チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社
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レビュー : 26
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061595910

作品紹介・あらすじ

密教の実践的研究を通して、チベット高原の仏教思想と現代思想が幸福な邂逅をとげる-。物質に対する執着に眼を曇らされた闇を抜け、いまだ顕れ出ることのない純粋な未発の光に満ちたもう一つの夜を渡る旅へ。"精神の考古学"を駆使して新たな知の時代を切り拓き、思想の大海を軽やかに横断し続ける著者の代表作、待望の文庫化。

感想・レビュー・書評

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  • 二項対立というものが持つ胡散臭さがどうにも気に食わんくて、
    「この世」と「あの世」の間に「その世」とかを導入したらどうか、
    なぞと考えていたんだけれど、
    この本を読んでなんとなく見えてきたような気がする。
    (気がするだけのような気もひしひしと感じはする)

    境界が発生する前の渾沌を保つ。
    天使が男女の両方であり同時に両方でないように。
    けれども、言葉はなにもかもを分節してしまう。
    だからたぶん言葉が概念を創る手前で留まる、
    あるいは意味が生成される手前で横すべりし続けることが必要になる。
    それは本書でいうところの「意味の微分=差異化」ってこと。
    「点」という存在しない空間(0次元)に居座るってこと。

    う~ん、
    自分で書いててよく分からん。

    つうかこのテクストは誰向けなのだろう。
    なんだか難し過ぎて、かなり踏み込まないと意味すら分からなかったのだが。
    そのため読む時間は普段の3倍くらい掛かったと思う。
    とはいえ、理解できたとは到底言い難く、甚だ悔しいのである。

  • 見えるってなんだろう?

  • の調律、極楽論、ヌーベル・ブッディスト、砂漠のランボー 「チベットのモーツァルト-クリステヴァ論」 のみ読了/かろやかさ、微分、差異、運動といったキーワードが散りばめられ、身を打つ天上の音楽が奏でられる至福に思いを馳せつつ。「雪片曲線論」の読後感とおなじく、身体の中をさわやかな風が駆け抜けていくような。ただ前に読んだ時より読めなくなった。特に、表題作は途中から目がすべり言葉がこぼれ落ちていくようだった。

  • 秋葉さんのオススメ

  • 荳頑ゥ玖除遨ょュ先嶌蠎励h繧翫?

  • 仏教におけるチベット・タントリズムと、ポスト構造主義におけるドゥルーズ的な生成の思想をつなぐ、著者の知的冒険が展開されている本です。

    著者は、みずからの思索の軌跡を説明するにあたって、ヤキ・インディオの呪術師のもとで修行した体験を記述したC・カスタネダの議論を参照しています。カスタネダは学生時代、シュッツの現象学的社会学をラディカルに推し進めたガーフィンケルのエスノメソドロジーを学んでいました。エスノメソドロジーでは、この現実は相互主観的に構成されたとみなされることになります。彼らにとって社会学調査は、人びとが当然視していることを疑問に付し、そこに亀裂を入りこまる「現象学的苦行」の場だと考えられます。しかしカスタネダは、あらゆる常識に対して疑問の目を向けるエスノメソドロジーとは逆に、呪術師との対話のなかでみずからのよって立つ足場が疑問の淵に投げ入れられるという体験を記述しています。

    とはいえ、意識変容の体験を通して「現実」の根底にある無意識の領域にめざめたとカスタネダが語っていると理解するならば、それは謝りといわなければなりません。むしろ、そうした二元論を宙吊りにし「世界を止める」ことの会得がめざされていたというべきでしょう。幻覚体験は根源的な世界経験などではなく、そうした二元論を抜け出すための「戦術」だと理解される必要があります。

    そして、チベット・タントリズムにおいてもこれとおなじことがめざされていると著者は考えています。チベット・タントリズムの修行を通して著者自身が獲得した経験は、クリステヴァのことばを用いて説明するならば、フェノ=テクストとジェノ=テクストのたえざる往還運動が起こっている意味生成の「場所」(khora)へと身を開き、さらにはみずからの身体をそうした「場所」とすることだということができるでしょう。

    著者は、本書のなかで仏教の中観を論じつつ、「誰でもできる脱構築」ということばを使っています。そのことばの安易さには正直なところ同意できないのですが、仏教の「戦術」的な性格をそれなりにうまくいいあてているように思えることもじじつであるように思います。

  • 意識の深部を 著者と一緒に探検しているような本。映画「マトリックス」のように 現実の多層性を感じながら、ミクロの世界で 意識の深部には何があるのか探検している。宇宙のような無限性も感じる

    「極楽論」の章は、生存と非生存の間(あわい)にある 無限の 天国、浄土を 横断している。点としての 天使、極楽浄土の音楽を感じながら

    「病のゼロロジック」以後は 本のテーマから少し外れるが、聴きなれない哲学用語も少なく 読みやすいし、面白い

  • 私たちが考える「意識」よりずっと高次元にある、深遠で微妙な「意識」。その状態に自分を持って行くことができれば、日常の「現実」とは全く異なる高次の「現実」を体験することになるという(いわゆるトランス状態)。

    イスラーム神秘主義やヒンドゥー教の本、あるいは心理学の本などを読んでいると、しばしばこのような境地について語られるのに出くわす。そういう神秘的な心の状態について、とても興味はあるものの、やはり自分とは遠い世界の話のように思ってきた。

    しかし、自らチベットで修行をした経験のある中沢氏の描くそれは、圧倒的な臨場感と迫力に満ちていて、説得力がある。とはいえ、私の想像力をはるかに超えたもので、そういう意識の状態にある時どんな感じがするのか、見当もつかないけれど。

