- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061962491
作品紹介・あらすじ
"人間を超えるものの認識なしにこうした歌が読めるであろうか"。式子内親王の三つの「百首歌」、少い贈答歌等への細やかな考察を通し、詩人の特性、女として人としての成長、歌境・表現の深化・醇化を"思うままの作品鑑賞"で綴る。三十一文字に自己の心と想念を添わせ、独創的な視点と豊かな感性で展開する「式子内親王」「永福門院」「いま一章、和歌について」を収録。平林たい子賞受賞。
感想・レビュー・書評
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筑摩書房 日本詩人選
竹西寛子 「 式子内親王 」
内親王の作品解説の本
内親王作品の特性を「透明な複雑さ」「静の中の動」「すべては 途中という時間感覚」「夢の歌人」という表現で示している。このイメージでよむと 歌の理解が進む
内親王の詩境の推移は、人生を幻と見ることから始まり、後白河院の死を契機に、微かに移りゆく自然から秩序を観るに至り、「夢の歌人」として、闇に誘われ 闇に親和する人間への悔いと怖れを 深い夜の夢に託した
見しことも見ぬ 行末もかりそめの枕に浮かぶ まぼろしの中
*まぼろし=幻影〜人生を幻と見た
*見てきた現実も、まだ見てない現実も、かりそめの枕に浮かぶ幻
*まぼろしの中のかりそめ=二重の間接法→非永続性、流動性を強める
*この世の事物の定めのなさ、運動の途中でしかない人生
浮雲を風にまかする 大空の行方も知らぬ果ぞ悲しき
*内親王が多用する「まかす」「行方も知らず」が同時に使われている
斧の柄の朽ちし昔は遠けれど ありしにもあらぬ世をもふるかな
*後白河院の死にちなむ歌
*ありしにもあらぬ世に生きる〜院と死別して 皇女として表明
山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水
*透明な複雑さがひろがり続ける
*「静中の動」としての玉水の動き*水(移りゆく自然)を見ることに徹すれば、世界の秩序を見ることができる
尋ぬべき道こそなけれ人知れず心は馴れて行き返れども
*心は馴れて行き返れども=自分一人の思いの行き返り
*道こそなけれ=逢う手段もないまま、一つの面影にひかれては戻る心
しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき
*深き夜の夢=煩悩の夢、この世の迷い
はかなしや枕さだめぬ うたたねに ほのかにかよふ夢の通い路
*ほのかにかよふ=動の相(静かに動き続けている)
*うたたね=粗雑な目や耳なら気付かない微かな動き
暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長き眠りを思う枕に
*深き夜と静かな暁の対置
*闇に誘われ、闇に親和する人間への悔いと怖れを 深い夜の夢に託した
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永福門院の冷徹な眼差し
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2冊目の読書ノート 1993/9/5~2005/4/30に記載
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二人の歌に接していると、やはり詩というのは、空間の体験を、端的に、直接的に言い表したものであるということが価値になってくると思う。言葉の端的性。言葉を費やすことよりも、的確な言葉を的確な順序で配置すること。その時に、見た情景や、体感が、伝染してくるのが、つまり空間が隔たりを超えて今に再起する。
空間の体験と、それを経験化する『ことば』の的確。そのこが詩の肝だと思う。その意味で、空間の体験もないのに、詩なんて書きようがないことは改めて。
良い詩はシンプルだ。ありありと、克明に風景や、その時の情感がつかめる。
以下引用
見しことも見ぬ生末もかりそめの枕に浮かぶまぼろしの中
窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢
空きよく月さしのぼる山の端にとまりて消ゆる雲のひとむら
きりぎりす声はいづくぞ草もなき白州の庭の秋の夜の月
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
星夕立の雲も残らず空晴れてすだれをのぼる宵の月影
山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水
夕づく日さすや庵の柴の戸にさびしくもあるかひぐらしの声
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
★冴えわびてさむる枕に影見れば霜深き夜の有明の月
寄物陳思
夕立の雲も残らず空晴れてすだれをのぼる宵の月影
さ夜深き軒端の峯に月は入りて暗き檜原に嵐をぞ吹く
はかない存在としての認識の強さに見合うように、物に寄せる姿勢がより徹底して物自体に語らせる姿勢になり、
わが心にもわが言葉にも安んじられなくなった者に残されている道は、そうであれば
入相の声する山の陰暮れて花の木の間に月出でにけり
秋風は軒端の松をしをる夜に月は雲居をどのかにぞ行く
さ夜深き軒端の峯に月は入りて暗き檜原に嵐をぞ聞く
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の陰ぞ壁に消えゆく
鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕暮れ -
千年も昔のひとの詠んだものを読んで、今の(とはいえ、少し昔になりつつあるか)わたし(著者)が何を思うのか、ということを、学術的論考に頼り切らず、かと言って思い込みに浸り過ぎるわけでもなく書かれた文章のバランス感覚、ということを考える。それを今の自分が読むのだ。千年昔の詠いびとも、少し昔の竹西寛子も、それぞれにおしどどめられない正直な感情がところどころに見られるようにも思えて、だからこそ、響きあうのだろうし、その共鳴の中に(勝手で、勉強不足ではあるが)自分自身も加わるような気持ちになることができたと、思う。