と簡単には済まされない奇妙な静寂が漂っていて、ただただ息を潜めて目を凝らすだけで精一杯です。でも酷過ぎる話であることは疑いもなく、、、
    ところで第二次大戦のドイツの所業の源泉の一つにアフリカ植民地戦争の凄惨な経験があると目されていること、知りませんでした。ほんと世界平和って幻想なのかいな?それでもその実現を想い続ける意味ってあると思ってます、特に最近は。

  • ☆2(付箋8枚/P460→割合1.74%)

    訳は読みやすく、最後までスムーズに読めました。
    歴史的に、状況的に考えさせられる本です。この人もまた、よく手記を残しましたね。

    新潮社の「考える人」という雑誌の河野通和編集長発行のメールマガジンを思い出しました。
    アイヒマン裁判を受けて「悪の陳腐さ」について書いたハンナ・アーレントは、「あのアイヒマンをごく普通の、ありふれた人間だと主張して、アーレントは彼を擁護した」、「ユダヤ人指導者の責任を指弾し、ナチに協力しない別の選択肢があったはずだと言っている」、と批判を受けました。
    アイヒマンは、「私は手を下していないし、命令に従っただけだ」と言い、ヘスは「私には決定権が無かった」と言うのです。

    人も悪も、自分に自信を持って命令に従わないことはとても難しい。陳腐な悪でありたくないともし思ったとしても、難しいだろう。
    そうすると、民主主義、官僚、政治システムにおける決定事項は過つことを念頭に、自分が命を賭しても譲れない価値があるかどうか、考えておくことしかできないだろうと思います。

    ハンナ・アーレントは当時大批判されたと言いますが、それでもイスラエルの指導者は考え、教訓としたことと思います。決定方法、人生論などユダヤの方法が時折日本でも取り上げられますが、ナチスに対峙する事に失敗したわけですから。

    余談ですが、絶対的平和主義でユダヤ人と同じように強制収容された「聖書研究会員」が出てきます。
    彼らの決して曲がらない信仰をヒムラーとアイケは称賛したそうです。
    「…全SS隊員が、その世界観の熱狂的な信奉者となった暁には、アドルフ・ヒトラーの国家は永遠に安泰であるだろう。自らの自我を理念のために完全に放棄することを欲する熱狂者によってのみ、一つの世界観は支えられ、永遠に維持されるのである。」と言って。
    ヒトラーの狂気に対抗するには、別の狂気が必要だったのかと少し暗澹たる気持ちにもなりました。
    この聖書研究会は現在「エホバの証人」というよく冊子を配っている宗派のことです。

    私はこの宗派を信仰している両親の元で育ちました。今はまったく、なのですけれど、いつ自分がアウシュヴィッツのユダヤ人と同じような目に遭ってもおかしくないと思って成長しました。
    だから少し、一般的な感想とは異なるのかも知れませんね。

    ***以下抜き書き***

    ・私は、年長者、ことに老人には、どんな身分の出の人にも同じように、うやうやしく、丁寧に接するように、と両親から教えられた。必要とあれば、どんな時にも助けの手をさしのべること、私はそれを自分の最高の義務とした。
    ことに、両親や先生や司祭や、さらには、召使に至るまで、年長の人の頼みやいいつけは、すぐに実行し、あるいはそれに従い、どんなことがあっても、それをなおざりにしてはならない、と絶えず私はいましめられた。年長の人のいうことは、いつも正しいのだから、と。
    この教育原則は、私の血となり、肉となった。私は、父が―熱烈なカトリック信者として、帝国政府とその政策に断乎敵対していたのに―自分の友人たちには、どんなに反対であっても、国家の法と指示には無条件で従わなければならない、といつも説いていたのを今でもまだよく覚えている。

    ・これらは、要するに、囚人たちの全生活が、個々の看視者、監督者の態度や資質で、どれほど左右されるかを、ごく際立った形で示したものである。どんなに規則を定め、どんなに良い意図で出された指令があっても、なおかつそうなのである!
    囚人に、その生存を耐えがたくさせるのは、肉体的な出来事ではなく、主として、決定的に、看視または監督者の中の無関心もしくは悪意ある人間の気まぐれ、悪意、陋劣さに起因する消しがたい心理的印象なのである。仮借ない厳正なきびしさにたいしては、それがどれほどきびしくあろうとも、囚人は心の備えをする。
    しかし、気まぐれや、明らかに不当な扱いは、囚人の内面を、こん棒でなぐりつけるに等しい。それにたいして、彼は、なすすべもなく耐え忍ばねばならないのである。

