- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061857889
作品紹介・あらすじ
山の崩れの愁いと淋しさ、川の荒れの哀しさは捨てようとして捨てられず、いとおしくさえ思いはじめて…老いて一つの種の芽吹いたままに、訊ね歩いた"崩れ"。桜島、有珠山、常願寺川…瑞々しい感性が捉えた荒廃の山河は切なく胸に迫る。自然の崩壊に己の老いを重ね、生あるものの哀しみを見つめた名編。
感想・レビュー・書評
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読み時が来たと言おうか、読むべくして読んだ。
幸田文さんの独特の言い回しの文章が好きで、文学作品のほとんどを読んでいるのだが未読だったので。(あとがきにもあるが「心がしかむ」「遠慮っぽく」「きたなづくり」「ひよひよと生きている」などなどの表現が好きで)
これは「崩れ」という地球地質的現象を文学的に捉えているエッセイである。
昨年は日本の災害の年だったとは、年末からのスマトラ地震の大、大災害のニュースが続いているので忘れもしない。けれどもそれは珍しいことではないだろう、小さい災害が目白押しにくるのが特徴の日本。
時期も時期そんなときに読んだこのエッセイ、感動ふたつ。
日本の国は大風が吹けば崩れ、地震が来れば崩れという災害。それは地形の特徴という宿命であるというのが諦念を持つのでなく、意識して見てみようとする姿勢の発見がひとつ。
ふたつめ。阿倍川の大谷崩れを偶然見てから圧倒され、、興味を持って専門家ではないのに日本中の崩れを見て歩いて文章にしようとした72歳のエネルギーが、なぜゆえにあったのか?
現代は人間の身体の仕組みは解明された。しかし心の中身は計りがたい。その『心の中にはものの種がぎっしりと詰まっている』のであるからいつ芽吹くかわからん。それが芽を吹いたそうな。
しかも、地球の仕組みとかの専門的な勉強は老骨なので持ち時間も無し、あきらめて分相応の精出しとするという。つまり、『崩壊というこの国の背負っている宿命を語る感動を、見て、聞いて、人に伝えることを願っている。』
そして全国崩れの跡、流れ出す川、崩れる地形、火山を見て歩くことになる。新潟もしっかり入っている。崩れの多いところと言われているという…。
ただ単に描写するだけではなく、含蓄のふかい言葉、洞察の文章であることはもちろんである。
私は文学的に捉えた「崩れ」を読み、なお、災害のむごさを理解した。幸田さんの不安の予感を持った老女(幸田文)がいたというのがもう何十年も前だということ。ひょっとすると預言者ではないのかしらん。いや、文学は常に先見の明があるものなのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者の感受性の鋭さには感心するが、なにせ文体が自分の好みではなく、薄い本ではあるが読むのに苦労した。
日本に住んでいる限り、自然との戦いはこれからも続くだろうし、勝ち負けではなく、どこかで折り合いをつけ共存するしかないのだろう。科学の力は偉大ではあるが、決して万能ではない。 -
70歳を越えた幸田文が山岳地の崩れに興味を持ち、調べ、歩いて書いた随筆集です。
松之山の崩れを見学したものの、それを書くべきか書かざるべきか逡巡するところが特に好きでした。被災した方のそれぞれが抱える一様でない気持ちと、心の動く方向が一様でないからこそ生まれる歪みみたいなものに思いを巡らせているところが、自分だったらこうは考えなかっただろうな、でも考えられるようになりたいものだなと思いました。 -
幸田文ってオタクっぽい人だなあ、と思う。
ひとつのことに夢中になると、どんなに手間がかかっても調べてやり通してみなくては気がすまない。そのせいで周りに迷惑をかけ、みっともない思いをしてもかまわない。
オタクという言葉に語弊があるなら、野生の馬みたいだと言ってもいい。この人はなにか、得体の知れないものにつき動かされて行動している。
1976年、幸田文は山登りがてら、崩れの名所、大谷崩れを見に行った。「崩れ」というのは、なんといっていいのか、山の斜面が土石流などで押し流され、木も草もない、岩っころや赤土がむきだしになってしまっている様。幸田文はそれを見てショックを受ける。
「無惨であり、近づきがたい畏怖があり、しかもいうにいわれぬ悲愁感が沈澱していた。立ちつくして見るほどに、一時の驚きや恐れはおさまっていき、納まるにつれて――いま対面しているこの風景を私はいったい、どうしたらいいのだろう、といって、どうしてみようもないじゃないか――というもたもたした気持が去来した」
この瞬間から、彼女は崩れにとりつかれてしまった。
家に戻り、あちこちに崩れの話をしてみるが、てごたえがない。なんでそんなことに興味を持つのかと不審がられる始末。崩れの荒涼ぶり、不気味さが頭から離れず、とうとう日本全国の崩れを見て歩こうという決心をする。
幸田文は1904年生れ。もう72才になる。それが富士山の大沢崩れを見に登り、飛行機に乗って鹿児島の桜島から北海道の有珠山までルポにでかけるのだ。正気の沙汰ではない。
林野庁や建設省の役所の人の手をわずらわせる。
