- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061598089
作品紹介・あらすじ
霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活。不快なものには近寄らない、危険であれば逃げてゆくという基本戦略を、人類は約一万年前に放棄する。ヨーロッパ・西アジアや日本列島で、定住化・社会化はなぜ起きたのか。栽培の結果として定住生活を捉える通説はむしろ逆ではないのか。生態人類学の立場から人類史の「革命」の動機とプロセスを緻密に分析する。
感想・レビュー・書評
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我々の遠い祖先が、
相当に長きにわたる狩猟採集生活を続けていたことは
周知の事実である。
それが、ある段階から農耕を中心とした食料獲得の生活に
転換した。
といっても、それはわずかに1万年程度の歴史しか
持っていないと言われる。
これを、一般的には「農耕革命」と称する。
…と、私も何の疑いもなくぼんやりと認識していたのだが、
そこに対して「ちょっと待て」という疑義を提示し、
ユニークかつ説得力ある説を展開しているのが本書の著者、
西田正規氏である。
さてそれはどんな説かといえば、
「狩猟採集から農耕への転換」
が主要素として起きたというよりも
「遊動生活から定住生活への転換」
が主たるフェーズとして起こり、
それにともなって農産物を得るという食料獲得手段が
根付いていったのではないか、というものである。
では、なぜそれが起こったのかという最大の要因について
著者は「環境の変化」を挙げる。
後氷期への突入が、定住へのきっかけになったと考えている。
それは非常に納得できる説明がなされている。
温暖化することでそれまでのメインの食糧であった大型の獣が
姿を消していくと、それに頼った食料獲得は期待が持てなくなる。
一方で、温暖になることで、木の実をはじめとした採集での
食料獲得の効率が上がり始めた。
ここが、大きなターニングポイントになるわけだ。
生物の進化が「適者生存」をキーとして語られるように、
人間の生活の在り方もまた、「適者生存」だと私は思う。
大型獣の狩りへの拘りを捨て去って、新しいやり方を見つけて
適応していった人々が生き残っていったのであろう。
また、いきなり農耕に突入したわけではないことも、
よく考えれば当たり前である。
ヒトが農耕に使っている作物は、自然品種を人為的に改良する長きに
渡るプロセスの獲得物である。
となれば、自然品種しかない状態で農耕が始められたわけがない。
定住をし、海の網漁(労せずにたんぱく質が手に入る)や木の実採集などを
メインとして生きていく中で、品種改良が進んで、ある段階から
農耕の効率が飛躍的に上昇し、それが主になっていったと考えるべきであろう。
個人的に私はクリとかクルミとかが大好きなのだが(笑)、
本書では、それら木の実がこの定住生活の中でいかに大きなカロリー源となっていたかが
示されており、大変興味深い。
とはいえ、これらは「メインの食べ物」にはなりえなかったようだ。
どうも、人体は木の実から大量にカロリーを採るようにはできていないらしい
(オヤツにはちょうどいいらしいのだが)。
もっとも、狩猟生活が長かったことを思えば、現在のように穀物からカロリーの
大半を採るスタイルだって、ベストかどうかはよくわからないのである。
糖尿病なんてものも、狩猟の時代には絶対にありえなかった病気だろう
(そんなに炭水化物ばっかり採ったわけだがないから)。
しかしまぁ、人類は穀物と農耕の時代に入ってから人口を増やし始めたわけでもあり、
現在のこの地球の人口は農耕なしに支えられるわけがないことも自明である。
あと本書でおもしろいのは10章にて取り上げる
「安全保障の言語」と「仕事をする言語」の話。
前者は、生物集団としての関係維持や暴力回避を実現するための
コミュニケーションツールであり、後者は狩猟開始以後の、目的達成のための
情報連絡手段であるという。
本来は前者がメインだったはずの言語が、どんどん時代が下るにつれて
後者の役割が大きなってしまい、それがいまの時代のヒトの不適応に
繋がるのではないか、という説。
データとかで論証されているわけじゃないけれど、私は頷けた。
そもそも言語の曖昧さみたいなものを昨今、いろんな書籍を読む中で
考えるようになったが、本書の著者の考え方を借りれば、そのあたりにも
説明がつくように思う。
「仕事をする言語」の歴史は浅いのであり、ヒトの生物学的構造に保証されるものだとは
言い切れないんじゃないのか、という話として、
