- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061597068
作品紹介・あらすじ
九歳でジャイナ教の修行僧、ガンジー思想にも共鳴し、八千マイルの平和巡礼を行ったインド生まれの思想家は、自然に対する愛を強調した独自の平和の思想を提唱する。デカルト以降、近代の二元論的世界観は対立を助長した。分離する哲学から関係をみる哲学へ。暴力から非暴力へ。思いやりに満ちた心の大切さを力説し、地球は一つと、相互関係・共生関係に基づく平和への新しい展望を示す。
感想・レビュー・書評
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2021.62
シューマッハカレッジのサティシュさんの本。
・善良を行う(行為)ということだけでなく、善良である(存在)、ということが大切。
・そのためには自然とのつながりが大切。
・全てのものは自分と相互関係、一つの地球共同体。 -
西洋の二元論的世界観が、対立を深め、今日の世界の危機を招いている。インドで生まれ、イギリスで暮らし、洋の東西を知る著者が、分離するのではなく、全体を見る哲学を説いた書籍。
ルネ・デカルトは、精神と物質、心と体を分け、世界を分析、分類する対象物の集合として捉えた。この二元論は、西洋文化の支配的パラダイム(理論的枠組み)となっている。
二元論的世界観では、人には個別の自我があり、他者とは無関係に自分の意志で行動できると考える。これは「分離する哲学」である。
一方で、全体を見ようとする哲学もある。例えば、木を木として捉え、幹、枝、葉、花の集合とは見ない。これは「関係を見る哲学」といえる。
「分離する哲学」では、個人は自らの利益を得ることだけを奨励される。この終わりなき獲得競争は、不安をもたらす。今日、不安や不信が、私たちの生活を支配しているが、これは、私たちが他者と深い関係を持たなくなったからだ。
「関係を見る哲学」では、人は他者がいて初めて存在できると考える。これをヒンズー教徒は、「ソーハム(彼は我なり)」、「君あり、故に我あり」という言葉で表現する。
世界中で起こっている対立は、個人や共同体、社会や国家などが、それぞれ個別の「自己利益」を追求していることが原因である。私たちは自己利益ではなく「共通利益」を求めるように変わらなければならない。
地球を守ろうとする環境保護運動も、多くの場合、人類の利益を優先する二元論的な世界観に基づいている。だが、必要なのは、自然を守ることだけではなく、すべての生命の神聖さを認識し、畏敬の念を抱く「敬虔なエコロジー」である。 -
サティシュ2冊目。
サティシュがいまの思想に至るまでに、人や思想とどのように出会ったかがわかる本。
ソーハムの世界観/種から生長する過程で、殻を脱ぎ、ほかのものと一体となる/マントラ→心の解放/オウム→肯定の意味/シヴァ神の息子ガネーシャ→一家に幸運をもたらす/ダルマ→行為から存在への善の旅/すべての生き物に親切に/共感と非暴力の実践/無自覚な自分の感情、言葉、行為に注意を払う/知識はすでに自分のなかに存在する/サルヴォダヤ→生命を中心とし、すべてを慈しむ/ヤグナ(補給)によって土を育て、ダーナ(贈る)によって社会を育て、タパス(自分への補給)によって自己を育てる/伝統という無償の贈り物/タパスの四つの方法→ヴィナヤ(謙虚さ)セーヴァー(奉仕)スワダヤ(学び)ニドラー(睡眠)/国境などを含む、いろいろな線引きが争いのもとになる/自然や動物より人間を優位と考えることが暴力の根源/軍備競争でなく、平和競争を/貧しい人々に対する態度を根本的に変える必要がある/ジハードは自分の中での葛藤、自尊心の克服のこと/怒りは自分も他者も傷つける/「芸術のための芸術」は存在しない/頭脳労働と肉体労働の間に上下はない/芸術はビジネスではなく生き方/洗い物を出さないほどきれいに食べる/自給自足の経済ネットワークを/伝統社会の多くには所有という概念は存在しない/自己利益という動機から共通利益の認識への移行 -
素晴らしい内容です。多く同調するので個人的には刺激は少なかったけれども気持ち新たになりました、世界を先導する人たちにこそ考えて頂きたいです。
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永久保存版。
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「あなたがいるからこそ、私が存在する」
我思うだけでは、我は存在しない。
人と人のつながりの中にこそ自分が存在することを、
実践的な宗教人の立場から著述。
クリシュナルムティー、マーチン・ルーサー・キング、フリッツ・シューマッハーなどとの、本音対談も圧巻。 -
同じ東洋だからか、
自然が豊富だからか…
考えとして受け入れやすいものが沢山あった。
全体性、多元論、自然・・・
宗教的な説明は簡潔でわかりやすいし、筋もとおっている。
それでいておしつけがましいものではない。
今まで言葉としてわかってたいた物が、
イメージとして入りこんできた瞬間だった。
だてに数百年語り継がれているものではないという感想。
やっと、一つの物体が宇宙にまで繋がっていることを感じれた。
大きな出会い。
自然は偉大だ。
そこから離れているがタメに、宇宙への感覚から遠ざかる。
ほんとに地方に住んでいてよかったと思った。
サティシュがいるから、自分がいる。
みんながいるから、自分がいる。
君あり、故に我あり。 -
ジャイナ教は精霊崇拝である。自然界のものはすべて生きており、すべての生命は神聖なのだ。いかなる形の生命に対するいかなる種類の危害も避けるべきであり、最小限にとどめなければならない。
「我思う、故に我あり」といったデカルトの探求の出発点は「懐疑」である。信頼することを放棄し、懐疑と二元論という新しい教義が、西洋文化の支配的パラダイムとなった。しかし、分離し、隔離され、関係を持たない自己など存在しない。だから「君あり、故に我あり」
我々一人一人はみな、宇宙のエネルギーの特殊な現れであり、生命の偉大なタペストリーの一部。孤立した個人はなく、自立し自活できるものでもない。私たちの関係は相互依存的な関係。
著者プロフィール
サティシュ・クマールの作品





