蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061962248

作品紹介・あらすじ

ある時は"コケティッシュ"な女、ある時は赤い三年子の金魚。犀星の理想の"女のひと"の結晶・変幻自在の金魚と老作家の会話で構築する艶やかな超現実主義的小説「蜜のあわれ」。凄絶なガン闘病記「われはうたえどもやぶれかぶれ」、自己の終焉をみつめた遺作詩「老いたるえびのうた」等、犀星の多面的文学世界全てを溶融した鮮やかな達成。生涯最高の活動期ともいうべき晩年の名作5篇を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 斬新どころか突拍子もなくって、でもなんだか微笑ましく、それ以上になんともエロティックな、とても摩訶不思議な幻想小説。

    少女に化ける金魚と、老作家、そして幽霊が織りなす日常を描いた…という設定だけを抜き出してみると、ファンタジーもしくは怪奇小説のようですが、その実、どちらのジャンル分けもしっくり来ず、妙な生々しさと儚い余韻が尾を引く、ある種官能小説的な香り漂う物語。

    状況説明の地の文が一切なくて、登場人物の会話だけで話が進められ、読者の持つ謎は謎のまま置き去りにされる技巧と、少なからず恋慕の関係にある男女にしか存在しない類の会話が折々挟み込まれているせいでそう思うのでしょうか。

    70歳を迎えた老作家のもとに暮らす三歳の「赤子」。
    自分を「あたい」、老作家を「おじさま」と呼んで、彼に纏わりつく彼女は、おじさまが購入して庭の池で飼っている金魚。
    けれど、彼女はどうやら、二十歳くらいの娘の姿に頻繁に化けて、街の歯医者や買い物、おじさまのお仕事の講演会を観に行ったりしている。
    でも、どうやら、二人の会話から類推するに、家にいる時は、小さな金魚の姿のまま、おじさまの身体の上を行き来したり、池に戻ったりしている…もよう。

    二人は赤子が金魚であるというのを自明のこととして常に会話を進めていくけれど、第三者と接する外出中はともかく、家の中での赤子の容姿に関する言及はなく、その時の赤子が金魚型なのか、人型なのか、読者にはまったく知る由もない。
    いや、個人的にはむしろ、金魚型の方が多そうな気がする。

    そんな奇妙な生活の中で、ある幽霊の女が、蜜月関係にある一人と一匹の間に現れて…。

    うーん、この摩訶不思議で奇天烈だけど、吸引力があり、直接の性描写はないのに不思議とスリリングでエロティックな香りあふれる様を、そして、金魚の短命に由来する儚く無常なラストの空気感をどう説明すべきか…とても難しい…。
    まだまだ分析力と語彙力が足りないことを痛感させられます。

    でも、一見甘えたお子様のようで、ませたことを堂々と口に乗せる赤子の妖女ぶりと、赤子に振り回されているようで、その実、人生の酸も甘いも、苦味さえもかみ分けた感のあるおじさまの落ち着きあるキャラ具合が実にいい。
    主要人物の歯切れ良いやりとりのおかげで、とても楽しめる作品です。

    こちらを原作として、大杉漣・二階堂ふみコンビで映画化もされています。
    まだ観たことない映画の評判は残念ながらイマイチのようですが、原作を読むと、俳優二人の持つ雰囲気は、おじさまと赤子をうまく表現して「いそう」な気がして、とても観てみたいですね。

  • 老年の小説家“おじさま”と可愛らしい“金魚”との全篇対話形式で展開する短編『蜜のあわれ』が読みたくて。

    金魚の一挙一動がとにかく可愛いです。
    子供のようなあどけない口調に反して立ち振る舞いは艶っぽく、何気ない会話や仕草が妙に官能的、喜怒哀楽の豊かさはこちらも愉快な気持ちになり、こんな可愛らしい女の子が自分の周りをくるくると舞っていたら…そりゃあ老年のおじさまは夢中にもなるし翻弄されたところで本望でしょうと納得してしまいます。
    生き生きとした光で溢れた“生”と、会話の端々で顔を見せる“死”の対比が美しい表情豊かな一篇でした。

    「おじさまは、何時も、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった。また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん」