    ・このSS隊長は、ある元共産党員を逮捕して、収容所に移送する任務を与えられた。ところが彼は、件の人物を、すでにずっと前、保護観察勤務のころから良くしっていた。そして、この人物は、いつも、遵法的な態度をとってきた。
    そこで、彼はつい善意から、この人物に、もう一度家に帰って、服を着替え、妻に別れをいうことを許可したのだった。ところが、部下をつれた彼が居間で、その人物の妻と会話している間に、本人は別の部屋をぬけて、逃亡してしまったのだ。彼と部下が、逃亡を発見したときは、手遅れだった。
    このSS隊長は、逃亡の報告をすると、その場でゲシュタポにより逮捕され、ヒムラーはただちに戦時法廷を命令した。一時間後には、すでに責任者にたいする死刑判決が下され、彼の部下は、重禁固の刑に処せられた。
    …彼は、従容として、静かに死んでいった。しかし、どうらって、私が、心を鎮め、射殺命令を下せたのか、今もって、私にはわからない。
    …「SSの死刑役人業を云々することは、その人間が永らくSSに所属しているにもかかわらず、自らの任務を未だに理解していないことを示す。しかしながら、SSのもっとも重大な任務は、ひたすら目的に役立つ手段のすべてをあげて、新国家を守護すること、これである。
    敵はすべて、その危険の程度がいかなるものであれ、確実に捕捉され、もしくは、抹殺されねばならず、そのいずれもが、ただSSによってのみ、実行されうるものである。国家と国民を現実に保護する新たな方が創設されぬかぎり、ただかくしてのみ、国家の安全は保障されうるであろう。

    ・それに、いわゆる変節者たちも、たとえその身は彼らの信仰共同体からはなれはしても、エホバには無条件に忠誠を保とうとした。聖書研究会員にその教義や聖書中の矛盾を指摘しても、彼らは、あっさりと、こう答えるだけだった。要するにそれは、人びとが人間の目で見ているからだけのことで、エホバには矛盾などというものはない、エホバとその教えは完全無欠である、と。
    いろいろな機会に、ヒムラーとアイケは、聖書研究会員のこうした信仰の熱狂性を、くり返し見習うべきものと称揚した。
    …全SS隊員が、その世界観の熱狂的な信奉者となった暁には、アドルフ・ヒトラーの国家は永遠に安泰であるだろう。自らの自我を理念のために完全に放棄することを欲する熱狂者によってのみ、一つの世界観は支えられ、永遠に維持されるのである、と。

    ・一度、二人の幼い子供が遊びに熱中してどうしても母親からはなれようとしなかったことがあった。特殊部隊のユダヤ人でさえも、その子たちをすぐに引きはなそうとしなかった。明らかに何が起こるかを知って、慈悲を訴えるその母の眼差しを、私は絶対に忘れることができない。室内にいる者たちは、すでに動揺しはじめていた。―私は行動しなければならない。全ての目が私に注がれていた。
    私は、居合わせる下級隊長の一人に目くばせした。彼ははげしくあばれる子供たちを腕にかかえ、心も裂けよと泣きじゃくる母親とともに、その子たちをガス室の中に連れていった。いたましさのあまり、私は、なろうことならその場から消えてしまいたかった。

    ・ミルドナーや、いつも「きびしく振舞った」アイヒマンでさえ、絶対に、私と変わろうなどという気持ちを見せたことはなかった。この任務について、私を羨む者は一人もいなかった。
    …一方、私は、アイヒマンから、この「最終的解決」に関する彼の内心の本当の信念を聞き出そうと、あらゆる手を尽くしてみた。しかし、滅茶苦茶に酔っぱらった時でも―もちろん、われわれ二人だけで―アイヒマンはまるで憑かれたように、手のとどくかぎりのユダヤ人を一人残らず抹殺せよ、とまくしたてるのだった。

