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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784062034821
感想・レビュー・書評
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第一部
「静かな悲嘆」
▶▶▶ 谷間の村に住む大江の妹アサから、東京の大江の妻オユーサンに電話がかかる。アサが言うには、「在」に住むギー兄さんが、普段と素行は変わらないものの、何かしらの大掛かりな事業を始めようとたくらんでいるらしいとのこと。そしてギー兄さんの妻オセッチャンが、ギー兄さんのその秘めた覚悟とその事業の行く末について漠然と不安を募らせているとのこと。ついては大江に直接ギー兄さんと会って話してみて、大江が感じるところを聞かせてもらえないかとも……。
▶▶▶ ギー兄さん――それは「在」の地主で森林組合の元書記、頓挫した「美しい村」建設運動の中心人物、大江が少年のころから英語やダンテを教わり何度か仲たがいもした、大江にとって最重要人物のひとり。また恋多き男にして……殺人の刑余者でもあった。大江はオセッチャンの願いを聞き入れ、何年かぶりに母に顔を見せることも兼ねて家族全員を連れて谷間の村に帰り、ギー兄さんに再会することを決めた。
「カシオペア型のほくろ」
▶▶▶ 今の妻オユーサンが大江との結婚を決めようとしていた頃、大江の育った場所を実際に見てみようとひとり谷間の村を訪れ見てまわったことがあった。その際現地で彼女を連れて案内してまわったのがギー兄さんであった。ふたりは道々大江のこと、『神曲』のことなどいろんな話をした。……そんな折、村の"勝"なる男がまだ少女だったオユーサンの前に現れ、ギー兄さんと彼女とのことを根も葉もない作り話で露骨にからかった。怒りに震えた彼女はそのことをアサとオセッチャンに報告、怒りはふたりにも燃え広がる。さっそくアサとオセッチャンは"勝"の属する厄介者集団"4H"のもとに乗り組み、"勝"がかつて行った出歯亀行為を笑いものにする。また"勝"が目撃したという、危険な穴だらけの森にいるギー兄さんとオユーサンに、勇気があるならひとりで会いにきてみろと挑発する。
▶▶▶ 大江一家は高知までは飛行機で、そこからは松山への長距離バスで谷間の村に向かう。が、県境を過ぎたあたりにバスの進行を妨げるように一台のバンが。ギー兄さんがわざわざ一家を迎えに来てくれていたのだった。
「メキシコの「夢の時」」
▶▶▶ 『雨の木』でも描かれた、メキシコシティーでのエピソードが繰り返される。家族から遠く離れメキシコシティーの下宿の一室でひとり、むしろこれまでより余計に谷間の村との交感を強めている大江。そんな大江に東京から、ヒカリの視力が急速に悪化し妻はひとりで困り果てているとの一報が。大江はしかしすぐに帰京すること能わず、結果、鬱状態となって自室に完全に引き籠る。そんな大江の元に、明らかに酔っぱらったギー兄さんから国際電話が。ギー兄さん曰く、大江はメキシコシティーを離れずそこに留まって谷間の村を主題とする小説づくりに専念すればよいと。そして大江の家族は自分が面倒を見るから心配はいらないと。
▶▶▶ 大江は自分の妻とギー兄さんとの接近を危惧し、ここメキシコシティーよりも精神的には谷間の村から距離がある場所すなわち東京に戻って、谷間の村を主題にした小説を書くことを決心する。
「美しい村」
