言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061598416

作品紹介・あらすじ

言葉の音と意味の綴じ目が緩んだとき現れる狂気、固定した意味から逃れ生の力をそのまま汲み取ろうとする芸術、本能が壊れたあとに象徴的意味を帯びてイメージ化されるエロティシズム。無意識レベルの欲動エネルギーを覆う言葉の網目をかいくぐって現れる人間的活動のありようとは?ソシュール研究で世界的に有名な著者が言葉の深層風景に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • ソシュール研究の権威という認識ですが、狂気と天才の差異を言語的な観点から解き明かすアプローチはスリリングで、自分の中の言語に対する理解の幅が広がった気がする。

    言語が一義的な意味との蝶番でがちがちに結ばれているという一般的な感覚から、そんなものは歴史・社会実践の惰性化であり、言葉の多義性、曖昧さという面があるです。和歌の例なんかは、まさにそうだと腑に落ちる。

    狂人の3パターンの分類も非常に興味深い。カオスにとどまる(昼行灯のような感じかな?)、深層心理から表層心理への円環循環が滞ってカタルシスに向かえない、表層心理にのみ留まって固執している。現代人というのは、大抵3番目の狂人にカテゴライズされてしまうのではとぞっとする。

    「解読モデル」と「解釈・創造モデル」の対比も胸にくる。これは読書論なんかにも通じるのだろうが、一義的な意味に還元するのではなく、対象に触れるたびに新しい解釈・多義的な意味なんてものを自由に受け取っていくものだ。

    イデオロギーに凝り固まるのでなく、柔軟なメタ認知を意識付けしていく必要があるのだろうな、とそこはかとなく思われ。

  • 記号学の勉強の一環として読みました。駿台の現代文のテキストで読んだことがありました。(p201のデカメロンの話から信号解読のあたりまでであったと記憶しています)
    ソシュール研究で有名な著者の晩年の作品のうちの一つです。そのため、これまでの内容を総括するような話題が多く、ソシュール以外にもサルトル・フロイト・ラカン・シュレーバー・ダリ・ガウディ・世阿弥など、言語学は勿論哲学者や芸術家(広い意味では哲学者と言えるかもしれませんが)まで幅広い人物が次々と登場するため、この本を理解するには広い知識が必要です。
    私はもう少し勉強してから再び読むことにしました。

  • [ 内容 ]
    言葉の音と意味の綴じ目が緩んだとき現れる狂気、固定した意味から逃れ生の力をそのまま汲み取ろうとする芸術、本能が壊れたあとに象徴的意味を帯びてイメージ化されるエロティシズム。
    無意識レベルの欲動エネルギーを覆う言葉の網目をかいくぐって現れる人間的活動のありようとは?
    ソシュール研究で世界的に有名な著者が言葉の深層風景に迫る。

    [ 目次 ]
    第1章 「イカ天」とペレストロイカ
    第2章 文化という記号
    第3章 意識と無意識
    第4章 深層の言葉と言語芸術
    第5章 狂気の言葉
    第6章 エロ・グロ・ナンセンス論
    第7章 虚構の美と生活世界

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • <コード化された差異>としての表層言語と<コードなき差異>としての深層言語の間の往還運動こそが、ニヒリズムと狂気に囚われること無く、生活する世界を豊かに見出しながら生きていくために肝要である。というのが本書の主張を大雑把にまとめたものである。そうした主張を、言語学に精神分析学・現象学の知見を持ち込むことで展開している。
    個人的に収穫だったのが、ラカンのpoint de capiton――<クッションの綴じ目>ないし<マットのつまみ>――についての記述であった。メルロ=ポンティがソシュール的な差異の体系のなかに本質的な絆を持ち込もうと画策し、いわばソシュール言語学のヴァージョンアップを図る瞬間ないしは、彼が<等価物の体系>と共に「スタイル」の獲得や「移調」を論じている場面で問題となるだろうと思っていたことについてラカンの用語で触れていたので大きな刺激を受けた。<クッションの綴じ目>の最小数(134)。
    そうした表層言語の<クッションの綴じ目>は、深層言語における潜在的欲望とのズレによって常に緩められてしまう危険性に晒されている(丸山圭三郎は、言葉の機能として固定化された事物を性化してズラし続ける欲望の喚起を考えている。担ぎ出されるのはバタイユである)。このリスクを抑えこむことこそフロイトの考えた「抑圧」であって、抑圧され、深層言語のなかで漂うものを意識化して浄化するのが彼の後期の治療理論の核となっているのだった。
    ソシュールとラカンの用語の違いについて。めんどくさいので引用。「用語こそ異なれ、ソシュールとラカンは同じ言語観に立っていた。言語=意識=身体の表層においては「シニフィアン(言葉)とシニフィエ(意味)は固く蝶番で結ばれていても、この留金は絶対的な自然に裏づけられたものではないから、いつ外れぬとも限らない」と考えるのがラカンだとすれば、「シーニュ(言葉)と指向対象:レフェランの結びつきや、シーニュ内の音のイメージと概念の結びつきは、いくら必然的様相を呈していても、歴史・社会的実践の惰性化の結果でしかないのだから、いつ外れてもおかしくない」と考えるのがソシュールである。 二人の思想家にとって、この恣意的必然の境界線や留金が外れているのが、言語=意識=身体の深層であり、言語芸術の創造の場であり、狂気の言葉とも共通する風景なのであった。 ラカンの<シニフィアン>とソシュールの<セーム>は、ともに指向対象や共同主観的な意味から切断されている。唯一の相違は、ソシュールが<セーム>と共起する不可分離の「シニフィアンとシニフィエ」を重視していた点であろう。つまり、ラカンの<シニフィアン>は意味をもたない音でしかないが、ソシュールの<セーム>は、表層言語の意味とは異なる、新しい意味を担っているのである。この虚構が持つ<意味>がどんなものであるか(=両義化・多義化・等価物の体系)…」(184f)

  • 「言葉と無意識」(俺未読)の続編。コンパクトな本。それほど引き込まれなかった。

  • もう四半世紀も前だが、モグリで著者の講義に出席したことがあり、ちょうどその頃の講義で『ドラクエ』やら『イカ天』やらをモチーフに本書に書かれている内容を話していたのを思い出した。温和な語り口はさることながら、大教室での学部生への講義で内容も平易だったので、彼の著作を理解するには打って付けだったが、逝去された今ではそれが聞けないのが残念ですね。謹んでご冥福をお祈りいたします。

  • 内容がとても面白かった。
    言葉とはこういうものかと。

  • うーん、あんまり面白くなかった。
    ソシュール由来の記号論とか、狂気とか、エロ・グロとか、主題は私好みなのだが、結局この著者の思想の特色って何なのか。まるで印象に残らなかった。

  • 安吾の堕落論をもっと早く読んでおけば、と後悔しきり。

  • 前半・中盤とむずかしいこと言ってるなーと思いながら、なんとか読んだ。それでもって、最後のまとめが、ものすごく好きな本。最後まで読んでよかったー。

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