桜島・日の果て・幻化 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (398ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061960473

作品紹介・あらすじ

処女作「風宴」の、青春の無為と高貴さの並存する風景。出世作「桜島」の、極限状況下の青春の精緻な心象風景。そして秀作「日の果て」。「桜島」「日の果て」と照応する毎日出版文化賞受賞の「幻化」。無気味で純粋な"生"の旋律を作家・梅崎春生の、戦後日本の文学を代表する作品群。

感想・レビュー・書評

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  • 本のタイトルには無いですが、著者の最初の作品である『風宴』と『桜島』『日の果て』の初期三作品。そして、遺作となった『幻化』を収録。
    『風宴』は学生時代、『桜島』戦中、『幻化』は戦後の著者の体験を交えて書いており、『日の果て』は兄の体験を聞いて創作。共通しているのは、どれも死を扱っていると言うこと。

    『桜島』は「美しくて死にたい」と願っていた主人公が、後半の見張台で語る独白が、とても印象に残る作品です。ただ、高い本なのだから、兵器の名前を知らない人のために注釈は必要だと思う。
    「銀河」は海軍の陸上爆撃機、「回天」は別名人間魚雷と呼ばれる特攻兵器、「震洋」もモーターボートの特攻兵器。ちなみに「銀河」の設計者は、特攻兵器「桜花」を設計したことから、戦後は平和を願い、新幹線0系を設計しています。

    『日の果て』は、脱走兵を扱っている時点で珍しいですが、追っているはずの主人公の移り変わる心理描写と緊迫感がいいですね。絶望的なフィリピン戦線で、このようなこともどこかであったのではと思いました。こちらも地図も注釈もない不親切さです。サンホセやツゲガラオは、手持ちの『玉砕を禁ず』の掲載地図に名前がありますが、肝心のインタアルの場所がよくわかりませんでした。

    『幻化』は、精神を病んだ主人公が病院を抜け出し、戦中に軍務に服した鹿児島に向かう飛行機で隣り合わせになった、妻子を失ったばかりの男との出会いから始まる物語。途中でいろいろな人との出会いの中で、過去の記憶を辿りながら正常と異常の狭間で煩悶する男。ラストは、狂気に苛まれて歩みを進める別の他人を見ながら、その姿を自分に置き換えて自分自身を鼓舞しているようなセリフが印象的でした。

    ところで、精神を病んでいるとはいえ、ガラス製のビンを道端、崖下や防風林に捨てたりしているのは感心しないですね。ガラスビンが風化するのに100万年もかかるとか知らなくても、形状や材質から自然に帰りそうにないことくらい、わかりそうですけどね…