    ・子供たちには、いつも抑留者がもってきた動物の仔が庭にいた。亀や貂の仔、猫やトカゲと、何か新しいもの、珍しいものが、庭には、いつもあった。
    また、夏になれば、子供たちは、庭に出した金だらいの中や、ソラ河のほとりで水浴びをしたものだった。けれども、子供たちがいちばん喜んだのは、パパが一緒に水浴びをしてくれるときだった。ただ、パパには、子供と遊ぶには、あまりにもわずかしか時間がなかったのだ。

    ・一人の爆撃隊長が、ある都市に、軍需工場も、守るべき施設も、重要な軍事施設もないことを正確に知りながらその町の爆撃を拒否したなら、彼はどうなるだろうか。もし彼が、自分の爆弾はもっぱら女子供を殺すだけなのだと知って拒んだら、どうなるか?必ずや、彼は軍法会議にかけられるだろう。
    にもかかわらず、今、人はその比較を認めようとはしない。しかし、私はその二つの状況は比較されうるとの見解に立つ。

  • この本のとる姿勢が良いなと思い。
    記録の歴史的内容とヘス自身についての確認のためというか。

    すべての記録を収録しているわけではなく、彼の意志も尊重され、家族に関する言葉や別れの手紙は収録していない。

    また、彼自身による記録であることは確かだが、その記述が事実に則しているのかどうかは、註も注意深く読みつつ考えねばならない。

  • ユダヤ人虐殺の象徴ともいうべき『アウシュビッツ収容所』
    初めてその事実を知った小学生の頃、人間がそんなことをできるはずがないと思った。

    あれから10年以上がたって社会人3年目の自分が毎日に追われ、時には退屈に感じ、時にやりがいを見出す『仕事』

    彼にとって『アウシュビッツ収容所所長』とは単なる『仕事』
    私と職種?は違うにせよ、単にそれだけでしかなかったのだと。

    ―人間がそんなことできるはずがない―

    そう思っていた小学校時代。
    人間は虐殺さえも仕事にできてしまうという事実。

    本当に恐ろしい。

  • ■知っておくべき知識の一部。

  • 所長の手記を編集したものである。所長の仕事に対して真面目で、誠実で、しかもなかなかに有能であるが故の所業に戦慄する。自身に近い話でもあるから余計に。

  • アウシュヴィッツ強制収容所の所長であったルドルフ・ヘスが獄中で書いた自伝、手記。

    自己欺瞞、自己弁護のオンパレード、全てはヒムラーが命じたこと、、、、、看守が虐待するのを止めたくてもまともな人材がいない、自分はなんとかしたかった…

    ナチズム、反ユダヤ主義については一切の反省もなく、そのまま死んでいったのかと思うと、本当に薄ら寒くなる。
    手記の結びの一文を、どう理解したらいいのか。人間が怖くなる。

  •  クラクフに連行された関係者の中でアモン・ゲートというSS将校がポーランド人に分かってしまったという個所があるが、「シンドラーのリスト」が公開されるまでプワシェフ強制収容所の所長だったSS将校が有名ではなかったはずだ。「シンドラーのリスト」が公開されるまで原作本を除いて、ゲートが出て来るような日本語で読める本はあったのだろうか?プワシェフ強制収容所はクラクフの近くにあり、ポーランドで行われたアウシュヴィッツ裁判はクラクフで開催されたと分かれば位置づけが分かってくる。
     ヘースの写真を見ているとオスマン朝の鉄半月章を佩用しているのはパレスチナに派遣されたドイツ軍の一員として叙勲されたそうだ。ドイツ軍の将軍達がオスマン軍に起用されていた事は言及されても、ヘースのような兵士は他に出て来ない。一級戦功十字章が剣なしから剣付になるのは「ユダヤ人問題の最終的解決」に対する「貢献」で叙勲されたわけだ。

  • ホロコーストについて調べるなかで、実行した側の視点としてアイヒマンとともに重要そうなルドルフ・ヘスの手記を読んでみた。

    ヘスは、アウシュビッツの所長だった人。書いてある内容自体は違う本で読んだことと重なり、とりわけ新しい発見があるわけではないのだが、その淡々とした書き方に気持ちがわるくなってくる。

    自己弁護的な要素があって、上司命令で仕方がなかったんだという話しは予想どおりだが、看守などの行動についても、自分は違うことで忙しいし、彼らの人選をすることもできず、自分がなにか方策をとるまえに彼らが勝手なやり方を始めて、それが定着してしまったみたいな話は愕然とした。

