日本三文オペラ: 武田麟太郎作品選 (講談社文芸文庫 たU 1)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061982192

作品紹介・あらすじ

後年は風俗小説「銀座八丁」を書いたプロレタリア作家の初期権力との格闘を示す伏字××のある小説「暴力」収録。その後浅草のアパートを舞台に庶民男女の哀歓を活写した「日本三文オペラ」や「市井事」「一の酉」「井原西鶴」と、「川端康成小論」「西鶴町人物雑感」「好色の戒め」等の評論を併録。強靱な散文精神で戦前戦中の激動時代を疾駆した作家武田麟太郎(明治三十七年‐昭和二十一年)の精髄を一冊に凝縮。

感想・レビュー・書評

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    ── 武田 麟太郎《日本三文オペラ 1932‥‥ 20000701 講談社文芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4061982192
     
    (20231128)

  •  武田麟太郎は1904年に大阪府大阪市南区日本橋筋東一丁目で生まれた。長町裏と呼ばれる、大坂の貧民窟として有名な場所だ。
     作品よりも、それからこの文庫に収められた川西政明の解説よりも、父・左二郎が凄い。大坂で人力車夫だった父は、大変な勉強家で、弁護士を目指して学問を積んで、巡査となり、関西大学の前進である学校に夜学で通い、警視に昇格。最後は堺警察署長まで上り詰めた叩き上げだ。そんな父の姿を見て、麟太郎にももちろん立身出世欲があり、遊びまくっているというエッセイを書きつつも(京都学校)、東大文学部に入学する。庶民との共生を考えつつも、ドロと土くさいものを書きつつ、小野十三郎と似た大坂らしいものを出しつつ、エリート中のエリートであった。

     織田作之助が「武田麟太郎追悼」で「不死身の麟太郎だが、しかしあくまで都会人で、寂しがりやで、感傷的なまでに正義家で、リアリストのくせに理想家で」と語っていた。こういう人物は組織に馴染まない。
     最初はプロレタリア文学作家だったが、彼は理論や方針におさまるような人間ではなく、プロレタリア陣営を脱して庶民の生活を舞台に小説を書いていく。
     「日本三文オペラ」の、群像喜劇(だが笑えるところなんてなく、悲惨で笑うしかないという感じ。最後にストライキで惨敗した責任者が睡眠薬の量を間違えて死ぬ部分とかも皮肉を通り越して鬱)や「市井事」の私小説としての面白さ(時計ばかりみていたの終わり方が良い。一番好き。三文オペラと同じくここでも運動が敗北したり分裂したりする様が書かれている)、「一の酉」の客商売する女の強い生き様とどぎつさ、どうしようもなさ。貧しい人は貧しいままだし、どうしようもない光景ばかりなのだが、そんな中での人々の生活模様が、昔読んだプロレタリア文学よりも埃っぽく、臭く、そしてなによりスピーディーに伝わってくる。文章のペースが速いように感じる。酒飲みだからだろうか。

     1933年、29歳の武田は林房雄を誘い、文芸同人雑誌を出す計画を立てる。林は小林秀雄や川端康成を誘い、「文学界」を創刊する。武田はプロレタリア転向組と芸術派の連合統一戦線の構想をしていた。あの「文学界」のエネルギーは武田麟太郎からはじまったのだ。その連合の中に人民戦線路線として反ファシズムをやろうと統一しようとしたのだが、武田の理想主義は、林房雄の日本主義としての現実路線にやぶれ、主導権を奪われる形で、彼は人民文庫を創刊することとなる。が、官警の圧迫で廃刊。莫大な借金を背負い、世話をしていた大宅壮一が陸軍宣伝班に武田を加える。
     文学のエネルギーを身体のエネルギーに変えて、ジャワの解放と独立の夢を武田は追いかけた。アジア解放の大義をかかげて、独立万歳のポスターやインドネシアの芸能団を組織し、活動しまくった。もちろん放蕩三昧もしていたらしい。が、日本は敗れた。
    「ああ、俗悪なる――」のエッセイにあるように、1946年3月31日、敗戦後の日本を受け入れられず、メチルアルコールの飲み過ぎか、絶望して、荒れ狂って死ぬ。
     収録されていないが、「釜ヶ先」も青空文庫で読んだ。女装男とか出てくると、飲み歩いたあの日をリアルに思い出す。色んな人がいるのだが、あそこでは「政治と宗教と哲学・思想の話は他人に聞こえる声で話してはいけない」と言っておこう。こっそり話すならいい。絶対にからまれる。飲み屋でぶっ殺すぞとからまれたことがある。ちなみに絡んできたのは、若いバックパッカーのような男で、お金は持ってそうだった。たぶん、どこかで何かの思想を埋め込まれて、アナーキーな生活をあえて営む根性だめし青年だろう。一歩間違えればピースボートに参加してそうな感じだ。
     その時はたまたま仲間の中に根性のあるやつがいて、ビール瓶もって、「てめーこそぶちころすぞ」と反論してくれたのでありがたかった。(その彼は某日本を代表する大企業の技術者。いまはいいとこの公務員)
     西成の食事は私には合わず、帰宅後真っ赤なゲロを吐いた。なぜ真っ赤かというと臓物にたっぷりとうがらしをかけまくって食ったからだ。
     あと、殺すぞと言われるまえの店で、すが秀実の詩的モダニティの時代に書いてあったことを仲間と述べていると、「そんな柄谷みたいなこといわんと」と、腹の出た気持ちの悪いおっさんが、遠くから早口で絡んできた。この界隈に潜伏しているインテリで、いったい何ものかわからない。
     とにかく、生きてるだけで必死という空気なのだ。心がざわめくような話題はやめたほうがいい。心の闇が空間として存在している感じだ。
     武田はそんな彼らとどんな対話や観察をしたのだろうかと考えれば、別にそんなに苦労はいらなかっただろう。そこに触れないように、うまいことやる、大坂人なのだから。うまいことやれへんだ、それは大坂人としては失格なのだ。主義主張や浪花節とかどうでもええ、うまいことやれるかやれんか。それや。で、武田は人としてうまいことやれる人だったろうが、時代としてうまいことはやれなかった。終わった途端、すぐにアメリカ民主主義の旗を振って、憲法の素晴らしさを説いてまわる活動家にはなれなかった。どうしてなれなかったのかとことん考えることは、私にとって課題だし、大げさに言えば安倍晋三的日本の課題でもあるのだろうと思ったりもする。

  • 時代に叛逆し、伏字×××で暴力を謳った小説たちは精神そのものを銃撃し攻撃した。攻撃し戦争を叫んだ彼の残された原稿こそが時代の敗北を象徴し現代に連続しているその心を召喚したのだ。さようなら武田、あの世で笑ってくれ。仲間たちとともに。書き続けてくれ、世界のあり方と検閲の×××を。

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著者プロフィール

1904年、大阪市に生まれる。
第三高等学校卒業、東京帝国大学文学部退学。
同人誌『真昼』を経て、1929年、「兇器」でデビュー。
プロレタリア文学者として活躍するが、やがて「市井事もの」と呼ばれる作風に活路を見いだす。36年、雑誌『人民文庫』を創刊し、反ファシズム文化戦線の後退戦を担う。41年、報道班員としてジャワ島に従軍。敗戦直後の46年、藤沢市に没する。

主な小説集に、『暴力』『反逆の呂律』『釜ヶ崎』『銀座八丁』『下界の眺め』『市井事』『大凶の籤』『雪の話』など多数。エッセイ集に『好色の戒め』『世間ばなし』『市井談義』がある。

「2021年 『蔓延する東京 都市底辺作品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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