南回帰線 (講談社文芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061982451

作品紹介・あらすじ

クリスマスの翌日の12月26日に生まれてしまった"遅れてきたキリスト"のぼくは29歳、ニューヨークで電信会社の雇用主任の職につく。ぼくは"卵巣の市電"という固定観念にとりつかれ、人間実存の根元を探るべく混沌とした性の世界を彷徨する。"20世紀最大の危険な巨人"と呼ばれたミラーが1939年パリで刊行した自伝的作品。

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  • 「ぼくは孤独だったことがない、とりわけ自分ひとりでいるときは。ぼくはどんなときでも、だれかにつきそわれているような気がした――ぼくは大きなチーズの(というのは世界のことになるだろう、特にあらたまって考えてみたことはないが)、小さなかけらのようなものだった。だが、自分だけで生きているのでないことはわかっていたし、いわばぼく自身を大きなチーズだと考えたことは一度もなかった。そのため、みじめだったり、ぐちをこぼしたかったり、泣きたい気持ちのときでさえ、ぼくは世界に共通な、普遍的なみじめさを味わっているような錯覚を覚えたものだ。ぼくのすすり泣くとき、全世界がすすり泣いている――と思ったのだ。だが、ぼくはめったに泣かなかった。たいていいつもしあわせで、よく笑い、楽しくやっていた。ぼくが楽しくやっていたのは、すぐに述べたように、まるきりどんなことにも執着しなかったからだ。物事がうまく行かないときには、ぼくに限らずどこでもうまく行ってないのだと信じて疑わなかった」

    「十セント恵んでくれと言われれば五十セントくれてやり、一ドルを無心されれば五ドルくれてやった。いくらくれてやろうが屁とも思わなかった、あわれな奴らを拒絶するよりは、借りた金でもくれてやるほうが楽だったからだ。ともかくこれまで、これほどみじめったらしい連中の集まりは見たことがなかったし、もう二度と見たいと思わなかった。人間はどこでも貧しかった――昔から貧しかったし、今後も貧しさに変わりはないだろう。だが、おそのおそろしい貧困の底には火が燃えていた。おおむねほとんど目にもつかぬ小さな炎だったが、まぎれもなく火はそこに燃え、息を吹き付ける勇気さえあれば、大きく燃え上がらすこともできた。あまり甘やかすな、涙もろくなるな、仏ごころをだしすぎるな、とぼくは年じゅう言われていた。ぐらつくな! きびしくやれ! とのご忠告だ。くそっ、勝手にしやがれ! おれは気前よく、いいなりになってやり、許しと寛容と思いやりに徹してやるんだ――とぼくは腹の中で思った」

    「実在の根源から感じるためには、憐みを超越せねばならない。《事実》で新しい天地を創ることはできない。およそこの世に《事実》などあろうはずがなく――あるのはただ、地上のあらゆる場所のあらゆる人間が、神の定めへとそれぞれの道を歩いているという事実だけである。遠い道を辿るものもあれば、近い道を行くものもある。だれもがそれぞれなりに運命を切り拓いており、親切と寛容と忍耐強さ以外、他人から得られるものはない」

    「まい朝プラットフォームに立っていた阿呆なドアの開閉係、新聞に読みふけっているこれまた阿呆な乗客たち、そそり立つ新しい摩天楼群、その中で働きその中で死ぬための新しい墓場、眼下を行き交ういくつもの船、フォール・リバー汽船会社、オールバニー・デイ汽船会社、なぜおれは働きに出るのだろう? 今夜おれは何をしたものだろう? ぼくの横に横たわる暖かい女陰、はたしてこの拳骨を女の股倉にねじこめるものだろうか? ここを逃げ出し、カウボーイにでもなったものだろうか? アラスカへ行ってみるのだ、金鉱へ行くのだ、電車をおりて引き返すのだ、まだ死んではいけない。もう一日待つのだ、運が向いてくるかもしれないぞ、河よ、おれの命を奪うがいい、落ちる、落ちる、コルク抜きのようにらせん状に、頭と肩は泥の中、両脚だけが自由だ、魚たちがやってきて食いつくだろう、あすは新しい人生のはじまりだ、だがどこで? どこででもいい、なぜまたはじめるのだ? どこへ行こうが同じことなのだ、死、死が解決してくれる、だがまだ死ぬな、もう一日待つのだ、運が向いてくる、新しい顔、新しい友人、無数のチャンス、おまえはまだ若すぎる、おまえはふさぎこんでいるだけだ、まだ死んではいけない、もう一日待つがいい、運が向いてくるだろう」