  •  「蜜のあわれ」が映画化されていて、女優の姿を読み終わったあとに観たのだが、ほんとそのまんま、イメージ通りで笑った。「陶古の女人」はなんか最後のほうに、誰でも平等に愛しますみたいな男がでてきて、古陶と女人がだんだんと混ざっていく感じが良い。「火の魚」は、魚拓をとる女の、渾身の出来上がり具合までに持っていく話の流れが見事だった。陶器といい、魚拓といい、ものを丁寧に描写するのが凄まじくて、とにかく目にものが浮かぶのだ。室生犀星の凄いのは、解説で「羊羹のように流れている」が取り上げられていたように、描写の見事さだ。「蜜のあわれ」は読み終えたときはそうでもないのだが、読んでいる途中は、「あれ、これって、あのチューハイとかビールのCMに出てくる、壇蜜から淫乱を抜いてちょっとやんちゃで従順で純情な元気いっぱいの女とどこが違うんだろう」と思い始めた。だが、それを思わないようにしたわけだ。それと、こう、ただただ自分を金魚だと思っているメンヘラ芸大生のごとき女をかわいがる話かなと思ったら、幽霊みたいな過去の女が登場してきて、決しておじさまと会おうとしないというところ、大人の女との会話のやりとりなど、面白い。ちょっとホラーテイストになっている。講演会の場面で、路地に逃げてドブ川にどぼんと飛び込んで逃げるところとか、映画のように浮かんだ。が、目的は「われはうたえども やぶれかぶれ」だ。こちらのほうが身近だし、親近感がわく。女を想像しようと思っても、すぐにどっかにいってしまってしまう、苦痛の場面。下の毛をもらいうけようとするところ。看護婦の立ち回りと、最終的な感謝。退院してから、あれほど自由に出入りすることのできた病院への、ちょっとした切なさ。それから宇野浩二が、銭湯でストイックにただひたすら体を丁寧に磨いている描写の場面が滅茶苦茶面白かった。描写としては、緑色の尿という、尿瓶が並ぶところ。いやー、「物描写の神様」という感じ。

    • hotaruさん
      猿川西瓜さん、こんにちは。はじめまして。
      全体を隠しながらもとても分析的なレビューですね。
      「蜜のあわれ」最近読んだのですが、まだ映画を観て...
      猿川西瓜さん、こんにちは。はじめまして。
      全体を隠しながらもとても分析的なレビューですね。
      「蜜のあわれ」最近読んだのですが、まだ映画を観ていないので、観てみたくなりました。
      フォローもありがとうございます。
      これからよろしくお願いします。
      2018/05/27
    • ハタハタさん
      hotaruさま
      こんにちは、お読みいただきありがとうございました。
      室生犀星は描写ですね。目が良い人だなと思います。羊羹は見事だなあ...
      hotaruさま
      こんにちは、お読みいただきありがとうございました。
      室生犀星は描写ですね。目が良い人だなと思います。羊羹は見事だなあと。金沢の記念館にも行きました。
      これからもどうぞよろしくお願いします。コメント、とっても嬉しいです。
      2018/05/28
  • 『蜜のあわれ』はやはり金魚の「あたい」が可愛い。コケティッシュな感じと言えば良いかなぁ。生き生きと動き回る金魚ちゃんと、おじさまと会えない(会わない)幽霊の対比がいい。地の文がない、会話だけで書かれている作品なのに、登場人物がとても生き生き動き回りますね。
    あわせて収録されている『火の魚』は舞台裏話みたいなところもありますが、ここにも強い女性の姿が。
    収録されてるどの作品を読んでも感じられるのは、犀星さん、ホントに女性が好きなんだなあ(いやらしい意味でなく、愛する対象なんだなあ)って事ですね。

    <収録作メモ>
    陶古の女人
    蜜のあわれ
    後記 炎の金魚
    火の魚
    われはうたえどもやぶれかぶれ
    老いたるえびのうた


  • 表題の「密のあわれ」は作者の変態性、というよりかは彼の中の美の哲学を外に出した結果、金魚との対話という形式になった感じがする。
    何はともあれ他では味わえない異質な作品で、とても楽しく読んだ。金魚が可愛い。

  • この金魚との会話、楽しんで書いたんだろうな、と想像してみる。

    “あたい”の口調のテンポのよさに紛れてしまいそうだけれど、会ってもらえない幽霊の手首についた、腕時計をねじり取られた傷跡とか、身につけたハンドバッグの錆びついた留め金なんていう描写を目にすると、冷え冷えしたものを感じる。以前読んだ犀星の「後の日の童子」での、童子の残した足跡に群がるたくさんの“”うじうじ”した馬陸(ヤスデ)という描写もそうだった。