途中で歩けなくなったからおぶってもらう。
慣れないズボンをはいて胃腸が悪くなる。
娘に愚痴をこぼすと「山より先に、母さまのほうが崩壊しはじめたようね」と言われる。
恥ずかしい。みっともない。それなのになぜ行くのか。
崩れに心を奪われているからだ。気になって気になってしかたがない。幸田文流に言えば「心の中の種が芽をふいてしまったから、もう止まりようがなかった」。そうなのだ、この人の中にはこういう野性があるのだ。
むかし私は幸田文について、古き良き日本人の美意識を伝える人、暮しの達人、いつも居住まいを正し穏やかに日々を送る人、というイメージを持っていた。
しかしいざ読んでみると、人ごみをかきわけて最前列で動物を見たあげく感動のあまり泣いてしまい「ばばあにゃかなわねえ」と言われてしまう人なのだ。(『動物のぞき』)
代表作の『流れる』にしても視点人物の梨花は一頁目から「ま、きたないのなんの、これが芸者屋の玄関か!」と悪態をつく。
私は幸田文を誤解してたんじゃないだろうか、と思うようになった。
それが確信に変ったのがNHKの10分番組「あの人に会いたい」だ。テレビの中で動く幸田文はまあずけずけものを言う人で、下町の世話焼きおばちゃんという感じ。 そこで彼女は「一生きょろきょろしていたい」と言っていた。『崩れ』はまさにそのきょろきょろの結果出来上った本だ。
ここまで読み返していて、幸田文を形容する言葉が「オタク」「野生の馬」「世話焼きおばちゃん」と、てんでばらばらなのに我ながらあきれてしまった。でも居直るわけじゃないが――いややはり居直りなのかな――そのばらばらのお面の、すべてが幸田文なのだと思う。居住まい正した暮しの達人が幸田文なら猪突猛進の世話焼きおばちゃんもまた幸田文。どちらが真でどちらが偽ということもない。『崩れ』にしてもそうだ。都会住みの古人間が大自然におびえる内省録でもあるし、風変りな紀行文でもあるし、土石流の災害を防ぐ「砂防」に携わる人たちに取材した労働讃歌でもあるし、被災者に寄り添う純朴なルポルタージュでもある。なんと言い表してもいい反面、なんと言い表しても取りこぼしているような気がしてくる本だ。
講談社文庫版は娘・青木玉のあとがき、川本三郎の解説、藤本寿彦の年譜、どれをとってもすばらしい。(ただし、文にとって自然とは父露伴だったのではないか、という川本の深読みには賛同できない)
この本は「婦人之友」に連載されたきり、著者の生前には刊行されなかった。
まだあそこにも行きたい、一度行ったところももう一度尋ねなおしたい、という具合に編集者の出版の申し出をこばみ、原稿用紙にメモをぎっしり書き込み、資料はいつでも取り出せるように並べていたという。
一生きょろきょろし続けた幸田文。私はそんな彼女が好きだ。 -
エッセイでも体験記でもなく見てある記。読んでいると本当のことだか本当のことでないんだかわからなくなってくる。ただ事実が人の見たままに書かれていると言うだけでこんなにドラマになるのかというのに驚くし、それだけのドラマをはらんでいる自然をわたしもみたいなあと思う。
あとどうでもいいことだけどこの人の乙女座感(細かさとか、自分で終始しようとするところとか)から、一歩はみでるところが読めたのがよかったとです -
初めて幸田文さんの作品を読む。
幸田さんはどちらかというと
家庭での事を書くイメージが強かったため、
初めて読むには違う作品を読んだ方が
彼女の個性をつかめたかもしれない。
しかし、齢七十を越えてこの鋭い観察眼。
時には自分では歩けないような場所を、
誰かにおぶってもらいながらも、
幸田さんは、崩れた大地や川を
独自の視線と感受性でえぐり取っていく。
いや、えぐり取っていくは
表現が強過ぎるかもしれない。
幸田さんは、怪我をしてしまった大地の傷痕を、
じっと見つめ、自身の心も痛めながら、
どうしたら治癒出来るのか、
その道の専門化ではないがそのために
自分に何か出来ることはないか、
懸命に考えていたのではないかと思える。
この作品を読んでいると、
いかに日本が、いにしえより
自然の意に翻弄されてきた国であったかに
気づかされる。
日本という国の負う宿命について考え、
その地に生きる者としての心がまえについて
教えられる。 -
老いてから崩れに魅せられた幸田露伴の娘・文が訊ね歩いた「崩れ」。
日本三大崩れに有珠山、桜島などを訪れます。
自然や季節を表現する描写が美しいです。
自然の崩壊に自分の老いを重ね、生あるものの哀しみを見つめた作品。 -
著者が日本全国の崩壊地を巡る随筆。
72歳にして、日本の風景に厳然とあり、そして記憶から忘れ去られたようなこの山崩れを尋ね、それを著者独特の目線で、言葉で捉えようとする。
その捉え方は優しい。
自然の冷酷さに嘆きつつ、それに立ち向かう人たちを励まし、暴れる自然に対してけして諦めず愛そうとする。
老女はじっと崩れ落ちる山を見つめる。
そしてわかろうとする。
自分の中のフィルターにこの風景を注ぎ、一杯の茶を淹れるかのように。
お口にあいますかと、微笑みながら読者にさしだす。 -
幸田文さんの文は時代か、難しいものが多い。この本も例外ではない。おそらくもう少し歳を重ねてもう一度読んだ時にちゃんと理解できると思う。