    「もしぼくが破壊を望んでいたとすれば、それはこの目を消してしまいたかったからにすぎない。ぼくはこの灯台を海の中へ叩き込んでくれる地震を、大自然の激変を、待ち望んでいた。ぼくは変身を、魚か巨大な海獣か破壊者かへの変化を願っていた、ぼくは大地が裂け、すべてをぱっくりひと呑みにしてくれることを願っていた。この都会が海原の奥深く埋められるのを見たかった。洞穴にすわり、蝋燭の明かりをたよりに本を読みたかった。ぼく自身の身体を知り、ぼく自身の欲望を知る機会が得られるよう、ぼくはあの目が消されることを願っていた。これまで自分が見聞きしてきたことをふり返り――そしてそれらを忘れるために――千年ものあいだ一人でいたかった。人間の手にかかっていない大地の何かを、すでに食傷気味の人間なるものから完全に絶縁した何かを、求めていた。純粋にこの地上のものでありながら、完全に地上的な意識を払拭したものが欲しかったのだ。たとえ死の危険があろうと、この血管に血液の逆流してくるのを感じたかった。ぼくの身体から石と光をふるい落としたかった。大自然の神秘的な生産力を、子宮の深い井戸を、沈黙を――さもなくば岸を洗うかぐろい死の川を、求めていた。仮借ない目に照らし出されたあの夜に、星屑と尾を曳く彗星に飾られた夜に、なりたかった。おそろしいほど静まり返り、まったく不可解であると同時に雄弁な夜に、なってしまいたかったのだ。もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を保ち、大地そのもののように無情に徹するのだ」

    「ぼくらは女と握手をして、右と左に別れた。ぼくは別れるとすぐに女のことは忘れ、涼しい川の方へ足を向けた。そして桟橋の端にすわり、横梁に垂らした脚をぶらぶらゆすった。赤煉瓦を満載した平底船が通りすぎた。ふととつぜん、モニカのことが胸に浮んできた。遺骸といっしょに、グランド・セントラル駅に着いたはずのモニカ。客車積み込みニューヨーク渡しの遺骸ときたか! 何ともとっぴでおかしく、ぼくは大声で笑い出してしまった」

    「そしてこの夢は、放心のうろ穴に見られる黒い狂熱の虚無の中に、暗い飽和した絶望感を、死による生との絶妙な断絶という、おめでたい幼児の気まぐれにすぎぬ上っつらだけの幻滅感を、残してゆく。この倒錯した恍惚感の尖峰から、生命はふたたび散文的な摩天楼の高みにのぼり、途方もない空虚な喜びに酔いしれたぼくの髪と歯をつかんで引きずり、いまだ生まれざる死のうじ虫の生き生きとした胎児たちは、ぼくが朽ち果て腐りきるのをじっと待ち受けているのだ」

    「街角の街灯の下で、カーリーが待っていた。もうぼくは、どうにもこらえきれなくなっていた。カーリーの腕をつかみ、通りを駆け出しながら、ぼくは笑いはじめた――こんなに笑ったことはないくらい、笑いに笑いころげた。このまま止まらなくなるのではないかとさえ思った。口をあけ、先ほどの一件を説明しようとするたびに、笑の発作がこみ上げてくる。おしまいにはおそろしくなってきた。笑い死にするのではないかと思ったのだ。そのうち、ようやくいくらか落ち着いてきたとき、長い沈黙を破って、カーリーがいきなり話しかけてきた――『うまく取れたんですか、例のものは?』 これがきっかけで、先ほどよりももっとひどい発作がはじまった。とうとうぼくは柵によりかかり、腹を押えていなければならなかった。下腹がひどく痛んだが、それはこころよい痛みだった」