  •  高澤秀次が「戦後日本の論点」で山本七平について論じつつ、結論部で「帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国が、実は「日本国」そのものであった」と述べている。「日本の陸軍はアメリカと戦うつもりはまったくなかった」「日本軍にはフィリピン等を統治するつもりもまったくなかった」なぜなら将校は刀や馬術の訓練をしていたのだから。ジャングルで、刀や馬がなんの役に立つだろう。
     いくら、刀や馬が軍隊としてなんらかの意味や威厳のあるものだとしても、ここまで合理的・戦略的にならなければいけない全面戦争時にも、刀と竹やりで突撃するわけである。
     日本の反戦ドラマでも、よくあることだが、敵の姿は全く描写されない。これは、山本を論じる高澤の「日本軍論」と同じで、つまり、「反戦ドラマ」は「日本軍のやってたこと」とまったく同じであるということだ。山本を論じる高澤の言う通り、日本は戦争をしていないのだ。なぜかわからないが爆弾が降って来て人が死ぬ。日本は、なぜ日本は戦争しているんだと日本に怒っている。どうして原爆を落としたんだと日本に怒る。日本は日本と戦争し、占領しようとしていただけであった。
     梅崎春生の「桜島」「日の果て」「幻化」の三作は、兵隊側の視点から、日本と闘う日本軍を見事に描き切っている。「桜島」における、穴を掘らせる作業の不合理もそうだし、「日の果て」における仲間同士の殺し合いもそうだ。それから、最も印象的なのは「桜島」のここだ。
    ・・・
    「よし!」
     立ち断るように吉良兵曹長はさけんだ。獣のさけぶような声であった。硝子玉のように気味悪く光る瞳を、真正面に私に据えた。
    「おれはな、敵が上陸して来たら、此の軍刀で――」
     片手で烈しく柄頭をたたいた。
    「卑怯未練な奴をひとりひとり切って廻る。村上。片っぱしからそんな奴をたたっ切ってやるぞ。判ったか。村上」
    ・・・
     言葉なしで、具体的な集合時刻も告げない田舎の集会みたいな状態の行き着く果てが、この場面だと思う。「米軍に切りかからんのかい!」と誰もがツッコむだろう。することがない。することがないというのは敵を殺せないということ。また、日本を守れないということ。つまり、日本を占領する日本軍として機能できない。機能できないが、機能し続けるしかない。ならば、味方を殺すしかない。
     「日の果て」も、日本軍が戦っているのは米軍ではなく脱走兵である。餓死と脱走兵ばかりで、敵の姿はない。主人公も、いつ脱走しようか考えている。どうせみんな死ぬのに、「脱走」するとはどういうことだろうか。その極限状態のなかで、味方同士が殺し合う話だ。
     「幻化」は、精神病院から逃げ出した元軍人が阿蘇山まで向かう話だ。幻覚に悩まされつつ、自分はいったい誰にどうしてほしいのかわからないまま、逃げ続け、阿蘇山の火口までたどり着く。そこで、映画のセールスマンを名乗る男と再会し、火口のまわりを散歩しながら賭けをする。
     セールスマンは、僕が火口をぐるっとまわっている間に、僕が火口に飛び込んだら僕の勝ち。もし死なずに戻ってきたらあんたの勝ち、という。いよいよ歩き出すというときに、「自殺するとは言いませんよ」とセールスマンは言う。「火口を一巡りして、自分がどんな気持ちになるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」
     そういって、出発するわけだが、主人公はその歩く姿をはらはらしながら、有料の望遠鏡をのぞきながら見守る。「しっかり歩け。元気出して歩け!」と言いながら、セールスマンを見つめ続ける場面は象徴的で行き着くところまで行き着いて書いている感があってとてもよかった。
     幻化のエピソードとして、福という男が、アルコールをしこたま飲んで海で泳いでおぼれて死ぬ場面が出てくる。自殺するつもりでもないし、生きるつもりでもない。そこに突入したのだ。

     梅崎春生の本著で語られているのは、「戦っているけど生き残れない/脱走しても生き残れない」という状態で「じゃあなんで生きてるの?」ということ。あまりにも大きな歴史の流れの残酷さの中で、「なぜ俺たちはこうしているのか」という状態を書ききったものだ。「幻化」における、火口をまわるサラリーマンもそう。飛行機のまどに油が飛び散るところもそう。「死」がどうしようもなくそこにある時、人は生きているのか死んでいるのか、どちらでもなくなる。どちらでもなくなる場合、どうなるのか。明確な答えはないが、名刺を渡したり、望遠鏡でのぞくぐらいしかできないところまで書いたのは素晴らしい。

  • 『幻化』
    <空気のような狂気>
    全体を通してユーモアなのか狂気なのか明確な線引きを拒む軽妙な語り口ですすんでいく。狂気があまりにも透明で空気のように紛れ込んでくるので、ふとするとわたしたちは知らぬ間にそれを呼吸している。
    しかし知らぬ間に呼吸し得るということは、普段からわたしたちは同じ種類の狂気を呼吸しているということで、彼の語りはその正常と異常とが溶け合ったわたしたちのごく当たり前の世界を、ただ微視的に描き出しているということになるのだろう。

    <おかしさについて>
    「天才と狂気は紙一重」と言うけれど、梅崎春夫の作品を読んでいると「笑いと狂気は紙一重」のほうがしっくりくる。
    おかしさとは笑えるものでもあり、狂っていることでもある。

    <虚無と共にあること>
    作品の最後で、主人公と偶然連れ合うことになったセールスマンは自分が飛び込むかどうかを賭け、阿蘇山の火口の周りをゆっくりと歩いていくのだが、その姿はぽっかりと空いた虚無の口のすぐ隣を、たどたどしい足どりで歩いていくわたしたちの姿そのものに思えた。
    それを見て主人公は「元気をだせ!」と内心声をかけるが、ぐつぐつ煮えだす虚無が消えうせるわけじゃない。その横を荷物を抱え、汗を拭いながらなんとか歩き続けていくことしかできない。主人公も、わたしたちも、皆等し並みに。


