龍樹 (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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感想 : 30
  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061595484

作品紹介・あらすじ

一切は空である。あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。仏教思想の核心をなす「空」の思想は、千八百年前の知の巨人龍樹により理論化された。インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良・平安仏教でも「八宗の祖師」と讃えられたその深く透徹した思考が、仏教学・インド哲学の世界的権威の手で、『中論』全文とともに今甦る。

感想・レビュー・書評

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  • ナーガールジュナ(龍樹)は、大乗仏教の根幹にある「空」を徹底的に考え、理論化した。でも、こういう宗教の教義に関する議論って、門外漢には、前提となる知識がないと何を議論しているのか、全く分からない。というところを、中村元先生が、相当に分かりやすく、かゆい所に手が届く解説をしてくれる。

    で、「空」とは、なにかというと、冒頭部分で、「大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空の観念を基礎づけた。・・・大乗仏教、とくにナーガールジュナを祖とする中観派の哲学者は次のように主張した。ー 何ものも真に実在するものではない。あらゆるものはみかけだけの現象にすぎない。・・・あらゆる事物は他のあらゆる事物により条件づけられておこるのである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係にほかならない」と書いてあって、もうこれだけで、目から鱗が落ちまくる。

    ということで、最初の数ページを読めば、もうそこでナーガールジュナの思想は分かってしまう。では、あとの数百ページ、何が書いてあるかというと、その思想をテクスト自体とさまざまな解釈本のテクスト、そして当時の仏教思想のコンテクストとの関係、さらにはキリスト教などでの論争やラッセルなどの論理哲学との関係において、多層的に読み解いていく訳で、相当に知的にスリリングな読書体験だった。

    仏教の教義の解釈論的なところは、面倒な部分もあるが、中村先生は、文献的な解釈をしっかりと行いつつ、常に本質的な議論に戻っていくので、素人でもなんとかついていける。

    中村先生の、仏教に関する知識の深さと世界的な視野の広さの両立、そしてそれを平易に伝える能力は、本当に希有なものだったと改めて認識。

  • 人類が到達したあらゆる思想の中でも最も奥深いといっても過言ではない偈頌の訳と解説。
    思想詩ともいってよいこの論を理解するための入門書。

  • 龍樹と中論、そして彼の解いた空についての正しき解説書といった
    趣の本。きちんと原典に当たり、わからないことはわからないまま
    提示するという、実に信頼の置ける至極真っ当でぶれない本。

    ただそれゆえに読んでて面白いかどうかはかなり人を選ぶような
    気がしたな。同じ龍樹と中論を扱った本だと前に読んだ仏教の思想
    シリーズの該当巻の方が読み物としては面白かった。

  • 龍樹(ナーガルジュナ、150年前後、2世紀の人)についての本で、『中論』を中心に「空」の思想を縁起を中心に解説したもの。ポイントは『中論』以前は、縁起を時間的因果関係としていたが、『中論』において縁起を(共時的?)相互依存の関係ととらえなおしたことで、これによって、説一切有部という主流派の超時間的な実在を否定し、妄念によって構成されたものとした。したがって、ブッダでさえ幻とされる。要するに西洋中世の普遍論争と同じような構図があるんである。後世の禅が「仏に遭っては仏を殺す」というのが分かった気がする。中国ではクマラジーヴァの訳や吉蔵の解説で空の思想は学ばれており、「空亦復空」と空を実体視することをとくに邪見としたことが書いてある。『中論』の訳がはいっているが、はっきり言ってこれを読んでも何をいっているかよくわからない。

  • 有に対立するのが空なのではなく、無である。
    中観は、主に説一切有部の法有を批判であり、有と無のどちらも否定し、それらは相依関係にあり(縁起に依り成立し)、そのため無自性であり、即ち空であるとする。そのため空は中道であるといわれる。
    中国の天台宗で説かれた仮諦・空諦・中諦という三諦の思想は中観には存在しない。
    ナーガルジュナはさらに空も否定した。