    「ふたたびダンスホールへ。金の奏でるリズム、ラジオから流れ出る愛、翼を持たぬ群衆の非人格的な感触。靴の底までしみ通る絶望、倦怠、自暴自棄。最高度の機械的完成のまっただ中にあって、喜びもなく踊り、絶望的な孤独にひたり、人間なるが故にほとんど非人間的とならざるを得ぬものたち。もし月の世界に生活があったとしても、ここ以上にわびしい生活の確証があり得ようか? もし太陽より遠ざかることが、月世界の冷たい虚無状態に近づくことであるならば、われわれはすでにして目標に到達していえると言えよう。われわれの生活は、太陽光を反射する月の冷たい白熱光にすぎないのだ。これこそ原子の空洞内にくりひろげられる、氷のように冷たい生命の踊りであり、踊れば踊るほど、われわれは冷えきってゆくのだ」

    「あの夏がぼくにとってあれほど忘れがたいものになったのは、おそらくそのためだったのだろう。それは暗黙のうちに下された、完全な赦罪の夏だった」

    「ぼくは自分のものであったことのない世界に、自分を順応させてきた。ぼくはこの拡大された世界を突き破り、こんな蒼ざめた一面的な世界などは闇の中へ投げ込んでしまえる、未知なる世界の辺境に立ってみたい。父親としての責任の彼方へ逃れ、強制されることも、口車に乗せ籠絡されることも、買収されることも、中傷されることもない無政府主義的人間の無責任さにひたりたい。黒い翼をひろげ、過去の美と恐怖をともども掃きさらうという覆面の騎士オベロンを、道案内としてつれて行きたい。自責や悔恨や懺悔の余地もないほど迅速に、苛酷に、永遠の夜明けに向けて逃れ去りたい。たとえ最強の翼をもってしても飛び越えることのできぬ深淵の前にふたたび立たんがため、ぼくは地球にとって災いのもとである発明の才にたけた人間を追い抜きたいのだ。たとえ怠惰な夢想家どもしか住まぬ自然のままの荒れた公園になろうとも、ぼくは責任のあるおとなの生活という愚かな秩序の中にとどまることは許されないのだ」

    「すでに日は暮れていた。砂漠のはじまる町はずれに立ったぼくは、ばかみたいに泣きじゃくった。こうやって泣いているぼくは、いったいどのぼくなのだろう? むろんそれは、ブルックリンで芽を出しはじめた新しい小さなぼくであり、いま広大な砂漠のまっただ中で朽ち果てようとしているぼくであった。ロイ・ハミルトンよ、ぼくはきみにいてほしい! ほんの一瞬、ほんのわずかな一瞬でいい、ぼくがばらばらに崩れるあいだだけいてほしいのだ。これまで自分のやってきたことをやりとげるだけの力のないぼくには、きみが必要なのだ。たしかきみはぼくに、こんな旅行をする必要はないが、どうしても行きたいなら行くさ、と言ってくれなかったか? なぜもっとぼくを説得し、行くなと言ってくれなかったのだ? ああ、だが、説得は彼のよくするところではなく、また助言を求めるようなぼくでもなかった。したがって、ぼくは砂漠のまん中で破綻に瀕し、現実の橋は背後に、行く手には非現実的なもののみが待ち受けていた。たとえようもない混乱と当惑のどん底にあったぼくは、このまま地中に沈み姿を消してしまえるものなら、喜んでそうしたい気持ちだった」