    なにをそんなこと言っているんだと思いつつ、なるほど、組織って、そんなふうになっちゃうなと共感したりして、自分も同じ立場にいたら、同じことをやったかもしれないという気分になってしまった。

    ヘスはそうした自己弁護をする一方で、人種的な偏見をあらわにする発言も多く、また自分のナティス思想、反ユダヤ主義に関する反省の言葉はない。それらは信条として変わらないが上層部のやり方が悪かった、ユダヤ人を絶滅させるという判断は間違っていたというあたりはわりと正直な感じがした。

    さまざまな偏見を持ちつつも、全体としては、わりと普通の人で、与えられた職務を全うしようという責任感にもとづいて行動していたんだなと思った。責任感も官僚的というより、軍人的な上司の命令を確実に実施するタイプの責任感かな?

    アイヒマンも普通の人といえば、普通の人なのだが、この人はちょっと虚言癖というか、ハッタリ屋で、精神的にちょっとおかしい感じがするのに比べると、ヘスのほうがより普通だな。

    なんだか、とても後味の悪い本でした。

  • ーーーー私は命令を受けたーーーだから、それを実行しなければならなかったのだ。(p.290)

  • 文庫になっていないほうを読了した。なんというか、この人物が考えていた平和な世界とはこういうものなのか、他のナチス幹部とはまた違った考え方を知った。知ったからといって、ナチスの蛮行が変わるわけでは決してないけれども、命令を下す側の心理状態を推し量ることができた。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740211

  • アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスによる自伝。戦争においての個人の役割はどこまでが許容され、どこからが人道的に非難されるのか?ユダヤ人殲滅命令に対して職務を全うしたヘスは、ドイツの敗北後、連邦裁判で裁かれ、極刑に処された。しかし、果たして、彼と同じ立場に自分があった場合に、どのような役割を演じるのか?違う方法を選ぶことはできただろうか?
    カスオイシグロの、「日の名残り」は、戦争における個人の役割について、この本を踏襲した問いかけをしているようにも感じられる。ナチスに傾倒する主人につく執事の主人公は、ヘスに通じる職務への傾倒とプライドを持っている。
    戦争や歴史と個人の相互作用、弱者への力の濫用などを考えさせられる。第二次世界大戦は過去の産物ではなく、現代も戦争を引き起こす要因、格差を過去から継承しており、解決できていないのだ。

  • アウシュビッツ収容所所長ルドルフ・ヘスの手記。虐殺の命令を遂行し、立ち会ってきた体験談には、リアルさに客観性が同居しており、ある意味読みやすい。そこに真の恐ろしさがあると言える。ことにロシア人のガス殺戮がスムーズに成功し、来たるべき大量のユダヤ人虐殺の目処がついたことに「ホッとした」というくだりは、役人的あるいはサラリーマン的な心情と変わらない要素が見て取れ、狂気とされるジェノサイドの真実の一面を垣間見せている。幾例か述べられる犠牲者たちの死にゆく様は、わざわざ語り残した事からも、ヘス自身感情が動かされたことを物語っている。ただそれらは任務を実行したに過ぎず、所長としていかなる弱みを見せる事も許されなかった、そんな彼の言葉を自己弁護と捉えるのは容易い。が、(一定割合で存在する殺人嗜好者は別として)大量虐殺に関わった人間も、生物としては我々一般人と全く変わらない点、認識しておかなくてはならない。虐殺を謳っていた高官が、実際に現場を視察すると黙り込んでしまったという挿話は、妄想と現実の狭間に漂う人の無責任さが顕れている。また別の事例、いずれ殺されると知っていながら、同胞の殺害に協力するユダヤ人特殊部隊の心中などは、つぶさに観察していたヘスでさえ解しかねており、異常な状態にある人間の心理の奥深さと不可解さを突きつけてくる。本書では注釈でヘスの誤謬も指摘し、ある程度公平性が担保されている。繰り返してはならない恐るべき悪業の実態を記した、貴重な史料として価値が高い。

全31件中 1 - 20件を表示

ルドルフ・ヘスの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ヴィクトール・E...
遠藤 周作
ミシェル・フーコ...
宮部みゆき
フランツ・カフカ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×