改訂 文学入門 (講談社文芸文庫)

著者 :
制作 : 曾根 博義 
  • 講談社
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本棚登録 : 42
レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061983908

作品紹介・あらすじ

一九五四年初刷刊行以来絶讃され、実験的実作による研究成果が盛り込まれ、増補改訂が加えられた。「できるだけ分かりやすい形で、文学の形式、その感動、その文体、他芸術との比較」の諸点から一般読者に向けて書かれ、一九七九年には四十刷の版を重ねた。"芸術とは何か"を追求した伊藤整の文学理論を集大成し、文学の本質を平易に解きあかした文学入門書の白眉。

感想・レビュー・書評

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  • 書かれたのは半生記前と少し古いが、必要なことはしっかり書かれている。もはや文学における現在の問題或いは壁というようなものは共有されていない。まだ、それらが共有されていた時代の<まとまり>のある話。書かれた背景や、それがなぜ当時書かれたのかなどが述べてあり学校で学ばされる白樺派より、随分と白樺派に共感できたり。個別に述べるだけでなく、本質的に貫かれているものにも言及しているので、文学としてのまとまりを見失ったり迷った感じにならないのは読んでいて良かった。

  • 伊藤理論入門によい。

  • 日本の近代文学はタテの系列、つまり死または無から存在を考えることを得意とし、ヨーロッパ系の近代文学の原型は、ヨコの系列、つまり社会や、人間と人間との関係を描くことに優れている。
    著者のこの仮説そのものが、そこからさまざまな考えを導き出したくなるような魅力に富んだ考え方に違いない。

  • 2009/12/11図書館で借りる
    2009/

    文学の全体が見渡せる一冊。

    第七章:論理と調和の文学
    p163
    鴎外と漱石の考え方には一脈共通したところがある。それは東洋の知識階級人が昔から抱いてきたところの、現世の欲を放棄する、我欲を捨てるという考え方である。自分のエゴを抑圧することによって他人のエゴをある程度生かしてやり

    第九章:現代社会と人間
    p228
    人間は、その生産様式を、はじめは自分の生活の便宜に作り出したのにも関わらsず、しまいには生産の様式、生産競争のために自分がその犠牲になり、その機械の一部分として働いていることになってくる。工場労働者は一つの製品を自分で作って完成するという喜びを感ずるチャンスがなくなって、自分は大きな生産過程の一部分だけを無意味に繰り返している、自分は機械の一部分だ、という意識を持つようになる。そのとき生産設備は人間に、生きて仕事をしている、という楽しみを与えなくなって、非人間的な傾向を帯びてくる。

    第十章:芸術の本質
    ほかのところで述べたように、人間にはふつうにはエゴの満足のための利得や名誉と、他社との調和のための道徳置きにして生きているものである。その二つのものを中心としてわれわれの生活が営まれ、その中で我々は、あるものを好んだる、あるものを嫌ったり、することによって、自分が生きているという感じを満足させようとする。
    普通の人は、実利と道徳が人生だと思っている。しかしこの二つは、生活を動かす力であって、生活そのものではない。自分の生きていることの実態を、このようなふつう生活者は見落としがちのものである。そういう人間のために、画家は、物の形や、色の美しさや、面白さを描き出すという方法で、ほんとうはこういうふううに人間には周りが見えるものである、ということを悟らせる。画家はわれわれを導き、色と形を通して人生の味を理解させるようにする。小説家や戯曲化は、人間と人間の関係や、人間と道徳の関係や、人間が生きていることそれ自体においてかんずる生きがいというものを、言葉の芸芸術によってわからせる。普通の府とが多少は感じていながらも、はっきりと感じられないところの、生きていることの中身がそこに表現される、そういうことを、音楽家は音においてしているわけである。

    芸術はそれをどういう操作によってするか、というと、一種の移転という操作によってする。その移転というのは、たとえば、リンゴが一つあるとする。そのリンゴなるものは、いろいろな条件や色々な性質において存在している。それは一つには、貨幣価値を持っている商品であり、したがって商業行為の目的物である。また一つには、それは栄養を持っている物質であり、また一つには、それは色と形の美しさにおいて、人を楽しませるものである。その場合、画家がもしそれを描けば、それはリンゴの持っている色と形の面白さだけを純粋に抜き出して、それを紙か布の上に移して描き出すことになる。そうすると、その紙か布の上に描き出された林檎は、林檎として元来持っていた他の要素、すなわち食料としての価値、すなわち食料としての価値、あるいは商品としての価値をみな失う。そうして色と形の美しさの部分がけが、紙か布の上に移転されたことになる。その時に、われわれが色と形において林檎に見出していた喜びが、純粋の結晶状態のものとしてそこに再現される。作者という統一のある人格を通して、その色と形の面白い点が抜き出されるときに、そのものは、林檎であり、同時に作者の思想の表現であり、その思想を通しての社会や生命の反映となる。人間の生命観と美との融和統一である。
    文学についても同じように考えられる。一つの恋愛事件があったとすると、その恋愛事件について作者が見出した思想、すなわち、いきることについての感じ、というものがその事件から抜き出される。そうすると作者は、自分がその事件にあるいろいろな諸関係、たとえば着物とか表情とか金銭問題とか第三者との関係などの中から、その恋愛の本質になる部分だけを抜き出し、それをもっと純粋なものにして現わすに都合のいい、別な物語を作ってその中にはめ込む。そうするとその時は、その事件は、初めあった事件と質的には似ているけれども、違った形の物語として文学作品になる。
    そのために、その感銘wお受けたところだけが純粋に結晶するような、べつな物語の中に、体験の感銘が移されると、その時初めて、その恋愛体験の中の純粋な部分が生かされる。この移転ということがなければ、芸術作品は成り立たない。この場合、その別な物語は、フィクションといわれるほど、まったくの作り物のこともあれば、また事実を多少作り変えるだけのこともある。フィクションにするのは、作者の意識においては、モデル問題を避けるためのこともある。フィクションにするのは、作者の意識においては、モデル問題を避けるためのこともあるが、その同じ作為が芸の働きの方から言うと、移転によって不必要なものを捨て、その事件の純粋さを結晶させることになる。その元来のれない事件の中で、もっとも人を感動させるところは、ほかの邪魔になる要素とまじりあっているから、その事件をそっくり全部書いては、良い作品にならない。それはちょうど、林檎を色彩写真のようにそっくりそのまま描いてはどこにその林檎の色や形の面白さがあるのかわからないけれども、画家が、形の面白いところだけを写生すると、そこにはじめて林檎の美が生まれる。それと同様である。林檎の本当に美しいところだけを画布の上に、絵具によって移転させるのである。




    解説:

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