    「顔の中では分厚い唇だけが生気をおび、静かな大洋の表面でうたた寝をしている鮫の鰓のように見えた。夢にも風にも邪魔されることなく、気まぐれを起こすことも、満たされぬ欲望に悩むこともなく、大洋のふところに抱かれ、父は安らかにいびきをかきつづけていた。ひとたび目を閉じ眠りこむと、世の光は消え、父はただひとり誕生前の世界に、微塵に砕けつつある宇宙の人となった。鯨の腹の中にすわったヨナのように、彼は安楽椅子にすわり、最後の避難所である黒い穴の中に身を隠し、何ものも期待せず何ものも欲せず、死せずしてただ生きながら埋められ、無傷のままそっくり呑みこまれ、虚空の白い息を吸ったり吐いたりするたび、分厚い唇だけをゆっくりと動かしていた。彼はカインとアベルを探し求め、眠りの国にあったが、ただひとりの人間にも、一つの言葉にも、一つの合図にも出くわさなかった。ただ鯨とともに進み、氷のような暗い海底をかすめ、深海動物のたなびくたてがみに導かれ、全速力で無限の距離を疾駆していた。彼は煙突からくねりのぼる煙、月を曇らせる厚い雲の層、深海のぬらぬらするリノリウム床を作っている厚い軟泥だった。空虚に生きているがゆえ死者よりもさらに死に絶え、光と空間の限界を飛び越え、無の暗黒の洞穴に安住してしまったがゆえ、もはや復活の望みはまったく失われていた。父は憐みよりも羨みをもって見られるべきだった――なぜなら、彼の眠りは休息や休止ではなく、深海のごとき眠りそのものであり、したがってしだいに深まり行く眠り、眠りつつさらに深く深く沈み行く眠り、完全に眠りつづける深海の底でもっとも深い眠りにひたった深い淵の眠り、眠りの持つ甘い眠りのもっとも深くもっとも眠りこけた眠りだったからだ」

    「ぼくの中にはいくつものメガホンがあり、それが『さあ行け、歩きつづけろ、こらえるんだ』などと、たわ言をわめきつづける。だが、なぜなのだ? 何の目的のために? どこへ? どこから? ぼくは目覚まし時計を合わせる、ある時刻に起きて活動するために。ダガ、ナゼ起キテ活動スルノダ? そもそも、なぜ起きなければならないのだ? 例のスコップを手に、ぼくはガレー船の奴隷のように働いていたが、報酬を受けるあてはまったくなかった。もしこのまま掘りつづければ、これまでだれも掘ったことがないほど深い穴が掘れていただろう。だが一方、もし本当に地球の裏側へ行きたいのなら、スコップなど放り出し、中国行きの飛行機に乗り込んだほうが手っ取り早かったのではないか? しかし、肉体というやつはきまって精神のあとからついてくるものだ。肉体にとってもっとも簡単なことが、必ずしも精神にとってもそうであるとはかぎらない。そして、ことのほか厄介で始末に困るのは、この二つが正反対の方向に走り出すときだ」

