- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061845428
作品紹介・あらすじ
読書はパスティーシュという言葉を知っているか?これはフランス語で模倣作品という意味である。じつは作者清水義範はこの言葉を知らなかった。知らずにパスティーシュしてしまったのだ。なんととんでもない天才ではないか!鬼才野坂昭如をして「とんでもない小説」と言わしめた、とんでもないパスティーシュ作品の数々。
感想・レビュー・書評
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また新しい年がやつてまゐりました。おめでたうございます。
ところで大晦日には、珍しく酒を随分と飲んでしまひ、知らぬ間に寝てしまつたのであります。
家人も起してくれればいいのに、放置されてそのまま年を越すといふ間抜けな事態に陥つたのでした。
食べる予定の蕎麦もそのまま。これを元日に食べるのは切ないものです。ようするに年越しに失敗した男がここにゐるといふ訳。
ついでに言ふと、初夢も気持ち悪いものでした。即ち。
近所の幹線国道を歩いてゐますと、猫の死骸が路上に。車に轢かれたばかりと思はれます。ひよつとしたら息があるかも知れません。しかしあの場所は危険だ。
と思ふ間もなく、高速で突つ込んで来る車。「ぶちゆ」と音をたてて、一瞬で猫はぺちやんこになりました。
あはてて目を逸らしましたが、手遅れでした。「ああ嫌なものを見た」と慨嘆してゐたら目が覚めました。うむ。
そこで正月に相応しい清水義範氏の作品を引つ張り出す。
表題作『蕎麦ときしめん』は名古屋論のパスティーシュと言はれてゐます。東海三県(愛知・岐阜・三重の三県のこと。静岡は含まれない)の人以外には少しハアドルが高いかもしれません。この内容を真に受ける人が出る心配がありますな。一応、鈴木雄一郎なる東京人が書いた名古屋論を清水氏が紹介する、といふ体裁です。
ほかに五篇の短篇が収録されてゐます。中でも『序文』はわたくし好みであります。序文をつなげて小説にしてしまふとは、力業ですね。最後のオチは笑へますが、吉原源三郎氏には同情を禁じえないのであります。
そして、『蕎麦ときしめん』の完結篇(?)、『きしめんの逆襲』では、やうやく探し当てた鈴木雄一郎氏と対面がかなひます。その鈴木氏とは...
とまあ、嫌なことも忘れて、晴れ晴れとする読後の一冊です。名古屋人以外でも愉しめるでせう。たぶん。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-74.html詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
作風・内容ともおもしろい。
論文風などの作風(パスティーシュ)に関しては、
あとがきにある「高名な作家」がわかれば尚楽しめそう。
内容については、表題作『蕎麦ときしめん』が名古屋の特徴を皮肉ってていい。
自分も名古屋周辺民だから伝わるものはある。
ところで、名古屋方言が「地位、身分、性別」で使い分けられるとあるが、
このことを小説で触れるのは珍しい気がした。
結構このあたりを雑にする小説が多い中で、
清水氏の「名古屋地方の言語への造形」(解説より)が垣間見られる。 -
面白いと書いてあったので読みましたが、私には難しかったです。
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2019.04.14 #012
人の書いたものを作者の意見などを交えて書く新たな小説。
名古屋に住んでる名古屋外出身者にはあるあると大いに賛同できる内容だが、もちろん作者は名古屋出身者、タイトルの蕎麦ときしめんの内容については賛同できず否定的。
やっぱり名古屋は田舎の中の都会なのである。
その他の作品も何回か読んで理解できるという不思議なもの。
名古屋人論に興味ある方、どうぞ!