    本書で中沢氏は、神秘的な高次の意識や、それを通して見る現実のありようを、哲学の言葉で語ることを試みている。本書を読んで、私にとって想像することがむずかしい境地について、考えてみるための指針のようなものが与えられたような気がする。

  • おしゃれな文体のお陰で、ある意味勘違して80年代の一般人に受け入れられ、時代が変わるとあまりに難解な内容を嫌われて理解できない層から叩かれてしまったある意味不幸な本。表題作はクリステヴァ論。人が社会的な存在となっていく過程で、意識の作用により自己を中心に形作っていく、空間力学を精神分析とトポロジーを融合した野心的な試みだが、これをイメージできない向きには何が言いたいのかまったく分からない、苦痛でしか無い文章に思えるのだろう。
    ただ、後半には「丸石考」のような普通に民俗学の文書うとして読めるエッセイや、話題になったカスタネダの紹介、チベットでの修行に関するエッセイもあるので、とりあえず理解できる箇所だけ読んでみるのもいいかと思う。

  • 以下の文章はぼくが大学でゼミの卒論として記した「 心身二元論の未来~その多様的現実の可能性」からの抜粋だ。そこでぼくは「チベットのモーツァルト」の中でも特にお気に入りの箇所を引用しているので紹介したい。ちなみにこれはただ引用したいがために記された論評だったと述懐する。

    以下、抜粋

    ところで、心身二元論においては精神と身体は区別されるのだが、では精神はどこにあるのだろうか。身体を構成する器官のなかに精神の器官は現出しない。では、非物質的に精神は身体とシンクロしていることになる。ここで、精神の具現化を図るときぼくたちは宗教にその方法を求めるかもしれない。デカルトもキリスト教的神の存在によって精神の存在を具現化したように、ぼくたちは東洋思想における神によって具現化を試みる。そのとき、ぼくたちはキリスト教的神が指摘できなかった事実に遭遇するのである。

    ところで、心身二元論においては精神と身体は区別されるのだが、では精神はどこにあるのだろうか。身体を構成する器官のなかに精神の器官は現出しない。では、非物質的に精神は身体とシンクロしていることになる。ここで、精神の具現化を図るときぼくたちは宗教にその方法を求めるかもしれない。デカルトもキリスト教的神の存在によって精神の存在を具現化したように、ぼくたちは東洋思想における神によって具現化を試みる。そのとき、ぼくたちはキリスト教的神が指摘できなかった事実に遭遇するのである。

    ここでいう東洋思想における神は仏教神である。ブッダの教えに耳を傾けるのだ。そのとき、精神は身体の中に拠りどころを持っていることがわかる。それはチャクラだ。胸の下のみずおちの付近にチャクラはあると言われる。その中に光の結晶のような精神(魂)が内包されている。チャクラがが開かれると奇跡的な覚醒がもたらされる、とチベット密教などでは教えられている。そして、チャクラのある付近から頭頂までは管が通っており、チベット密教にはそのチャクラに観想した「心滴」と呼ばれる赤い光の滴を管を通して頭頂から外へ押し出す「ポワ」の瞑想テクニックがある。これを続けていくと頭頂には肉の盛り上がりができ、そこに小さな穴が開くのだ、と宗教学者としてラマ僧についてニンマ派の瞑想修行を行なった中沢新一は飄々と述べる。

    --------------
    だが、七日目の晩、その日最後のセッションも終りに近づいた頃だ。いつものように「ヘック」という掛け声といっしょに「心滴」を頭頂から抜き去ったその瞬間、私は自分が奇妙な体験をしていることに気がついた。つまり私は自分が身体の外にいて、自分の身体を上の方から見おろしていることに気づいたのである。それは奇妙な感覚だった。上の方から見おろす身体は髪の毛や着物のひだにいたるまでくっきりと見えるのに、その周囲の空間は身体から遠くなるにしたがって、しだいに暗闇に溶け込んでいくようだった。しかし、不思議なことに、私は自分の後方の離れたところにある寝台にすわって心配そうにこちらを見ている同室の若い僧の姿だけは、はっきりと見ているのである。私はもっと上方の空間を見てみたいと思い、意識をそちらの方にむけた。すると、そこはまっ赤な光におおわれていた。

    この時、急いでもとの身体にもどらなくてはという気がおこったのを憶えている。身体が少し傾きはじめ不快感を感じたためでもあるし、後方の若い僧が何か大きな音をたてているのに気がついたからだ。私は懸命に、赤い光のかたまりになった自分をもとの身体に落下させる「ポワ」の究竟次第のテクニックをつかった。
    (せりか書房『チベットのモーツァルト』中沢新一著)

    ここで描かれている世界はかなり非現実的だ。いわゆる幽体離脱という現象であるが、チベット密教ではこのような現象が修行の最中にたびたび起こるのである。ここでは心身二元論は肯定されている。中沢は光のかたまりとなった自分が自分の身体を見おろしていることを確認している。つまり、精神が身体から分離されて別の空間に存在していたことを意味している。この現象の現実性を科学的に理解することは難しいが、稀に夢の中でも起こるこの現象は現実なのだ。夢の中の出来事さえ現実である。逆にふだん現実だと意識しているものこそ虚構で、現実はもっと別のところに存在するのだ。こうチベット密教のラマ僧はいう。これはかなりのレトリックではあるが、現実というものはひとつに限定できない多様性に拠っていることは確からしい。でなければ、心身二元論の精神とはどこにあるのか。つまり、精神という非物質的な存在の確認はこの現実の多様性の中にしかありえないのである。

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著者プロフィール

一九五〇年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。明治大学野生の科学研究所所長。思想家。著書に、『チベットのモーツァルト』『雪片曲線論』『森のバロック』『カイエ・ソバージュ』シリーズ『アースダイバー』シリーズ『野生の科学』ほか多数

「2019年 『レンマ学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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