    「ぼくの身体は軽く、羽毛のように軽くなり、それにつれぼくの足取りもしだいに着実に、落ち着き、規則的になってくる。何という美しい夜だろう! 星は限りなく明るく、静かに、遠く輝いている。ぼくをあざ笑っているわけではない、すべてのもののむなしさをわからせようとしているのだ。若者よ、地球のことを語り、すべてをこっぱみじんに爆破するなどうそぶいているきみは、何者だね? 若者よ、われわれはもう何百万年、何十億年も、こうして空にかかっているのだ。われわれはすべてを、あらゆるものを見てきた、だが依然として夜ごとに平和に輝き、道を照らし、人の心をなごめている。若者よ、きみのまわりを見まわしてみたまえ、すべてがいかに静かで美しいかをきみの目でみてみたまえ。そら、どぶにつまった台所屑でさえ、この光の中では美しく見えるだろう。小さなキャベツの葉を拾い上げ、そっと手の中に握ってみるがいい。……ぼくはかがみこみ、どぶの中に落ちていたキャベツの葉を手に取ってみた。それはぼくにはまったく新しいものに見え、それ自体が、全宇宙のように思えた。ぼくはその一部をちぎり、しげしげと眺めてみた。それもやはり宇宙だった。依然、えも言えぬ美しさと神秘がそこにはあった。もう一度どぶの中へ投げこむのがためらわれるくらいだった。ぼくはかがみこみ、ほかの屑のかたわらにそれをそっと置いた。ぼくはすっかり考えこみ、たとえようもなく静かな気持ちになった。ぼくは世界じゅうの人間を愛しはじめた。今この瞬間、世界のどこかにぼくを待っている女性がいること、そしてもしぼくがごく静かに、ごく穏やかに、ごくゆっくりと進みさえすれば、その女性に会えるであろうことをぼくは知っていた。彼女はおそらく街角に立っており、ぼくの姿が見えしだい気づいてくれるだろう――一目で。ぼくはそのことを信じていた。心から! すべてが公正で、神によって定められていることをぼくは信じていた。ぼくの家? この世界が――全世界がぼくの家だった! どこにいようが、そこがぼくの家なのだ。ただこれまで、それに気づかなかったまでの話だ。だが、今ははっきりわかっている。もはや境界線もあり得ない。もともとそんなものはなかったのだ――ぼくが勝手に作り上げていたのだ。ぼくはゆっくりと、幸福感にひたりながら通りを歩いて行った。愛すべき通り。だれもが行き交い、だれもがおもてには出さず苦しみをかかえている通り。タバコに火をつけるため、立ちどまり街灯によりかかると、街灯までもが親しげに思われる」

    「人間的であるとはいかなることか、その弱みも強みもぼくは知っている。ぼくはその知識のゆえに苦しみ、またそれを大いに楽しみもする。たとえ神になる機会を与えられようとも、ぼくはそれを拒否するだろう。たとえ星になる機会を与えられようとも、ぼくは拒否するだろう。人生の与え得るもっともすばらしい機会、それは人間らしくあるということだ。それは全宇宙を包含する。それは神ですら持たぬ死についての知識をも含むのだ」

    「この橋は果てであり、ぼくの果て、ぼくの知っている世界の果てであった。この橋は狂気そのものだった――これがこんなところにかかっていなければならぬ理由も、ここを人びとが渡らねばならぬ理由もなかった。ぼくはもう一歩も動くことを拒み、このばかげた橋を渡ることにしりごみした。橋のそばに低い岩壁があり、ぼくはそこに寄りかかりながら、これからどうすべきか、どこへ行くべきかを考えた。やがてぼくには、自分がどんなに文明化された人間であるかがしだいにわかってきた――この人恋しさ、会話や、本や、芝居小屋や、音楽や、カフェや、酒やその他もろもろのものへの懐かしさはどうだ。文明化されるということは怖ろしいことだった、なぜなら、世界の果てまで来たとき、孤独の恐怖を支えるものは何一つ残されていないからだ。文明化されるということは、複雑な欲求を持つということだ。したがって成熟の域に達した人間は、一物をも欲求してはならないのだ。終日タバコ畑を歩きまわりながら、ぼくはしだいしだいに不安になっていった。このタバコがぼくにとってどうだというのだ? いったいぼくはどこへ行き着こうとしているのだ? 人びとはいたるところで、他の人間たちのために作物や製品を造りつづけている――だがぼくは、こうした難解な活動の合い間をすべり歩く亡霊のようなものだった」

    「ぼくの全世界はいま均衡を保っている。せめて一日、このぜいたくを楽しむことにしよう。明日ともなれば、天秤を傾けさせよう。明日ともなれば、この均衡も終わってしまうのだ。ふたたび均衡を見いだすことがあるとすれば、それは血の中であって星の中ではあるまい。おまえが数々の約束を与えてくれるのが嬉しい。これまであまりにも長く太陽のかげで暮らしてきたぼくは、どんな約束でもいいから欲しいのだ。ぼくは光と純潔が欲しい――さらに欲しいのは、腹の中の太陽の火だ。天上の三角座を完成させ、いつまでも地球を離れ空間を飛びまわらずともすむよう、裏切られ、幻滅を味わってみたい」

