- 講談社 (1988年12月5日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (260ページ) / ISBN・EAN: 9784061960329
作品紹介・あらすじ
亡き戦友への鎮魂の情と典型的夫婦像を描く。苛烈な戦争体験により青春を喪失した男の、漠然としたいらだち。一見専制君主的な夫婦関係を描きながら、男の哀しみ、ニヒリズムを鋭くつきつける長編傑作小説。
海軍予備学生に志願し従軍した牧野の青春は敗戦とともに打ち砕かれた。心は萎えていた──身内に暗い苛立ちを棲みつかせ、世間に背を向け頑なに生きる男。短気で身勝手で、壮烈な暴力をふるう夫に戸惑い反撥しながらも、つき従う妻。典型的な夫婦像を描く作品の底に、亡き戦友への鎮魂の情を潜め、根源的な哀しみを鋭く突きつける傑作。
感想・レビュー・書評
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ずっと読みたかった阿川さんの本作をようやく読めた。
確かに、他の作品とはやや毛色が異なる。もともと阿川さんは女性よりも男性に好まれる作家ではないかと思っていたが、もし女性が本作を読んだらどんな感想を持つだろう・・と思った。
冒頭から妻への暴力の場面で始まる。主人公は女性は家長である男性に従うべきであり、余計な教養を身につけるべきではない、と考える男で、一見、何と前時代的な小説だろう、と思える。しかしこの男性の思想の内容自体が問題ではないのではないか。この人物はいわば内弁慶的な性向があり、そのことを自覚してもいる。
もちろん、主人公が多くの同期が死んでいく中、たまたま生き残ったという感覚をもち、二十代にしてすでに余生を生きるような気持ちで、屈託を抱えていることと、だからと言って家庭内での暴力を正当化することとは別だと思う。全く理由にもなっていない。ただ、あとがきや「春の城」の結末部分にも確かあったと思うが、家父長制的な習慣も、挙国一致的な体制も、戦前はあれだけ当たり前に、もしくは称揚さえされていながら、敗戦後は手のひらを返したように価値観が逆転し、「民主的」になっている世情に反発したいという心情も理解はできる。自身の頑固さとか偏屈さを外では出せないので、「ウチ」ではそれが出てきてしまう。そこまでわかっていながら、抑制ができないから、それでも妻になる女性とうまくやっていけるのか、結婚以前からですらすでに主人公は思い惑っている。
自分自身のことに寄せて考えてみても、私自身妻にもっとこうして欲しいとか気を遣って欲しいとか、直接に言い争うことさえしないが、しょっちゅう周囲に愚痴っていないか。
現代では、夫婦が互いに気を遣って、常に気を揉んで、先回りして思いやることが理想とされていはしないか。そのこと自体は全く正しいが、ただ本作に描かれているように、誰しもが自分の思う理想像を相手に抱いているのであってみれば、それを普段から口に出して相手に求めるか、押し殺して妥協点を探り探り生きていくかの違いでしかないのでは、とも思える。思うに、男女間夫婦間で表現されているが、この主人公は、他者に対して抑制したり妥協したりということがもともとできないのだろう。
この男性は暴力的な言動の後に後悔することもあるし、子どもができればだんだんと可愛いと思う感情も表現されている。苛烈な性格の男を描いているはずだが、決定的に家庭が崩壊しているとか、読み進めるのが辛くなるといったことも、不思議となかった。どこか淡々としているし、語り口に裏表がない。こういった点は、そもそも阿川さんの他の小説にも見受けられると思う。
最後の方に登場した2人の作家は、的外れかもしれないが吉行淳之介と安岡章太郎ではないか?とも思った。この2人が阿川さんのことを理解するとは思えない(?)・・他の2人も、もちろん好きな作家だが、もっと観念的だし、もっと耽美的と言っていいのかなと思う。阿川さんの文章が親しみやすく感じるとしたら、それは、阿川さん個人の実際の人生の延長に全て作品があるような気がするからで、そこからあまり外へ出ていかないのが魅力であるし、一方もしかしたら欠点とも言えるのではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大久保典夫氏が『現代文學と故郷喪失』という超マイナーな本で、阿川弘之氏の「舷燈」について書いている。
大久保氏については、叔父(団塊世代、2024年逝去)からもらった『転位と終末』(明治大学出版研究会、1971)を読んで存在を知った。大久保氏は、他に『革命的ロマン主義者の群れ――殉教と背教の美学』(三省堂新書、1972)という興味深い本も書いている。
さて『現代文學と故郷喪失』の「Ⅲ 現代の作家 素描」において、大久保氏は「阿川弘之・海軍好きだが”自己省察”も」と題して次のように述べる。
<阿川弘之元海軍中尉殿。あなたが山本五十六司令長官戦死の地であるブーゲンビル島に渡り、長官乗機一式陸攻の残骸を持ち帰った話をテレビで視聴しました。(略)あなたが大へんな思いをして、原住民を案内人に雇い密林の中をながいこと歩きづめに歩いて見つけたのですから、そうでないものをそうだと言ったとて、長官の霊もお許し下さるに違いありません。(略)あなたが伝記小説「山本五十六」を書いて、長官最期の場所を確認したくなった純粋な気持はよくわかります。「舷燈」という復員後現在に至るまでの家庭生活をあけすけに描いたあなたの自伝と思しい小説を読むと、あなたが骨の髄まで海軍精神に侵された、ヤマイこうもうの”戦中派”なのはよくわかります。>
というふうに、ほとんど好意的とも受取れる書き出しで始まるが、それに続けて、次のようにトーンが変っていく。
<しかし、自分の一生は復員の日をもって終ったと言いながら、死んでいった戦友をメシのタネに原稿料を稼いでいる点について、あなたが業の深さを少しも感じていないらしいのは、作家として少し感受性が片寄っているのではないでしようか。>
さらに大久保氏はこう続ける。
<あなたが「山本五十六」を書いて新潮社文学賞をもらい数十万部のベストセラーになって大儲けしたから、そのうちのいくらかを寄付でもしたら、と言っているわけではありません。昨年5月「群像」に発表され話題を呼んだ312枚の力作「舷燈」は粗暴でわがままで、甘ったれの善良そのものと言っていいあなたが実によくわかる小説ですが、決して優れた作品ではないのです。主人公の独善的なエゴイストぶりが(つまり亭主関白ぶりが)あなたの師匠の志賀直哉に似ていると言い最近まれに見る爽快な小説だなど推奨する人もいますが、もちろんジョーダンなので、ここには志賀直哉にあった厳しさがまったくありません。どうせ”死にぞこない”だから、なるようになれというのが”戦中派”なんだとあなたは言うでしようが、わたしの言う意味は、文学的言えば”厳密さへの志向”のことで、あなたの小説にそれを求めるとすれば、純粋に自分のためにだけ書かれた最初の長編「春の城」だけでしよう。>
なるほどと思うが、手厳しい評言である。阿川弘之については、ただ1987年に『国を思うて何が悪い: 一自由主義者の憤慨録』という本を書いた人物、という程度しか知らない。何か変だな(滑稽だな)と感じるのは、「国を思うこと」は悪いことではないのに、なぜか阿川弘之は「国を思うて何が悪い」と開き直っていること。怖いGHQの言論統制の時代は遥か遠くに去ったし、また自分の余命も残り少なくなったし、ここら辺でそろそろ、日本のバブル経済の狂騒の勢いに乗って威勢よく言いたいことを言っておこうか、というところだろう。案外阿川氏は気の小さい人なんだなと思う。
お終い
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