  • 解説にある通り、他者に対する観察が非常に正確で、人への親愛を感じた。
    遺作の『幻化』は読んで良かったと思える出色の出来だった。

  •  初期の作品3つと、最後の作品「幻化」が収録されている。「桜島」などつとに有名なものはたぶん高校生の頃読んだと思うのだが、手元になく読み返したかったので買った。
     それにしても講談社文芸文庫は高い。ハードカバー並みに2,000円するものもあり、ちくま学芸文庫よりも更に高い。売れ線でない本を敢えて売っているラインナップは魅力的だけれども、高いのでなかなか手を出せない。異様な高さの代償として、一つ一つの巻末に「作家案内」や「著書目録」が入っているのは、それはそれで意義があるのだが。
     本書の巻頭に収められている「風宴」(1938《昭和13》年)は24歳の頃書いた処女作で、翌年雑誌に掲載された。この作品は良くなかった。文学的表現を振り回しているけれども青年の心情の中身は空洞であり、意匠の乱発の割には読んでいてまとまったゲシュタルトが得られない。文学的意匠が空回りしているのだ。だから、なんだか無意味に気取って書いているようにも感じられてしまう。
     しかし、そのような気取りは次の「桜島」(1946《昭和21》年)ではかなり緩和されている。作者が実際に召兵で赴任した坊津と桜島を舞台とするが、人物や出来事は全くのフィクションだという。戦争における小隊の空気がリアルに描き出されている。本編はやはり、日本の戦争文学として好個の作品と思う。良い。
     続く「日の果て」(1947《昭和22》年)はフィリピンから復員した作者の兄から聞いた話を元にして書いたものらしい。ここでは、戦争で敵兵を殺戮するのでなく、規律から外れた仲間の兵士を命令によって殺害しに行く物語である。非情であらがえない「命令」という理不尽な正義のために、死んでいかなければならない人間の命の弱さが浮かび上がる。これも悪くないが、私は「桜島」の方が気に入った。
     最後の「幻化」(1965《昭和40》年)は50歳で亡くなった梅崎春生最後の作品だが、これが素晴らしい作品だった。精神科病院から逃走し、「桜島」を書いた元となった作者自身の戦争体験やその前の学生時代といった記憶を蘇らせつつ、旅をするという、無意味なようでいて「死」に向かって、それに寄り添ってひたひたと歩み続ける生の空虚感、はかなさなどが読み進めていくとみなぎってきて感動させられた。
     最近私は松本清張や横溝正史など、娯楽系の小説も多く読んできたところだが、本書などを読むと「文学だなあ」と思う。梅崎春生が受賞したのは直木賞の方だが、やはりこの作家は純文学の系列に属している。娯楽的な領域に住んでいるわけではない。
     エンタメ系小説の読書と、純文学系のそれとでは、楽しみの質がやはり違っていると感じる。どちらもすこぶる充実したものであり得るので、全部を楽しんでいきたい。
     梅崎春生はリバイバルの兆しが無く、講談社文芸文庫のラインナップも絶版となっているものがあるようだけれど、もう少し読んでおきたい。

  • 九州で読むにぴったり。戦争が描かれていた。
    いまのわたしと感覚が合う気がするが、当時普通はこういうこと考えられなかっただろうなと想像する。

  • 島で魚釣りをする話?の短編を読んで梅崎春男に興味を持った。この小説では戦争体験が多く、共感しづらい点も多く。ただ、独特な視点からの細かい行動描写、心情描写はさすがでありました。暗い内容が多い様子。

  • 授業のプリントで読んで、すごくおもしろかった ので追加

  • 「風宴」、「桜島」、「日の果て」、「幻化」の四篇。「幻化」は精神的な病をえた主人公が病棟を抜け出し、阿蘇へと彷徨する物語で、その渇いた文体とともに印象に残った。人生は賭けの連続なのだが、その結末は誰にも分からない。

  • 心情の描写がとても緻密で繊細だった。「桜島」や「日の果て」の戦争における中での主人公や環境の息苦しさや理不尽さ、そして「幻化」における「死」にじわじわと向かっていく者の空虚さの表現が素晴らしいと思った。

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著者プロフィール

梅崎春生

一九一五(大正四)年福岡市生まれ。小説家。東京帝国大学国文科卒業前年の三九(昭和十四)年に処女作「風宴」を発表。大学の講義にはほとんど出席せず、卒業論文は十日ほどで一気に書き上げる。四二年陸軍に召集されて対馬重砲隊に赴くが病気のため即日帰郷。四四年には海軍に召集される。復員の直後に書き上げた『桜島』のほか『日の果て』など、戦争体験をもとに人間心理を追求し戦後派作家の代表的存在となる。『ボロ家の春秋』で直木賞、『砂時計』で新潮社文学賞、『狂い凧』で芸術選奨文部大臣賞、『幻化』で毎日出版文化賞。一九六五(昭和四十)年没。

「2022年 『カロや 愛猫作品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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