  • 『北回帰線』よりすばらしい文章がたくさんある。『南回帰線』の方から読むべき。例えば以下。

    「すべての中に、ぼくはすぐさま対立と矛盾を見いだし、現実と空想のあいだに皮肉を、逆説を見てとった。ぼくにとってはぼく自身が最悪の敵だった。せずにすむことで、どうしてもしたいことは何もなかった。何不自由ない子どものころでさえ、ぼくは死にたいと思っていた--あくせくしたところで無意味なことがわかっていたので、早々と降参してしまいたかったのだ。自分から求めたものでもない人生をつづけたところで、何の証にもならず、何一つ具体化するはずもなく、ふえたりへったりするものでもないという気がした。どちらを向いても落伍者ばかり、落伍者でない奴は、鼻持ちならなかった。特に成功者連中は。成功者連中には、涙が出るほどうんざりさせられた」(pp.9-10)

    「原稿を見せた連中はどいつもこいつも、ひどい出来だと酷評した。ものを書くなどという考えはあきらめろ、とまで言われた。バルザックではないが、自分の名前が署名できるようになるまでには、何十冊もの本を書かねばならないことを、ぼくも学ばねばならなかったのだ。作家たらんとするものはすべてを投げ打ち、書くこと以外は何もしてはならぬこと、たとえ世界じゅうの人間がやめろと言おうと、たとえだれ一人信じてくれるものがなかろうと、ただひたすら書きつづけねばならぬことを僕は学ばねばならなかったし、まもなく学ぶことになった。あるいは、だれも信じてくれないがために書くのかもしれない。世間に信じさせたいがために書く、というのが本当のところかもしれない」(p.48)

    「精子のごとき最下位の存在にも、最高位の存在である神と等しい至福の状態がある。神とは、完全な意識に達した全精子の総和に他ならない。最下位と最上位のあいだに段階は、中間駅はない」(p.304)

    極めて人気のない講談社文芸文庫においておくのがもったいない本。

  • 649夜

  •    20代後半からこの作家をよく読んだ 特にパリに脱出前のこの時期がいい 
      北回帰線より奇をてらったり気負いがなく文章も荒削りでない
       たぶん北回帰線より前に書き溜めていたのではないか思うのですが。。
      
       <本は泣ける>と知人は言っていたけど私にとってはこの本がそうです 
      最後のアメリカに対する<さよなら>のくだりは爽快感を伴った感涙です
      多数の読者にとって雑音に聴こえる彼の観念の機関銃乱射が
      ともかく私にはメロデイのある心地よいドラムのように聴こえるし
      現代の吟遊詩人と言われていたけどそのとおりで
      なにを表現しても散文詩としかとらえようがない
      
        人生の悲喜劇を描こうとして自分をその主人公にすえたこと 
      <私には天使の透かしが入っている>という自意識とか  
      美醜を超越している行動に悪く言われることも多いけど 
      それは彼の生命力の強さであり けっしてエゴの強さではないとついつい味方してしまう
      でも初めから小さな良識判断を差し引いてもこの作家は初めから有罪です 笑
      <読書の自由の擁護>の論文の際 みずからの猥褻裁判に対して
      あっさり有罪と認めているんですから 笑
      初めから言葉で常識なり良識に作家自身が体当たりする覚悟が出来ていたんでしょう
      
           <読者の血となり肉となる本を書きたい>
      
      文章表現は一見過激ですがミラーは善意のあるほんとにいい作家です 
      会ったことはないですが大好きです 笑   

  • アナーキストに影響を受けたミラーの姿がその文体からもありありと見る事ができるが、それだけにとどまらずあらゆる人間とその知性の領域を徘徊した彼が辿り着いた、人間と人間社会の有り様に恐れおののくと共にそこに歓喜を見いだす。

  • 読んだのは新潮版で。でもこちらの方が手に入りやすいと思います。多分、読み終わると同時に、調子はずれの大声で歌い、見たこともない踊りを踊りたくなるかもしれません。そんな本です。

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