▶▶▶ 愛媛と高知の県境までわざわざワゴン車で出迎えに来てくれたギー兄さんはそのまま大江一家を車に乗せ、谷間の村めざして出発した。しかし四国山地を越える長旅を終えるころ、なぜだか目的地に着く手前で車を止めるギー兄さん。ギー兄さんはそこで待ち構えていたオセッチャンに運転をかわってもらって、林の中へと歩いて消えていった。車中オセッチャンからギー兄さんの、「在」の人間たちとうまくいっておらず人を避けて生活している困った状況がほのめかされる。生家では大江一家と母親とが再会、ヒカリと母親とのあいだに独特のあいさつが交わされる。そのあとオセッチャンとアサから、孤立しているギー兄さんの現状報告がなされる。すなわち①ギー兄さんが森林組合の書記であったころの植林事業が"不幸な事件"により中断して期待はずれに終わってしまい、村人たちのあいだにはそのことへの不満が根強く残っている。②ギー兄さんらしい曰く言い難い色恋沙汰があったらしい。③ある有名な売れっ子女優がギー兄さん発案の「美しい村」を大いに気に入り映像スタッフを連れて来村。ギー兄さんは浮かれきって女優とその取り巻きたちを下にも置かぬもてなしようだったのが、監督が撮影のため"テン窪大檜"の枝を無断で切り取ってしまったことを知るにおよび激怒。一転した気まずい雰囲気のなか、女優を含めて映像スタッフたち一行は早々に村を引き上げてしまった……。
▶▶▶ちなみにギー兄さんの計画している大掛かりな事業というのが、その事件のあった舞台であり「美しい村」の予定地でもあった"テン窪"を人造湖にしようとしていることだとわかる。
▶▶▶ 就寝前に大江の母が大江に「酒なら用意している」といいながらも、大江の飲酒癖をやんわりと窘める。
「死すべき者の娘とは見えず」
▶▶▶ 大江と大江の次男サクチャンが「在」のギー兄さんのもとへ、旧道を使って歩いて向かう。道々ふたりは、曽我十郎の首塚、その近辺で猟銃立て籠もり事件を犯したある母親のことなどを話題に語りあう。同じくその付近で発生したギー兄さんにまつわる事件については、大江は口に出さないですます。ギー兄さんの家ではサクチャンが西君という若者から川蟹をもらう。ギー兄さんからは、例の女優を主演にして大江がかつて書いたシナリオを使って映画をつくりたかったと。そのシナリオとは、ダンテのベアトリーチェと、幕末に村の交渉人として奮闘した「メイスケサン」とをモデルにした物語だと。
▶▶▶ そんなところにオセッチャンが現れ、蟹が茹で上がるころだから車で"新道を使って"ヒカリたちを迎えにいってもいいかとギー兄さんに聞いてきた。……刑期を務めるため「在」を留守にしていたあいだにつくられた新道をそもそもギー兄さんは嫌っており今でもそれは使ってない。オセッチャンは自分が新道を使うのにわざわざギー兄さんにお伺いを立ててきたのだった。
「懐かしい年」
▶▶▶ ギー兄さんは大江を"テン窪"まで案内し、すでに端緒についた堰堤工事について説明する。(この時ふたりの間で交わされた会話の内容については本編の最後で紹介すると断り書きがあるが、)大江は「美しい村」ともども"テン窪"を水没させようとするギー兄さんの考えについてひとまず納得する。また、このままだと寝酒の悪癖がやめられそうだと感じる。一方ギー兄さんはこれから天候が悪化し大雪になると予測。せっかく来てくれたけどここでカン詰め状態にならないうちに松山まで引き返した方がいいと忠告する。そこで急いで、みんなで茹でた蟹を食べ焼酎を飲み(ヒカリの提案で、茹でなかった蟹は谷川に放してやる)西君に車で松山のホテルまで送ってもらう。夜更け、家族たちが寝静まったあとで大江はホテルから「懐かしい年」にいるギー兄さんに手紙を書く。そこには若くて美しいギー兄さんと知に輝くヒカリがいる。新道によって傷つく以前の谷間の村と「在」がある。そしてわたしたちが死んだのち魂が還っていく樹々の根っこがある。
第二部
「父母たちが家郷と呼んだ谷間から 離れることはないものと むなしくたてた子供の誓いを思っている」