チョムスキーらのいう「生成文法」は、社会構築主義よりはよっぽど説得力のある一方で、
それでも二重らせんの遺伝子からなる私たちの生物性とはなんだか相容れないような
不十分さを感じる理論だよな~、って思っていたが、
成り立ちからすれば、それは当然なのでは? という気がしてきた。
確かに先天的にヒトは言語への驚異的な適応性を発揮しうることは間違いないが、
だがだからといって言語そのものが完璧な構造を持つということにはならないだろう、と思うのだ。
言語がどんどんと変化していっていることは周知の事実だが、
そのあたりもまた、この不完全なるものの結果として、当然なんだろうな、という気がする。
進化論という太い軸に貫かれた、科学的説得力を大いに持つ
人類史の一冊である。
読みやすく、説得力があり、おもしろい。
1986年に出された本で、2007年にこの文庫として再販されたわけだが、
もっともっと広まってほしいと思う本である。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740594 -
『サピエンス全史』を読んだ人は必読のこと。歴史とは出来事だが文明は脳内の変化を示すものと私は考えている。それは一人の脳内で起きたシナプス結合の変化が短時間で伝染する様を現している。文明とはネットワークそのものだ。
https://sessendo.blogspot.com/2020/04/blog-post_26.html -
「人類史のなかの定住革命」読。
人類が何百万年も遊動生活していた理由の一つとして、グループ内での不和や緊張関係の解消の意味もあったという説は、なるほどと思った。
そして定住が始まって以来、現代の人類の緊張関係は解消される兆しすらないというのも、そのとおりだと思った。
定住が始まった理由として、気候変動などを上げているが、そのへんは頭に入らなかった。
最後の方で「安全保障の言語」 「仕事をする言語」というものを持ち出して、
「安全保障の言語」は天気の話や、近況報告、今度呑みに行こうなどの社交辞令でこれはどの民族も一緒で、猿が無駄に長時間毛づくろいしたりするのと同じことで、これを拒否することは、人間関係において緊張を持続させてしまう。
「仕事をする言語」は現代なら会社での今月の売上が下がったとか、家庭での子供の学校の成績の話などとしている。
これは昔、狩りのときのチームワークのための言葉が発達したものだろうという。
現代日本社会ではこの「仕事をする言語」が溢れかえっていて、最後に金属バット殺人事件の話を持ち出して、事件が起きた家庭では「仕事をする言語」しか使われず、常に緊張を強いられたのではないかと言う。
少し強引な気もするけど、数百万年続いた遊動生活と、現代日本の核家族の仕事に追われる生活は確かに違う。
数百万年続いた遊動生活が人類の本来の姿で、1万年前に始まった定住革命はいまだに続いているというのは、ああそうだなと思った。 -
定住によって装身具や土偶、文様などに能力を使うようになった。
農耕社会の特徴は、実は定住社会の特徴だった。
栽培は定住生活の結果であって、原因ではない。初期は漁業生活ではないか。漁獲高は狩猟に比べて安定的で豊富。
薪として木を借ることで、栗、クルミ、小麦、大麦が群生してきた。
広葉樹林を薪として利用すると、アカマツ二次林へと変化する。クリ、クルミ、ワラビ、フキ、ウド、ミツバ、タラノキなどの陽性植物は二次林に好んで生える。
水産資源の活用で定住集落が出現し、栽培化が進行した。その後水産資源が得られない場所で農耕化が促進された。
家族を形成することは、道具を持ち歩く人類が安全を保障するために支払った代償である。食料が分配され交換された社会が成立した。 -
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人類における「定住」を、食糧生産が可能になった「結果」として見るのではなく、食糧生産の「原因」とみる。つまり、環境の変化によって「定住」せざるをえなかったために、食糧生産も始まった、と考えるのである。この考え方は論理的で説得力をもつ。
加えてこの本では、二足歩行の開始や家族・言語の起源にまで迫る。思考実験としてのこれらの考察は、「証拠がないから曖昧にすごす」という態度を批判して展開されており、面白い。妥当かどうかは、判断できないが。 -
遊動生活こそ人間の真の生き方なのかもしれない。
「私達の祖先は言葉より先に武器を持った」とう説は圧巻であった。
つまり、猟をする上での棒や石が武器ともなり、しかしそれを隣人に使うのではないという説明をするための挨拶、弁明がその次に現れたとのこと。
私たちが現在日常で使う情報伝達の手段としての言語は、そのずっと後の社会が出来上がってからというのも驚きである。