善の研究 (講談社学術文庫)

  • 講談社 (2006年9月8日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (520ページ) / ISBN・EAN: 9784061597815

作品紹介・あらすじ

日本最初の本格的な哲学書『善の研究』。深い思索とたゆまぬ探究心、西洋思想との厳しい対決。西田幾多郎は、人間の意識を深く掘り下げ、心の最深部にある真実の心は何かを探究し続けた。本書では、難解な本文を平易に噛み砕きやさしく読み解き、詳細で懇切な注釈と的確な解説を施し、論旨を纏め示す。2編の補論も収載、西田の代表作理解のための最善の書。(講談社学術文庫)


丁寧な注釈と的確な解説
日本哲学の名著を読む

日本最初の本格的な哲学書『善の研究』。深い思索とたゆまぬ探究心、西洋思想との厳しい対決。西田幾多郎は、人間の意識を深く掘り下げ、心の最深部にある真実の心は何かを探究し続けた。本書では、難解な本文を平易に噛み砕きやさしく読み解き、詳細で懇切な注釈と的確な解説を施し、論旨を纏め示す。2編の補論も収載、西田の代表作理解のための最善の書。

本書は、西田幾多郎の代表作『善の研究』に注釈と解説を試みたものである。『善の研究』で用いられている難解な哲学用語をわかりやすく説明し、本文中に引用されている哲学者の思想やその著作を簡明に解説した。また、意味のとりにくい難解な文章をできるだけ平易に、くだいた形で表現し直し、各章ごとに、その全体の論旨をまとめ、それと同時に、個々の主張の背後にある根本の精神を明らかにするよう努めた。――<本書「まえがき」より>

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

深い思索と探求を通じて人間の意識を掘り下げる本書は、日本哲学の名著『善の研究』をより理解しやすくするための注釈と解説が豊富に施されています。難解な哲学用語や複雑な論理を平易に噛み砕くことで、読者は西田...

感想・レビュー・書評

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  • 約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。
    途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。

    "純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。
    (講談社現代新書100や100分de名著テキスト等)
    第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。
    第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。
    第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。

    読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど
    この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。

    何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。

    読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。
    補論はこれから。

  • 意外と読みます。西田幾多郎の文章や論理がわかりやすいのもありますし、注釈や解説も豊富でその点も良いです。
    内容については西洋哲学を使って、(定まりつつある)新しい日本の思想を組み立てようというものでしょうか。かなりの説得力と、体系的にうまく説明している印象です。もっと早くに読めば良かった。

  • わが国最初の独創的な哲学書である西田幾多郎の『善の研究』のテクストに、西田研究者の小坂国継氏による注釈を付したもの。テクストは一段落ずつ切られて注釈が挟まれ、各章の終わりには小坂氏の「解説」が置かれている。

    小坂氏はほかにもいくつか西田の論文のコメンタリーの仕事を手がけているが、本書の注釈もそれらに劣らず、手堅くポイントが押さえられている。西田哲学に関する研究書には、解釈者独自の理解が前面に出されたものが少なくない中で、本書の解説は西田自身に語らせるようなものになっている。

    また、『善の研究』では、当時流行していた哲学者の思想が参照されて議論が進められることも多く、今日の読者がその内容を理解することを難しくしているが、本書の注釈はそうした書肆的情報についての解説も充実していて、読者の理解を助けてくれる。

  • 主観と客観は同じであるという主客合一の考え方、なかなか難解である
    ただ、個人性の実現、個と全体がつながる利他や社会性の倫理観や二元論を嫌う考え方は、この対立が増す現代にこそ学ぶべき示唆があるように思えた

  • 知情意のうち意を中心に据え、主客合一の純粋経験をもって全ての精神作用の根幹と捉える、日本で初めて自前の哲学として生まれた「善の研究」。
    "善とは何ぞや"ということを説いたものではなく、より根源的な観点から、統一的或者によって総合される意識界のはたらきを西洋哲学諸家の思想をベースに西田流に構成し直した内容。
    難解な専門的事項について丁寧に付された注釈がありがたい。

  • 真の自己を知るのが善。こう言い切っているが、真の自己とはなんだろう。それはマニュアル的に知ることではないのかもしれない。何度も読み返して理解すべき本なのだろう。