▶▶▶ 大江が子どものころつまり戦時中のこと。自分が死んだら魂が谷間の村に帰ってきて木々の根本までもぐって安らぐ、という祖母の話に疑問をいだいたことがあった。どんな話にでも答えを見つけてきてくれていたギー兄さんはそのときも優しく大江を励ましてくれた。そして終戦の日。大江は敵兵が村まで攻めにやってくるのを恐れ、泥の淵に裸でもぐって夕方までじっとしていた。一方のギー兄さんとセイさんは村の女たちに懇願され、"千里眼"を発揮して兵隊にとられた亭主の安否を占っていた。ギー兄さんは白粉と口紅を塗りたくり、花模様の派手な着物を素肌に羽織って、朝まで休みなく延々と、デタラメを承知の上で……。
「キウリと牛鬼、イェーツ」
▶▶▶ 戦争が終わる。兵士たちが谷間の村に戻ってくる。戦争を経験した者たちは×××。彼らは大勢でギー兄さんの家に押し入り、皆の見ている前でギー兄さんにセイさんを犯すよう強制する。しかしそれが無理だとわかるや、今度はセイさんの股にキウリを取り付け、ギー兄さんの肛門を蹂躙させる。
▶▶▶ ……後日、米兵たちが村を視察に来る。なすすべなくうろたえる村民たちをしり目に、ギー兄さんが通訳として活躍、村の歴史や地形を彼らに説明する。米兵たちはギー兄さんの豊富な知識に感心し、君は東京に出で学者にでもなるつもりかと尋ねる。ギー兄さんは答えて、もしそうだとしても自分は必ずこの村に戻ってくる。そして村の歴史について研究を重ね、それを友だち(大江)が本に書く、と。米兵のひとりは自分が持っていたイェーツの詩集をギー兄さんにプレゼントする。そこには「父母たちが家郷と呼んだ谷間から 離れることはないものと むなしくたてた子供の誓いを思っている」とあった。後日大江とギー兄さんはその詩集に現れる文言を拾い出しては、あの時の米兵が自分たちに告げたかったのはここではなかったのか、いやそうではなくてこっちではないか、などと言いあったりしたものだった。
「[naif]という発音のあだ名」
▶▶▶ 大江が谷間の新制中学に通っていたときギー兄さんから護身用にドイツ製の飛び出しナイフを与えられそれがイジメ防止に功を奏した。しかし隣町に通う高校時代では、そのナイフに目を付けた不良のリーダーからの要求をすげなく断ったため"指またぎ"を強要され、結果右指に大けがを負う。このエピソードから大江はナイフ(knife)と呼ばれるようになった。松山の高校に転向してからは大江の天然めいた言動から、ナイフはナイフでもフランス語の"naif"とあだ名された。そこで知り合った年上のクラスメート秋山君(伊丹十三)からは大江がかつて書いた「永久ネズミ取り機」なる作文が気に入られ、活動的な秋山君の演劇仲間たちとの交流ができた。
▶▶▶ なお、増えすぎたネズミを駆除する作文「永久ネズミ取り機」の舞台となった島は、大江の『新しい人よ眼ざめよ』でも出てきた、知恵遅れの少年がいたいけな少女を強姦殺人した現場となった場所。大江はこの時この事件が異常に気になって、わざわざ現地を見に行ったのみならずその付近に野宿までしてきている。
「原理がわかっても問題は難しい」
▶▶▶ 松山の高校に通っていたときのこと。松山にはかつてCIE図書館が存在したのだが、"naif"な大江は級友にかつがれて、そこで働くミセス太田(夫がGIで朝鮮戦争に派兵されている)にお見舞いの花束を手渡しに行かされたことがあった。するとミセス太田は最初はなんのことやら理解できなかったものの、見ず知らずのガキにおちょくられているがわかって激怒。口を極めて大江を罵倒し、挙句の果てに大江の股間を蹴り上げた。このエピソードにより大江は当然みなの嘲笑の的となったのだがここでさすがは大江健三郎。股間を蹴られた直後は性欲まで感じたといっているし、次の日から何もなかったようにCIE図書館に通い受験勉強を続けたのだという。