    空の中には何ものも存在しない。しかもあらゆるものがその中から出て来るのである。それは鏡のようなものである。
    実質についていえば、「空」の真の特質は、「何もないこと」であると同時に、存在の充実である。それはあらゆる現象を成立せしめる基底である。

  •  本書の中心はたった76ページにすぎない『中論』である。他の著作も抄訳が32ページ載っているが、大した議論はなく、その他は全て著者による解説である。
     しかし、この解説がなければ龍樹の思想は全くと言って良いほど理解不能である。第1章の「原因の考察について」はまだ理解可能であるが、これ自体もかなり奇異な議論ではあるが、第2章の運動(去ることと来ること)の考察は素直に読めば全くの言葉遊びであるとしか思えない。冒頭の「すでに去った者(已去)は、去らない」という文章を分析すると、「去った」という既に行われた行為、「もの」と言う行為主体、「去らない」というこれから行われる行為とで成り立ち、「去った」は主語「もの」を修飾し、「去らない」は主語に対する述語であると考えるのが通常である。しかし、この文はこれ自体真の命題とされるのである。ここで読者は、インドと西洋では論理に致命的な差異があるのではないか、あるいは修飾に関して独特な規則があるのではないかという疑問が浮かぶ。
     著者によると、この奇妙な議論は、龍樹の批判対象に起因している。『中論』が批判対象とする有部は「判断内容すなわち命題がそれ自身実在することを主張した」(94ページ)のであり、「『去る』という『ありかた』と『去る主体』という『ありかた』とを区別して考え、それぞれ実体視せねばならない」(135ページ)と主張していた。すると、「去る」と言う概念が主体なしに実在するか、「去る主体」が「去る」というトートロジーが実在するか、「去る」が存在しないので「去る主体」も存在しないかのいずれかとなり、結局のところ破綻してしまう。
     この特異な主張に関して、形式論理的な関心は別にして、現実の「去る」と言う行為に関して適用することを本気で考える人間は今日一人もいないであろうから、これは無意味な議論である。しかし、『中論』はその大部分おいて、この議論を手を替え品を替え具体的な事例に基づいて何度も何度も繰り返すのである。高度な論理的議論を繰り広げながら、主体、行為、現象と言った概念による一般化が行われないことは我々からすると非常に奇妙であるが、これもまた当時のインドにおける認識の特徴なのであろう。とはいえ、『中論』の大部分については有部という特異な立場に立たない限り無意味であり、これは中国においても、日本においても同様であったはずである。では何が議論になったのかといえば、「無自性」、「縁起」、「空」が何を意味するのかということであった。しかし著者によると、ここでもクマーラジーヴァによる翻訳が正しくなされなかったために、龍樹の用語としての「縁起(=相互依存関係)」といわゆる「縁起(=因果関係)」の混乱が起こり、無意味な論争に努力がつぎ込まれた。著者の主張に基づいて龍樹の議論を整理すると、次の通りである。
     全てのものごとは相互依存関係によって成り立っており、いかなる主体、述語もそれ自体として存在しない。例えば私という存在はさまざまな要素によって成り立っており、私そのものというものは存在しないし、その私を構成する要素もまたさまざまな要素によって成り立っているためその要素そのものは存在しない、つまり無自性である。ところで、そうして成り立っている世界は、それ自体存在するとはいえないが、存在していないともいえない、つまり空である。そして、この相互依存関係から自由な世界、つまり常住で不易な無為法は存在しない。したがって、仏もニルヴァーナも空であり、存在するともしないともいえない。
     このような透徹した理論は確かに清々しいものであるが、同時にあまりにも救いがない。しかし、むしろ仏を正しく超越的なものとと捉えており非常にしっくりくるものである。この超越的なあり方をあえて実践において要請として信じることができるかという問いかけは、キリスト教とも一致するものであり、通俗的な仏教からは計り知れない初期仏教の理論的到達点は驚かされるばかりである。