  • 我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。

    今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。

    科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。

    物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。

    我々の世界は意識現象の事実より組み立てられている。種々の哲学も科学も皆この事実の説明に過ぎない。

    我々の意識現象の外に独立自全の事実はない。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

    上の考えは、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬものであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これによりて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出会うのである。しかし、これらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。

    我々の思想感情の内容はすべて一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互いに相通ずることができる。故に、偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神をもって支配する。この時これらの人の精神を一と見なすことができる。

    個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。

    因果律は客観的に存在するものではなく、我々の思考の「習慣」に基づく「信念」に過ぎない。

    因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起こった思惟の習慣であることは、この因果律によりて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのをもってみても分かる。因果律は世界に始めがなければならぬと要求する。しかし、もしどこかを始めと定むれば因果律はさらにその原因は如何と尋ねる。すなわち自分で自分の不完全なることを明らかにしているのである。

    意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受くべきものではない。

    同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。

    明瞭なる目的観念を持っている時は能動であり、持っていない時は受動である。意志や思惟が能動的であると考えられ、反対に衝動や知覚が受動的と考えられるのはこれによる。

    意識の外なる物体とか客観的世界とかいうものは存在しない。我々が客観界と呼んでいるのも、やはり一種の統一力によって統一されたものである。ただ、それが個人の外にあるように見えるのは、それらの意識現象が単なる個人の統一力によるものと思われないような、ある普遍的な性質を持っているというだけのことである。いわゆる客観界とは、各人に共通しているような普遍的性質の存在から推理され想定された抽象的世界にほかならないのである。

    個人の意識が昨日の意識と今日の意識とただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見なすことができる。この考えを推し進めていく時は、ただに一個人の範囲内ばかりでなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより相理解し相交通することができる。

    普遍的理性が一般人心の根底に相通ずるばかりでなく、ある一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。

    時間というのは我々の経験の内容を統一する形式にすぎない。意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反対にこの統一作用によって時間が成立するのである。

    純粋経験の範囲を昨日の意識と今日の意識に限定する理由はなく、それを個人の生涯にまで拡大して、個人の一生の意識というものも同一の意識の体系的な発展と考えることができる。同様の理由で、我々は自己の意識と他人の意識をも同一の意識体系に属すると考えることができる。

    通常、我々は自己と他人は空間的に隔たっているため別個の実在であると考えがちである。しかし、空間というものは客観的な実在ではなく、時間と同様我々の経験の内容を統一する形式にほかならない。

  • "いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
    内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
    心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
    しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。

  • ”善とは何か?
    →自分をつきつめていくこと。
    →小さな自分(偽我)をそぎ落とし、より大きな自己へ。
    →★好きなこと、いいと思うことについて、発信すること、広めていくこと!

    <キーフレーズ>


    <きっかけ>
    人間塾 2016年8月の課題図書”

  • 西田幾太郎。
    最も具体的な経験の事実に近づいたものが真理である。

  • 飛ばし読み

  • 真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。

    しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく

    意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。

    意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの

    主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している

    西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。

    いかに生きるかという実在の問題、

    世界はこういうものであるという哲学的世界観および人生観と人生はこうせねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。

    宗教と科学の仲裁というれいの命題か。

    真の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるところに成立する

  • 注釈が豊富で非常にわかりやすい。

  • 西田幾多郎「善の研究」は岩波文庫で大学生の頃に読んだのが最初でした。
    理解してたつもりだったんでしょうね。あれからかなり年月が流れたので、「今読んだらどう思うかな?」という気持ちで、注釈付きの講談社学術文庫版を購入。
    これを読み終えた今でも、理解できてるとは思いませんが、それでも以前よりは分かったかな。
    ありきたりな言葉ですが、深いですよね(笑。

  • 哲学の魅力を教えてもらった。西田が私の中に棲み始めた感じ。新たな思考の土台を作ることができた。

  • 大学の日本思想史という授業で西田幾多郎を学んだときに買った。難易度★★★。実家からお持ち帰り。

  • かなり難解です。

  • 絶対矛盾の自己同一.解説付きで読みやすい.

  • 日本を代表する思想家西田幾太郎のエッセンスが凝縮された伝説的名著


    ……と聞いて読み始めたのだよ
    しかし、これは難解だ
    もちろん哲学書なわけで簡単なはずがないんだけど、頑張って読み切りたい

  • 岩波版で挫折した人へ。

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