- Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061960718
作品紹介・あらすじ
新しい言葉の創造によって"時代"が鼓舞される作品、そういう作品を発表し続けて来た文学者・大江健三郎の20代後半の代表的長篇傑作『叫び声』。現代を生きる孤独な青春の"夢"と"挫折"を鋭く追求し、普遍の"青春の意味"と"青春の幻影"を描いた秀作。
感想・レビュー・書評
-
ものすごい作品だった。特に怪物の章は身震いした。よくこんな文章書けるものだ。大江さんしか書けないだろうな。
複雑の想像つかない驚異的な言い回しで笑っちゃう時もあるんだけど、慣れてしまえばこの文章が病み付きになる。
いろんな意見があるかもしれないが、自分は大江さんはノーベル文化賞に抜群にふさわしい方だと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
うわぁぁぁーーーーーっ!
確かに、しっかりと、その「叫び声」を聞いた・・・。
「人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫び声が自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑う」(ジャン=ポール・サルトル)
生臭さと、鋭利さと、ざらつきが一度に迫ってくるような、そんな小説。
エロスとグロテスクとタナトスに彩られ、眉をひそめるような嫌な感覚がびしびし伝わってくるのだが、それがまた生々しくて、小説の状況とは裏腹に活き活きとしていて、とても面白かった。青春群像劇特有の疾走感も良かったのかもしれない。
サルトルの言葉からイマジネーションを受けた大江は、社会から疎外された、僕、呉鷹男、虎の若者3人とダリウス・セルベゾフとの奇妙な同居生活、そして、彼ら共通の夢、レ・ザミ号での航海を目標とするところから端を発して、それぞれが声なき「叫び声」を発するにいたるまでの人間模様を鮮烈に描いている。
希望を打ち砕かれ、閉塞感が漂いながら、しかし、孤立な生き方しかできない若者たち。社会は決して受け入れてくれず、また、社会に馴染もうとせず、最後の居場所として集った若者たち。若者時代に感じたこうした何かを少しでも思い出せれば、彼らの叫び声はまさに真に迫ってくるものとして感じられるだろう。
大江の創作した若者たちはかなり極端である。そして、性的な色を放ち過ぎている。しかし、だからこそ僕らは矮小な自分として、こうした感覚が呼び醒まされてくるのだ。
大江の放つ「言葉」はみずみずしくも研ぎ澄まされている。1960年代という時代に対して、大江自身の「叫び声」として真っ向から対峙し、勝負した作品であったのではないだろうか。 -
発せられる声よりかは内から表出せざるを得ないものだった。黄金の青春を結節点として沈んでいく、その幻影の持つ不安は逃れ難いものだった。恢復を目指して書かれたとされているが、恢復に必要な折り合いの意味であるように思えた。徐々に自分自身の幻影による無意識を意識し始め、新たな存在を獲得していく彼らをみていたがその先にあるのは暗い現実であるが故に、幻影に留まり続けるダリウスを非難できないのだと思った。
-
伊坂幸太郎を筆頭に、絶賛される事の多い本作だが自分はハマらなかった方。
エネルギーを加えて描くべき人物が分散されていていたり、ギトギトした人物の描写が少なく薄口に感じた。 -
大江健三郎は今のところせいぜい10冊かそこらしか読んでいないけれど、個人的には初期の作品のほうが好きだと思うことが多く、20代で書かれたこれもとても良いと思いました。勝手な印象だけど、大江健三郎はやはり結婚→障がいを持った息子の誕生あたりから、私小説的な方向へ転換した気がするので、それ以前の、純粋に小説っぽい作品のほうが自分の好みには合うのかも。
筋書きだけ追えば、疑似家族的な絆で結ばれた4人がバラバラになり、逮捕されたり殺されたり殺して死刑になったり結局何も達成されない悲惨な結末をそれぞれ迎える、それだけの話ではあるのだけれど、『叫び声』というタイトルと、いつの時代も、ここではないどこかへ向かいたがる若者の心理、たとえ向かう先が破滅であっても突っ走るしかない疾走感、焦燥感のようなものが胸に迫ります。 -
「大学構内にある書店で、たまたま『叫び声』を発見した。『叫び声』という題名に、滑稽に喚きつづけるパンクロッカーの切迫感や可愛らしさ、そういうものがあると期待したのではないかな、と思う。家に帰って、さっそく読んだ。そしてすぐに、「あ」と思い、「やばい、いいかも」とにやにやした。確か、出だしのほうで「僕らはその僕らの車を、フランス語風にジャギュアと呼んで、他のすべてのジャガーと区別していた」という文があって、「そういう感覚は馬鹿馬鹿しくていいなぁ」と気に入ってしまったのだ。」
(『3652』伊坂幸太郎エッセイ集 p.61 より) -
結局やめてしまったが、かつて僕も、大学の国文科にいたことがある。
そこには、現代文学のゼミがあって、僕はそのゼミに入った。
その年は、大江健三郎、筒井康隆、井上ひさしなどをやった。
「死者の奢り」と「個人的な体験」をやったのは憶えている。
しかし、その頃大江健三郎の文章は難解で、とても馴染めなかった。
大江健三郎を積極的に読んでみたいと思い始めたのは、50代になってからだと思う。
才能のある人の感覚にたどり着くには、長い時間がかかるのだろう。
「叫び声」はかねてから読みたいと思っていたが、結局、著者の生前には読めなかった。
大江健三郎が高齢なのは知っていたが、同世代の筒井康隆がまだ執筆などしていたので、書けないまでも元気なのだろうと勝手に思っていたのだ。
大江の訃報を聞いて、その追悼のコーナーでこの本を買った。
様々な読み方があるだろう。
作品全体としては、死や強姦殺人、そして最後には外国人との男色が行われる予感で終わっている。
しかし、僕は大江健三郎の時折垣間見せるユーモアのようなものが、好きなのだ。
この作品でも、上流階級の家からラジオを500台集めて、密輸してヨットの資金を調達するなどという現実離れした行動をとる。
主人公が梅毒恐怖症なのも、虎が自慰行為中毒なのも、僕にはユーモアというかギャグのように思えてしまう。
このような読み方は不謹慎で、的外れなのだろうが、そのように読まないと息苦しくなってしまうのだ。
「芽むしり仔撃ち」のような小説が、大江の中では好きである。 -
再読。サルトルの引用文で始まるこの小説、行き場のない青年達の渇望と絶望の犇めきに押し潰されそうだ。ここではないどこかに行きたい。そう、なまじ渇望があるから絶望も比例する。内なる自己の叫び声を聞いてしまった時、最早逃げ場さえも失ってしまう。なんて苦しく悲しい結末。でも私はこの小説が大好きだ。一縷の望みすら断たれ破滅に向かうガラスの心の優しい青年達。叩け、叩き壊してやれ。誰もが健全に前向きに生きられるわけではない。当時の大江の苦しみそのままに生々しい鮮血が行間に滴る。これぞ真正の青春小説。この痛みを忘れるな。