名古屋の人はイライラするでしょうけど(笑) -
東海三県限定の大復刊。
前に読んだ内容、すっかり忘れてたのでちゃんと全部楽しんじゃいましたよ。
これ、生粋の名古屋人が読んでも面白いっていうのかな。聞いてみたい。 -
パスティーシュ小説で一世を風靡した清水義範氏の昭和58年から61年にかけて「小説現代」に掲載された短篇集です。パスティーシュの名を決定づけた「猿蟹の賦」や、ある意味その後の名古屋人論に決定的な影響を与えた「蕎麦ときしめん」等が収められています。
「猿蟹の賦」や「商道をゆく」は、一行読んだだけで司馬遼太郎の模倣だってわかります。「蕎麦ときしめん」は山本七平の模倣ですね。
ある意味、被模倣者への著者の愛情を感じますね。
蕎麦ときしめん◆商道をゆく◆序文◆猿蟹の賦◆三人の雀鬼◆きしめんの逆襲
著者:清水義範(1947-、名古屋市天白区、小説家)
解説:景山民夫(1947-1998、東京、小説家) -
パスティーシュ(パロディ)小説。「商道を行く」、「猿蟹の賦」の2編は司馬遼太郎風の短編で語り口に味がある。
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それっぽさの追求がたんに単語のチョイスや文体にとどまらず文章構造そのものの模倣にまで及んでいる。書き手の思考のプロセスを分析し、それに倣った論理展開を繰り広げつつもデフォルメは欠かさず織り込んでくる力量。
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パスティーシュ作品は初めて読んだが、思っていたよりも面白く、短編がいくつか集まっているものだったので読みやすかった。
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蕎麦ときしめん
清水義範
発行:1989年10月15日
講談社文庫
初出:小説現代1993年11月号~1986年6月号
書名となっている作品を含めた6本の短編小説。6編ともパスティーシュと呼ばれるジャンルの作品。模造作品とも訳されるが、文学ならある文体を真似て書く。パロディの一種。著者は名古屋出身の実力作家だけに、無茶苦茶面白い。2022年の元日にこの1冊、今年は幸先がいい。
『商道をいく』と『猿蟹の賦』は司馬遼太郎風に書かれていることが感じられる。『三人の雀鬼』はおそらく阿佐田哲也風。あとはよく分からないが、あとがきを読むと、特定の作家の文体でなくてもいいようだ。例えば、家電の取説風とか、「推奨されません」「想定外」といった言葉を連発するIT関係者風とか、たぶんそれでもOKのようだ。最初から最後まで、それで通すのか肝腎なのだろう。
『蕎麦ときしめん』(初出:1984年12月号)は、清水という作家(私)が、東京から名古屋に転勤した鈴木雄一郎という人物が名古屋の地域雑誌『しゃちほこ』に発表した論文を紹介し、それを批判する文章。もちろん、全部架空の小説。
鈴木氏は1975年からの6年間の名古屋生活において分析した名古屋人論を展開、難解な名古屋弁を覚えて意識的に歩行速度を落として歩いても、やっぱり東京出身であることがバレて(地下街があるのに地上を歩いていたのでバレた)よそ者を受ける、名古屋ではプライバシー尊重は罪である、などの話を進めていく。
よく言われる道路が広い件でいうと、名古屋人は月給8万円の19歳がクラウンのハードトップに乗るなど国産高級車を所有するのが当たり前のまちであり、もちろんトヨタ以外には乗らず、外車など存在することすら知らない、そんな名古屋だから道路は自動車が走るために存在するわけで、信号で渡りきれない広い道を造るのも当然、などと論をはる。そうなった理由は、濃尾平野が広いため農耕民族でありながら遊んで暮らせ、騎馬民族が乗っている馬に憧れたことだと結びつける。そういえば、織田信長も馬を愛し、夫に名馬を買い与えた山内一豊の妻も名古屋女だ、とも書き添えている。
ただ、名古屋人がこの小説を読んでいると、もっと小さなことに笑え、同意できる。例えば・・・
・東京で活躍している名古屋出身のタレントの名前が挙がったとき、確か名古屋出身でしたね、と誰かがいえば、必ず「××高校だぎゃ」と名古屋人は答える。
