- Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061594449
作品紹介・あらすじ
悪人正機説や他力本願で知られる真宗の開祖・親鸞。危険思想視され烈しい弾圧にあいながらも、人々に受け入れられていった、その教えの本質とは何か。師の苦悩と信仰の極みを弟子の唯円が綴った聖典に詳細な語釈、現代語訳、丁寧な解説をほどこした。日本人の「こころ」を追究する著者の手でよみがえる流麗な文章に秘められた生命への深い思想性。
感想・レビュー・書評
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若い頃は、浅ましくも、完全無欠で罪のない生き方をしていて、漠然とでも自分は正しいと信じて生きてきた。
しかし、歳をとり、自分は全く正しくなく、組織に入れば自分が正しいと思うこととは異なることもしなければならなくなった。
別段極楽浄土を信じているわけでもない。それでも、自分は正しくなく、悪にまみれて生きていることだけを感じていた。そしてそれは、他人においてもそうであり、だからこそ許し、許され会う必要があると思った。
歎異抄を、今こうした心境で読むと、涙が出そうになる。
阿弥陀への信心に対する親鸞や唯円の情熱を感じるが、それ以上に、自らを罪深い人間であるとする謙虚さというか、自分自身への内省が心にとても響く。
こんな自分でも、今のように生きていて、救われてもいいのだと思える。
それは正しい読み方ではないとしても、希望と生きる歓び、そして信心を与えてくれる、そんな本だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
親鸞聖人の教えを知りたくて、この本を読みました。
現代語訳は分かりやすく、読みやすかったです。しかし学術文庫だけあって、キリスト教との対比で語られている箇所も多くて、純粋に教えを学びというより、学問的な研究対象として考察している本だと思いました。
それでも、悪人とキリスト教の罪びととの類似性は読書中に感じましたので、学問的な興味を持って読むには良い本だと思いました。 -
梅原猛の著作を久しぶりに読んだ。
何となく強引で、とっつきにくい印象があったのだが、『歎異抄』はわかりやすい[現代語訳]、[こころ]と相まっておもしろく読めている。後半の「補註」「解説」はこれから。 -
浄土真宗の家系だが、あまりにも何も知らないので読んでみた。
全ての人は念仏で救われるという、浄土真宗の教理は懐が深いが、同時に突き放したものだなと感じた。
多くの宗教は、戒律や修行、こうした生き方をしなさい的なものが大概あると思うのだけど、浄土真宗は現世の生き方についての指針を特に示してくれていないように思う。
念仏で悪人でも善人でも救われ浄土に行ける。
善行、悪行というのは凡人である人間が勝手に判断しているものだからでしょうか?
他力とは、縁や環境、あるいは欲望に添って生きなさいということなんだろうか?その辺りがどう解釈していいのかわからない。
ある程度の縛りがある方が、宗教を信仰するのは楽ではあると思う。それが良いとは言わないけど。
どんな生き方でも浄土に行けるのだから、思うがまま一生懸命生きろってことなんだろうか?、、難しい。 -
やっぱり難しかった。
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親鸞 の弟子 唯円による 「 歎異抄 」
歎異抄は 最も平易な宗教哲学書だと思う。易行他力、「悪人こそ救われる」という言葉に触れただけでも 懐の深さと大きさを感じる
100分de名著 で、「自力で 生きていると思ってたが、実は 生かされていたと気づくと 人間と世界の見方が変わってくる」とあった。悟りや救いを求めていなくても、人間と世界を見る目が変わるなら、歎異抄を知る価値は 十分ある
易行=誰でも極楽浄土に行ける
他力=阿弥陀様が導いてくれる
悟り型の宗教から 救い型の宗教へ
南無阿弥陀仏=阿弥陀様にお任せします という意味
親鸞は 一度も悟ったと言ったことがない
悪人こそが救われる
悪人=自分で修行できない人、煩悩を捨てられない人、今 苦しんでいる人
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言いたいことは、辛うじてなんとなくわかった。
わかったけど当時の万人には伝わりにくいよね・・・ -
解説がかなり参考になる。
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素晴らしい。何度となく読むことを挫折した本だったが、本著は一条ごとに原文、注記、現代語訳、解釈が書いてあり非常に丁寧、それに巻末の補注、解説も手厚い。興味がない人は読まなくてよいとして、興味はあるけれどとっつきにくさを感じている人にはお勧めしたい。
親鸞の死後30余年が過ぎ、教義が間違った捉え方をされることをかつての親鸞を知る弟子が嘆いた言葉。僕の親鸞に関しての漠然とした知識は、浄土宗の法然の弟子で浄土真宗を興した人、浄土真宗は念仏を唱えれば誰でも極楽に行けるというものだったから無知な農民たちに広まったという授業で知りえた程度だったけれど、それでも色々な間違った認識に気づかされた。 -
「ひたすら一心に念仏を唱えていれば誰でも救われるよ」と言われてそのまま素直に受け取る人はいない。日本人は親鸞の時代からそうだったようで、親鸞の教えは誤解され濫用された。その状況を憂えた弟子の唯円が親鸞の死後に著したのが『歎異抄』(と言われている)。
親鸞は、不完全な人間の理性や道徳を捨て、すべてを超越した阿弥陀仏の誓願(生きとし生けるものを救おうとする意志)にただただすがれと説いた。
西洋哲学の合理論的潮流を否定しさったニーチェよりはるか昔、日本には親鸞がいた。そこで能動的ニヒリズムや超人を説くのではなく、他力本願という結論に至るのが日本的奥ゆかしさなのだろうか。
親鸞によれば、他力本願という信仰すら、阿弥陀仏の思し召しによって“させていただく”ものだという。そのように考えると、デカルトが哲学の出発点とした「思考する自我」の存在さえ、確かなものと言えるのか疑わしくなってくる。
西洋の近代哲学に先駆けて、昔の日本にも親鸞のような偉大な哲学者が存在したということは、日本人が誇るべ事実だろう。