  •  一念発起して三連休に読み切った積本。1年ほど寝かせてた。
     『中論』分からないといろいろこれから不便かもしれないと感じて読んだ。
     第一部で龍樹(ナーガールジュナ)の生涯の解説。諸説をしっかり取り上げてある。
     第二部で『中論』の解説。何が説一切有部と対立していたのか、経部との関係など、にも触れ、空、縁起、不生、無我、中道など必要な概念を遺漏なく解説してくれている。
     そして第三部で原典に当たる。第二部で読んだことがあって初めて頭に入ってくるのだ。『中論』、『大智度論』(これよかった)、『十住毘婆沙論』の易行品が読める。素晴らしい構成だ。
     「あるんでもなくてないんでもない」これを法話で聞いたらわかったようなわからないようなところに陥りがちなんだが、じっくり読んだらわかってくる。文章も簡潔でいて、のちの人々が龍樹の思想をどうとらえたか、チャンドラキールティーの解釈の「書き方」に関する考察も、思惟する人への敬意に満ちていて共に考える人が書いたものだなあと言うところにもすごく心が揺さぶられた。
     すごくいい本。自分は瓜生師の法話で聞いていたから読めたのかもしれない。これ何回も何回も聞く話なんだなあと思った。世親や曇鸞のことを聞くにしても、空と中道のことを聞いているかどうかで全然違うなと感じた次第。思い切って一気読みしてよかった。

    『中論』 帰敬序 (八不について書いてある)

    [宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも[われらに向かって]くることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

    ※自分メモ エックハルトをチェックする

  • あらゆる事物に対して、「ある・ない」という実体的な判断をしない。有るでも無いでもない「中」を観る。事物は他に縁って存在している。本体はない。

    諸行無常。現象世界は、何かに条件付けられている(有為・縁起)ため、常に移り変わり続ける(無常)。だから、この世の全ては思い通りにはならず、さらに執着・欲望・渇愛には際限がない(苦=不満足)。

    諸法無我。単一不変でコントロールできる自己(常一主宰の実体我=アートマン)はない(無我=アナートマン)。実体我はないが、固有の認知の場としての自己(経験我)はある。そして、こうした現象世界は輪廻する。輪廻とは魂(実体的な核)が器(身体)を変えながら受け継がれるという物語ではなく、現象世界(無常・苦・無我)が業(後に結果をもたらすはたらき)によって繰り返し起こるということ。

    涅槃寂静。執着するのを止めて、無為の世界(涅槃・解脱)へ。

    あらゆる事物は相互関係から生起する。本質的な実体はない。事物を確固たる存在と考えるな。

    ※阿羅漢(現世で涅槃可)と仏陀(一切智・三阿僧祇百劫の修行必要)の違い。上座部は阿羅漢(自己救済)を目指すが、大乗は菩薩として仏陀(広く衆生を救える者)を目指す。

  • 龍樹 (講談社学術文庫)

  • [ 内容 ]
    一切は空である。
    あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。
    仏教思想の核心をなす「空」の思想は、千八百年前の知の巨人龍樹により理論化された。
    インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良・平安仏教でも「八宗の祖師」と讃えられたその深く透徹した思考が、仏教学・インド哲学の世界的権威の手で、『中論』全文とともに今甦る。

    [ 目次 ]
    1 ナーガールジュナ(龍樹)の生涯(『龍樹菩薩伝』;プトンの伝えるナーガールジュナの生涯;ターラナータの伝えるナーガールジュナの伝記;結語)
    2 ナーガールジュナの思想―『中論』を中心として(大乗仏教の思想;空観はニヒリズムか;論争の相手;空の論理;論争の意義;縁起;空の考察;否定の論理の実践)
    3 ナーガールジュナの著作(『中論』;『大乗についての二十詩句篇』;『大智度論』;『十住毘婆沙論』;『親友への手紙』)
    4 ナーガールジュナ以後(ナーガールジュナの思想の流れ;比較思想からみたナーガールジュナ)

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著者プロフィール

1912年、松江市に生まれる。東京大学教授、東方研究会理事長、東方学院長などを歴任。文学博士。勲一等瑞宝章受賞。文化勲章受章。1999年、逝去。

「2021年 『構造倫理講座Ⅲ 〈生命〉の倫理』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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