- Amazon.co.jp ・本 (526ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061975972
作品紹介・あらすじ
「新約聖書外典」とは、現行の新約聖書の27の文書が正典として成立する過程において、「アポクリファ」として排除され、正典として採用されなかった諸文書をいう。古代におけるキリスト教大衆文学とグノーシス的異端文学の間に位置するこれらの文書は、当時の大衆によって、正典よりもむしろ好んで読まれ、しばしば古代・中世から近代に至る西欧の芸術作品のモチーフともなってきた。
感想・レビュー・書評
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個人的には新約正典より面白いし好きな話が多い、だけどグノーシス主義が反映されていたり思想が弱かったり載らない理由もなんとなく分かってしまう、そんな本。
全体を通して禁欲主義がやたら主張されているのはなぜなんだろう…特に夫婦関係にあった女側が信仰に目覚めて交わることを拒否して男側が怒って…ってパターンが多過ぎないか?
それにしてもこうして見るとグノーシス主義を匂わせるような文書って尽く正典から排除されてたんだなあ…地上の物、肉体に執着しないって主張は通ずるところがあると思うんだけどね
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烏兎の庭 第六部 11.30.20
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto06/diary/d2011.html#1130
ヤコブ原福音書:マリアの少女時代→スルバラン「聖母マリアの少女時代」 -
外典(アポクリファ)とは「正典」に対する異端の書のこと。2世紀前後のヘレニズム世界で書かれたものが多く、大きくは教会が異端思想としたグノーシス主義的なものと、大衆文学的なものがあるそう。
これまでは、ユダヤで成立したキリスト教がローマ世界に伝わって変容した、との理解でしたが、このように文書化されたのはそもそもが後世のローマや小アジアにおいてであり、むしろユダヤでの動きは萌芽であって、「異邦人」側で最終的に完成されたのかということに気づきました。キリスト教絵画によく取り上げられているエピソードも多々あり、興味が深まりました。
ただ結構学術書寄りの構成であり、内容もくどくどしいので、読むのに骨が折れました。 -
もともと、使徒行伝は嫌いだったのだが、本書の行伝で理由に思い至った。
なじょしてこうも、著者はセックスを嫌いのであろうか。
まあ、未婚の男女とか、独身の男女までなら話はわかる。
だけど、夫婦まで? おいまて。
旧約聖書は創世記にも、(セックスに気付いちゃったもんはしゃーねえから楽園は追放すっけど)「ふたりして子供をいっぱいいっぱい産み育てなさいよっ」という話が伝わっている。つまり、浮気はいかんけど、結婚は神聖なものであって、子供を作るのは自然なことというのが本来のスタンスのはずなのだ。
そもそも、結婚した男女が子作りしなかったなら、子孫が絶えてしまうというのは小学生でもわかる道理。
しかし著者がセックスを憎むことはこのうえなく、それはもう執拗に攻撃する。そのためなら使徒は結婚生活を破壊しようが、婚約を破綻させようがおかまいなしなのだ。
勿論、現代の価値観で古代のものを判断する事はできないが、それにしてもなぜここまで! という理由はどこかで知りたいと思う。
ユダ・トマス行伝では、妻が使徒にかぶれてしまったため、最愛の妻と夕食さえ一緒にできない(いかがなものか!?)状態となってしまった貴人が、泣いて妻に懇願するのに妻は知らん顔で逃げちゃうという事態に。
もともと、上から目線な使徒行伝というやつが、前述の通り鼻についていたのだが、こうなるとね~。
しかし、初期キリスト教ではこのような見方があった、ということや、パウロの黙示録にみるような世界観は興味深いものがある。パウロの黙示録は、ダンテの『神曲』の構想が、実にこの時代のものに着想を得ていたのかと思わせる内容。
しかしここでも、執拗なまでに、神を賛美せよ断食せよ節制せよ~、これを怠るとこれこれのひどい罰を受けるぞ(神の裁きは正しいと賛美)、となっており、まあそうまでしなければ初期キリスト教信者を統制する事はできなかったのだろうけれども、罪人を愛し、赦したイエスの教えとはあまりにもかけ離れているのではないかと思えてならない。 -
「ヤコブ原福音書」「トマスによるイエスの幼時物語」「ペテロ福音書」「ニコデモ福音書(ピラト行伝)」「ヨハネ行伝」「ペテロ行伝」「パウロ行伝」「アンデレ行伝」「使徒ユダ・トマスの行伝」「セネカとパウロの往復書簡」「パウロの黙示録」
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収録されているのは、ヤコブ原福音書、トマスによるイエスの幼時物語、ペテロ福音書、ニコデモ福音書(ピラト行伝)、ヨハネ行伝、ペテロ行伝、パウロ行伝(パウロとテクラの行伝)、アンデレ行伝、使徒ユダ・トマスの行伝、セネカとパウロの往復書簡、パウロの黙示録。正統的聖書に採用されなかった文書という括りでも、その内容は物語的要素の濃いものからグノーシス主義の影響を受けているものまで多岐にわたる。キリスト教発展の過程で人々の宗教心がどのように形作られてきたのか、その振幅を感じることができる。
以下、興味深かった外伝についてのメモ。
ペテロ行伝
福音をつたえる使徒たちの中でも指導的な立場だったペテロの活躍を描く。 180-190年頃にローマか小アジアで成立したらしく、また全体の1/3程度が失われているらしい。 残存部分は、ペテロがローマに向けて旅立つあたりから。 主なテーマは、魔術師シモンとの対決と、ペテロの殉教である。 難を逃れるためローマを離れようとしたペテロの前にイエスが現れ、「クオ・ワディス・ドミネ(主よ、何処へ)」と尋ねるパウロに、「もう一度十字架に掛けられるため、ローマへ行く」と答える場面が有名。 その後ペテロはローマに引き返し、自ら望んで逆さに十字架に掛けられる。
パウロの黙示録
パウロが天国と地獄を巡る。内容はごく一般的な旧約的世界観を反映している。 -
いわゆる正典というのと比べると、えげつない話が多いような。
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-内容- 「新約聖書外典」とは、現行の新約聖書の27の文書が正典として成立する過程において、「アポクリファ」として排除され、正典として採用されなかった諸文書をいう。古代におけるキリスト教大衆文学とグノーシス的異端文学の間に位置するこれらの文書は、当時の大衆によって、正典よりもむしろ好んで読まれ、しばしば古代・中世から近代に至る西欧の芸術作品のモチーフともなってきた。
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もともと73年に講談社から刊行された「聖書の世界・別巻」のうちのひとつに収録されていたものに97年、内容の一部に修正・増補を加えて文庫版で再刊されたものであります。
箱入り初版が刊行された当時、トマス福音書など、面白おかしく読んでは、友人たちとああでもないこうでもないと言い合った思い出もある。
著者は田川氏とは犬猿の仲(?)の荒井 献。
そもそも、外典とか偽典とかいう言い方がキライではある。
意見が違って、のけ者にした連中が書き残したものが、おおかた焼き捨てたりして抹殺したにも係らず書き写されて後世に残ってしまったので、仕方なく「外典」などと呼んでるのだ。
正典も外典も、同時代(2〜3百年の幅はあるが)の人々の感覚を知る上で貴重であるよ。