わたしの生きがい論 (講談社文庫)

  • 講談社 (1985年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784061834125

感想・レビュー・書評

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  • 「生きがい論」というタイトルではあるが、筆者は人生において達成すべき目的を見つけることや合目的的に生きることを否定する。

    鎌倉武士から現代を生きるサラリーマンまで、何らかの見返り(生きがい)を求めて努力をしたり自己犠牲を受容したりする生き方は、立身出世や野心を持ちづらくなった現代において意味を失いつつあると筆者は語る。

    そして、そのような環境において生きがいを存続させ続けるために、生きがいの矮小化、空洞化、形骸化が起こっているという。明治期の立身出世への野心が企業の中でのエスカレーター式の出世にかわり、書店に並ぶ自己啓発本では、個人のレベルで実現できる達成感を大量生産し、それを人々に分配している。大きな生きがいが見出しづらくなったものの、何らかの生きがいを求めざるを得ないわれわれが、このような小さな生きがいを配布されて生きているというのが現代であると筆者は考えている。

    また、生きがいを求める人生は、経済や社会の拡大成長を前提としているとも筆者は考えており、その拡大の帰結として、環境や資源に限界が来るのではないかとも指摘している。科学の進歩もその結果として地球環境に負荷をかけるという意味で同様であり、人類はこれらの進歩をどこかで立ち止まって見直さざるを得なくなるのではないかという、ローマクラブによる『成長の限界』に通じるところまで、筆者の生きがい論は議論を進めている。


    このような「目的の体系」に対して、筆者は「逆進化の発想」や「無為」の生き方を提唱している。目的をもって生きるのではなく、あそびや文化、情報消費型の娯楽へと、人生をつぶすように生きていく生き方が、筆者の考える無為の生き方である。そして社会のあり方としても、このような「役に立たない」ことや人を受け容れていくことが大切であると筆者は述べている。

    筆者のこの考えの背景には老荘思想があるという。合目的的で進歩を求める儒教の教えに対して、老荘思想は人生に何かの目的があるということ自体を否定し、達成や進歩のない人生を真正面から考えて、それを肯定している。筆者もこの考えに共鳴し、現代社会もそのような方向への転換が求められているのではないかと考えている。


    1959年から1970年代後半までの間に行われた講演をもとにした本であり、その時期は日本が高度成長期からオイルショックを経て転換期を迎えるまでの期間に当たっている。サラリーマンの間に猛烈に働くことへの疑問が生まれ始めてきたころでもあり、公害や資源不足など、高度成長の経済の負の側面が現れ始めてきた時代でもある。筆者の視線は、そういった懐疑の目の萌芽をいち早く捉えていたという点で優れており、また文化社会や情報化社会といった形で新しい社会のイメージを提示しているという点でも、時代に先駆けていたと思う。その後のバブル消費や無気力世代、情報化社会、今が大事という考え方の浸透など、さまざまに表象を変えながらも生まれてくる、生きがいを否定する生き方の背景にある要因に迫った考察という意味でも、筆者はこの時代に抜きん出た眼力で世の中を見ていたと感じる。

    ただ、それだけではなく、筆者の議論が、人間はエネルギーを持っており、それを何らかの形でつぶしながら生きていかなければいけないのだということを認識していたという点が、より深く印象に残った。無為というと、社会から完全に隠遁し、何もしないという人生を想像しがちであるが、筆者は人間にはおそらくそれは無理であろうと感じていた。そのため、文化活動や何かの役に立つわけではない学問等を行うことを、社会が許容しなくてはならないと考えた。

    エネルギーを何に役立つわけでもない活動に消費することは、無駄であると私たちは考えがちである。しかし、本書で筆者が警鐘しているように、一人ひとりの合目的な人生の積み重ねが社会や地球環境にカタストロフィをもたらしうるというリスクがある。それゆえに筆者は、我々はむしろエネルギーを役に立たない方の消費に使うことを認めることにしなければならないという結論に至ったのではないか。あるいは生態学者として生物の「生き方」を観察し、文化人類学者として世界の様々な文明のあり方を調査する中で、このような「無駄な」エネルギー消費を随所で見つけ、その理由を考えたときに、このような結論を得たのかもしれない。

    無為の生き方を認める際にわれわれの認識に対する最も大きなハードルになるのが、この「エネルギーの無駄遣いを認める」ということなのではないかと思う。このことを考えて行くと「そこまでして無為の暮らしをするべきなのか」という目的論的な悩みが新たに生まれてくる。そして現代では我々が無為の活動のために一生懸命消費するエネルギー自体が経済活動の主要な構成要素にもなっており、さらに地球環境への負荷をかけるまでになっているように思う。

    筆者は持続的な社会や脱成長型の社会を思い描いており、そういった観点から考えれば「無為を極める」とか「役に立たないことを一生懸命やる」という考え方自体が、進歩主義的であり成長志向型なのかもしれない。人間の性向として、役に立つものであれ立たないものであれ、それを追求していくというものがあると思うが、このような発想からも脱却し、常に何か違うものに目線を変えていくような生き方が無為の生き方なのかもしれない。

    そのようなことを考えていると、本書の解説で林雄二郎氏が、梅棹氏は社会に先駆けてさまざまな概念を提唱しているが、社会がその発想に追い付いてきたときにはもうそのひとつ先が見えており、新しいことに関心が移っているということを書かれているのが目に入った。生態学者、文化人類学者、さらには知的生産や情報化社会といった概念を提唱し、家族論や生きがい論についても発言するという筆者の姿自体が、常に移り変わっていくという無為の生き方を表しているように思い、改めて感心をさせられた。

  • 「生きがい」というテーマについて語った講演などをまとめた本です。

    「創造」を至上の価値として走り続けた明治以降の日本をふり返りつつ、老荘思想をヒントに「無為」の生き方に新しい可能性を見ようとしています。

    少し前に、ひたすら前へ向かって走ることを良しとする勝間和代と、そうしたレースについていくことのできない人びとを救おうとする香山リカとの論争が話題になったことがありましたが、著者の議論は、非常にマクロな文明史的観点から人びとの「生きがい」についての考察をおこなっているところが特徴的です。著者の議論と比較すると、勝間・香山両氏とも「生きがい」を個人の問題に閉じ込めてしまうという視野狭窄に陥っているのではないか、という気がしてきます。

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著者プロフィール

1920年、京都府生まれ。民族学、比較文明学。理学博士。京都大学人文科学研究所教授を経て、国立民族学博物館の初代館長に。文化勲章受章。『文明の生態史観』『情報の文明学』『知的生産の技術』など著書多数。

「2023年 『ゴビ砂漠探検記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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