・タクシーに乗って中日は強いねえと運転手に言うと、運転手は「あんなもんいかんわ。選手がみんな馬鹿だで」と答える。
劇中の鈴木氏は結論でいう。蕎麦は原則としてざるに乗り、汁から隔離されている。お互いに影響し合うことのない、共存の関係がある。一方、きしめんは全く逆のコンセプトで生み出されたもので、最初から汁にどっぷりつけて、個人が完全に社会の中に埋没している。しかも平べったい麺は表面積が広く、より多く社会という汁にひたれる。蕎麦はアイデンティティーの確立というコンセプトで生まれ、きしめんは個の喪失、社会への埋没で生まれた食べ物である。
『きしめんの逆襲』は、最後に収められている短編で、1985年6月号が初出。『蕎麦ときしめん』の半年後に発表されているが、いわば自己パロディみたいな作品。『蕎麦ときしめん』は鈴木氏の名古屋批判論文への批判として書いたのに、あたかも自分自身が書いたもののように受け取られ、名古屋人から猛烈な批判を浴びているのでそれに対する反論として書かれている形式の小説。社会から脅迫に近い抗議を受ける様子など、その手の物語にありがちなパターンを踏襲したパロディ作品。いまでいう炎上もの。
その中で『蕎麦ときしめん』を清水氏自身が書いた「小説」としているが、『蕎麦ときしめん』は小説ではなく論文への反論文として清水氏が書いたものであり、それを小説として扱っているのは、その清水氏とこの清水氏は同じであってかつ別の清水氏ということになる。その意味で自己パロディであり、しかも最後は鈴木氏も清水氏と同一人物であるというオチまで待っている。
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『商道をゆく』(初出:1984年3月号)
司馬遼太郎風の作品。タイトルは『街道をゆく』を彷彿とさせるが、第1章を「坂の上の星」とするなど、他の作品要素もたくさん入っている。岐阜の山中の貧農に生まれた主人公が、病気に臥した父親に代わって農業をするも、東京に出て五本の指に入る寝具メーカーの社長になるまでを描く。社史を編纂するという形式でそれを展開。戦中戦後のめまぐるしく変化する世の中に翻弄されつつも成功していく主人公。ありがちな物語のなかにユーモアと名古屋弁が冴える作品。
『序文』(初出:1986年6月号)
「英語語源日本語説」という本を出版する際の序文をその筆者自身が書いているのだが、自説である英語の起源は日本語という論が浴びている批判というか、問題外という評価に対して反論する序文となっている。それが改訂版の出版時の序文序文、完全版出版時の序文、全著作集出版時の序文と続き、重ねるごとに徐々に世間で自説が認められ評価されていっている内容を盛り込んでいる。
最後は、文庫版出版の序を他の人が書いているのだが、英語語源日本語説文が完全に否定されたいま、文庫化されることの意義を説くなど、出版文化における権威性へのパロディを感じる短編。
なお、英語語源日本語説とは
ジュースの語源は汁(じゅう)
killは斬る
owe(負う)は負う
sickは疾苦 など
『猿蟹の賦』(初出:1983年11月号)
司馬遼太郎風の猿蟹合戦。猿蟹合戦は伝わる地域によって微妙に内容も違っているそうだが、山梨県の上九一色村のものが有名であるようなことが書かれている。本当だろうか?
小説は佐渡島が舞台のため、佐渡の蟹は辛抱強いから仇討ちなんかしない、みたいなことが書かれていて笑える。
『三人の雀鬼』(初出:1986年1月号)
死んだ叔父(血のつながりはない)の遺品分けを手伝わされることになり、麻雀牌を故人の友人だったある人に渡すことになった。それを届に行くと、その人を含めた70歳以上の老人がいた。みんな死んだ叔父の友人で、よくマージャンをしたという。主人公を含めた4人で打つことになった。レートは1点1銭(箱で300円)で、「大きすぎるかもしれん」「また権利書を取られることになるかもしれん」などと老人たちは言いながら打ち始める。そして、同じことを何度もいうボケた人たちで、積み込みなどのインチキをバレバレの状態でやる。しかし、最後、主人公がそれをしようとすると3人から手首を捕まれて厳しくとがめられる。
阿佐田哲也の『麻雀放浪記』風か。
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