    美しいものを愛した犀星らしいといえばらしいのだけれど、「火の魚」で折見とち子を評するにあたって、“美人ではないためのりこうさ”とか、“美人でないための穴埋め”とか、“美人であるなしをいう相手の批評”とか、くどいくらいに書いていて、笑える。
    個人的には、頭もキレて、手も利く人というのは、もう無条件に尊敬してしまう。死の影を抱いて、いっそう凛として。

    この5月に実父ががんで死んだこともあって、「われはうたえども・・・」はなかなかに身につまされる話だった。
    86歳だったので、世間的に見れば、もう十分生きたでしょうと言われそうだけれど、昨年がんが見つかるまで持病一つない健康エリートだったので、もう十分なんて、本人はこれっぽちも思っていなかった。
    同い年の義理の母も、ちょっと調子が悪いと、どこぞのがんかもしれない、と毎年恒例のように大騒ぎをして検査を受けている。そんな二人を見るにつけ、年をとればとるほど、生への執着は強くなるのかしら、と思っていたので、作中の、
    “八十八歳であっても生きねばならないことに変りはなかろう。五十歳六十歳の小僧っ子から見たら、それだけ永く生きていたら沢山だというかも知れないが、八十八歳の人はまだまだ生きなければ損だと真面目に考えているのだ。生きることに限度はない、永く生きることは予測することの出来ない欲のふかさとも言えるだろう。”
    との言葉に本当にそう、と思う。

    最近の緩和ケア界隈では、スピリチュアル・ペインへの対応も忘れてはならない、というようなことも言われていて、それは確かに忘れてもらっては困ることだけれど、それだって、食う・寝る・出すの安寧が担保されてこそ、の話だな、とつくづく思う。

  • 二階堂ふみも大杉漣の声で再生できた、、
    コケティッシュでおじさまを振り回す赤子ちゃんと余裕のあるおじさま、お似合いだった。
    おじさまのことぞんざいに扱っているようで実は愛していて、ゆり子さんと会わせてあげようとか。でもやはり「惚れた男を自分だけのものにしておきたいのなら、前の女とは会わせようとしないことね、自分でちゃんと抱きしめとかなきゃ。人を好きになるということは愉しいことでございます」

  • 「ある時は“コケティッシュ”な女、ある時は赤い三年子の金魚。犀星の理想の“女ひと”の結晶・変幻自在の金魚と老作家の会話で構築する艶やかな超現実主義的小説「蜜のあわれ」。凄絶なガン闘病記「われはうたえどもやぶれかぶれ」、自己の終焉をみつめた遺作詩「老いたるえびのうた」等、犀星の多面的文学世界全てを溶融した鮮やかな達成。生涯最高の活動期ともいうべき晩年の名作5篇を収録。」

  • なかなかに贅沢でわがままな金魚。でも金魚を飼いたくなる話。蜜のあわれ目当てで借りたので、他の話はちゃんと読めていない。また借りないと。

  • 金沢出身の詩人・小説家である室生犀星の作品集。晩年に書かれた短編5篇+詩1篇(+α)収録。室生犀星はまだ詩集しか読んだことがなかったので、小説作品を読むのは新鮮だった。

    表題作のひとつ「蜜のあわれ」は、70過ぎの老作家と金魚の化身である少女の物語。前編が会話文のみで構成されており、モノローグというものが無い。奔放な少女(17〜20歳くらい? 口調はもっと幼い感じもする)に振り回されつつ受け入れる老先短い作家はどこか、老いた自分のことも、かつての若い自分のことも、両方受け入れられないように見える。

    「われはうたえどもやぶれかぶれ」は、作者の肺癌闘病記。思い通りに動かない体や治療の苦しみを描きつつ、同年代の偏屈な患者と冷戦を繰り広げたり、自分の責任は自分で持つ! それで死んでも仕方ない! と、頑固なんだか投げやりなんだか分からない、作者のちょっとコミカルな性質が見え隠れする。

    収録されている作品は、老いた作者が感じる、かつての自分とのギャップ(特に性的な部分で)と結びついているように感じた。自分では幾つになっても変わっていないように感じても、老いや病気には勝てない。陶器や金魚に女性性を見出す感覚は、共感を呼び起こしつつもどこか寂しい。

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著者プロフィール

詩:詩人・小説家。本名、照道。金沢生まれ。北原白秋・萩原朔太郎らと交わり、抒情詩人として知られた。のち小説に転じ、野性的な人間追及と感覚的描写で一家を成す。「愛の詩集」「幼年時代」「あにいもうと」「杏つ子」など。


「2013年 『児童合唱とピアノのための 生きもののうた』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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