シベリヤ物語 講談社文芸文庫 (講談社文芸文庫 はC 2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (353ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061961258

作品紹介・あらすじ

逃亡兵が闇の中で射殺され横たわる「小さな礼拝堂」。凍てつく酷寒の町に一人出されて道路掃除する「掃除人」。シベリヤの捕虜収容所体験をもつ作家の冷静な眼は、己れを凝視し、大仰な言挙げとは無縁の視座から出会った人々、兵士、ロシヤの民衆の生活を淡々と物語る。「舞踏会」「ナスンボ」「勲章」「犬殺し」等11篇より、人間の赤裸に生きる始原の姿を綴る現代戦争文学の名著。

感想・レビュー・書評

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    先に読んだ『鶴』よりもこちらの方が1年ほど早く刊行されていたので、こちらの『シベリヤ物語』から読むべきだった、と、ちょっと後悔しつつ読み始めたのだが、読み終えた結論から言って『鶴』が先で良かった。
    どうして『鶴』が先でよかったのかと言うと『鶴』の方が良かったからである。

    本を読む時、その作家のどれから読むかというのは案外重要だと思う。
    多くの作品がある作家の場合は特にそうなんじゃないだろうか。
    書き続けている期間が長ければやはり若い頃と年を重ねた頃とでは作品は変わって当然だと思う。時代みたいなものも関係するかもしれない。
    たとえば絵の場合でも作風が変わったりする。ただ、絵の場合、大抵は若い頃にいい作品を描いていなければその後良くなるということはない。作家の場合はどうなのだろう?
    まぁ、とにかく、本の場合、どの本から読むかで、その作家を好きになるか否かというのが決まるように思う。
    好きな作家の作品はすべて読みたいと思うけれど、まぁ読まなくてもいいと思われるものだってある。
    そんな風だから、もしその作家を初めて読む人が「まぁ読まなくてもいいよな」と思う作品や「これはちょっとこの作家らしくないよな」なんていう作品から読んでしまったら、その作家のファンとしてはちょっと残念に思ってしまう。
    ずいぶん前にイタロ・カルヴィーノの『柔らかい月』を読んでいて苦戦していた時、『宿命の交わる城』が読みやすいと助言をしてもらえたおかげでカルヴィーノが好きになったし、エリクソンも『黒い時計の旅』じゃなくて『アムジニアスコープ』から読んでいたら次はなかったと思う。

    と、話が脱線してしまったので、話を長谷川四郎の『シベリヤ物語』へ戻そう。

    『鶴』を読んでいた時もそうだったが、長谷川四郎の小説はどうしてだか止められない。一度読み出すと、ついついうっかり1篇を読み終えてしまい、さらに次の1篇も読みたくなってしまう。サスペンスミステリーのように続きが気になるというのではないのに、何故かずんずんと読んでしまう。不思議である。
    そんな風に入り込んで感動したりするくせに、どんな話か説明しようとすると、その内容はひどく簡素で単純でありきたりのものに要約されてしまう。

    『シベリヤ物語』に収められている話は、そのストーリー自体がひとつの概念や象徴に直結していて、そのせいでストーリーがあるようでない。
    たとえば『小さな礼拝堂』は小さな礼拝堂にまつわる話でありながら実はもっと大きな命題を抱えている。人間の命について、命のあっけなさとたくましさについて、ひいては生きる事について、そういう話だったように私は感じた。直接的にそう言ってはいないが、書かれていなくても私はそういう話だった、と認識している。
    他の話もすべてそういう別の大きなものの話なのである。
    『勲章』は人間の本能やその単純さ愚かさが、最後に収められた『犬殺し』には命を殺めることについてが。
    そしてさらにそこに教訓的な感じだったり、なるほどそうだよなということだったり、うまいこと言うなみたいなことだったりが含まれている。

    『犬殺し』という作品をを最後に収めているというのが、意味深く感じた。
    この作品は長谷川四郎の思いすべてがそのまま詰まったもののように思うのだ。
    犬を殺してしまう捕虜たちの話であるが、そこには命令とはいえそれが当たり前とはいえ戦争に加担してしまった作者の心情がそのままあるように思われるのである。

    ” 誰もが犬を殺して食おうと思ったわけではなかったのだ。しかし、若し誰かが犬を殺して、料理して、出されたなら、それを食べることは辞さなかったのである。だから、若しも私たちの一人が法廷に立って「我は犠牲者にして共犯者にあらず」と言ったとしても、それを信じてはいけない。何故なら私たちは消極的な共犯者なのであって、犠牲者と呼ばれ得るのは犬以外の何者でもなかったのだから。"

    これは作者の戦争に対する本心に思えるし、犠牲者意識の強い日本人への警鐘に聞こえる。
    そして作品はこんな言葉で締めくくられる。

    " 犬の肉の晩餐を食いながら、私たちはまたしても誰かが呟くのを聞いた。
    「俺(おら)ハァ、帰(けえ)ったら橋の下だ」"

    長谷川四郎の作品を読むと、抗えない時代であったとはいえ作者は自分がしたことを懺悔し、それを少しでも償いたいと思いシベリヤに自分から赴いたように思われる。
    しかし、この最後の『犬殺し』を読むと、たとえシベリヤ抑留をしてもその気持ちが慰められることはなかったのだろうと感じる。


    と、ここまで書いて、もう一度本を開いてもう一度思い返してみて、『鶴』の方がよかったというのはやはり撤回することにした。
    文章の素晴しさは『シベリヤ物語』も『鶴』に引けを取らない。
    目につく違いはただ、状景描写に心象を映すのではなくそのまま心情を語る割合が少し多いというだけだ。

    最後の最後に意見を変えるなんてと呆れられるかもしれないが、やはり『鶴』も『シベリヤ物語』も、どちらもそれぞれいい。

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  • 戦後シベリヤでの労働を経験した著者の小説集。

    悲惨なはずだ。悲惨でない要素なんて本当はないんじゃないかって思っているけど、長谷川四郎の人を観る目があまりにクリアで文体も簡素なのでなんとなく「日常」を感じてしまう。

    そこにユーモアまで存在するのがすごいと思った。

    「掃除人」「ラドシュキン」「犬殺し」が特に印象深かった。

    固まった生ゴミや屑のなかから見つけ出したチェーホフの神々しさはすごい。

  • 物語、なんだけど、物語、ではないようだ、と考える。
    感傷を丁寧に丁寧に排除して、その先に見える透徹ななにか、を書いてみせた、そういう文章。うわー、っと感嘆の声を上げたり、ぶわー、っと感動の涙が溢れたり、ということを要求しない、なんとも言いがたい、だからこそ小説にしたのだろう、そこに対しては感嘆も感動も惜しまない。

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著者プロフィール

長谷川 四郎(はせがわ・しろう):1909年、北海道函館生まれ。45年8月よりソ連軍の捕虜となりシベリヤ各地の捕虜収容所でさまざまな労働に従事。50年に帰国。52年に『シベリヤ物語』を筑摩書房より刊行。その後も、小説、詩、翻訳、戯曲、エッセイなど幅の広い執筆活動を行った。他の著書に『鶴』(ちくま文庫、近刊)、『ぼくの伯父さん』(青土社)、『中国服のブレヒト』(みすず書房)など、訳書に『デルスウ・ウザーラ』(平凡社)、『ロルカ詩集』(土曜社)、『カフカ傑作短篇集』(福武文庫)などがある。87年没。

「2024年 『シベリヤ物語 長谷川四郎傑作選』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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