▶▶▶ 招集されて朝鮮戦争に駆り出されるのではないか……そんな不安をひとり悶々と抱きながらもマイペースで受験勉強を進める大江健三郎。大江は数学のテストに関してひとつの信念をもっており、それというのが原理さえわかれば必然的に問題は解けるのだというもの。そして東大受験の本番でのこと。数学の問題を見た大江は確かにそこに解法の原理を見出した。ところが練習問題など全くしてこなかったものだから、これでは答えを導き出すのにおそらく6時間はかかるゾ……大江はその場で初めて練習問題の大切さを知り、同時にすっぱりと合格を諦めた。
▶▶▶ 受験に失敗した大江は、これで谷間の村を出る必要がなくなったとある意味安心もした。しかし大江の母の計らいで、「在」にいるギー兄さんにこれから一年間勉強を見てもらって来年もう一度受験に挑戦することとなった。これからは毎日数学の練習問題をこなすことを誓って。
「性的入門」
▶▶▶大江の受験勉強のやり方は相当ギー兄さんに影響されている。 大江は失敗した試験では物理と化学をとっていたのが、ギー兄さんから化学を捨てて地学にしろと言われ二つ返事でそれに従っている。大江の使う問題集はすべてギー兄さんが松山に行って買ってきたものである。毎日夕方になると大江はギー兄さんと「在」周辺を散歩がてら英詩の勉強をする。夜はギー兄さんにより勉強するのをとめられている(「夜の受験勉強はやめようよ。若い者が夜も勉強するというようなことは、大体、森のなかの土地になじまないよ」)。
▶▶▶ 大江はギー兄さんの家で受験勉強をするうち、ギー兄さんとセイさんにマスターベーションを教え込まれる。
▶▶▶ さらにセイさんとは初めてのセックスさえ教授されている。
▶▶▶ 一方、東京からギー兄さんの元カノのももこさんとその友人の律ちゃんが訪ねてくるのだが、ももこさんはギー兄さんとの復縁をせまり、とにもかくにも毎晩ギー兄さんとのセックスに励みだす。律ちゃんは、男に触られると蕁麻疹がでるのだというのだがウィスキーを飲みながら毎夜、ギー兄さんとももこさんとの行為に立ち会っている。
「性的入門の別の側面」
▶▶▶ ギー兄さんとももこさん、大江とセイさんとの性生活は続く。そして一方で、ももこさんはしつこくギー兄さんとの結婚そしてふたりそろってのイギリス留学を訴え続けている。ある日ギー兄さんは、大江とももさんと律ちゃんに松山の大街道でリズの『日の当たる場所』を鑑賞に行かせる。彼らが留守の間ギー兄さんはひとり家に残って、自宅の風呂場の壁を改造、外から中を覗き見ることができるマジックミラーを取り付ける。そして松山から帰ってきた大江を誘いだし、中で入浴をするももこさんと律ちゃんの裸を観察する。興奮してきたギー兄さんはそのまま風呂場に乗りこみ、律ちゃんの隣で、外からは大江が見守る中、ももこさんとセックスを始める。大江はそれを見ながら露天でマスターベーションをする。セイさんの子供、オセッチャンがそんな大江を遠くから見守っている。
▶▶▶ 将来の展望について意見が食い違うギー兄さん、ももこさん、そして律ちゃん。マジックミラーの件もあってついにももこさんと律ちゃんは東京に帰ってしまった。
▶▶▶ 大江はもし受験に失敗して東京の大学に通うようになったとしても結局谷間の村に帰ってきてここで森林組合の仕事をするんだろうなぁ、などと漠然と自分の未来を想像していた。しかしギー兄さんが森林組合のポストを明け渡すつもりがないことを知り、ここには自分の居場所がないことに思い当たる。以降、大江はギー兄さんと絶縁しひとりで受験勉強に打ち込む。結果雪辱を果たして大学に合格、東京へ向かって旅立つ。東大では学生新聞に発表した短編小説で有名になる。……そしてその作品についてギー兄さんから批評の手紙が届くことによって再びふたりの交友が再開することとなる。
「感情教育」
▶▶▶ ギー兄さんからの手紙は、「奇妙な仕事」「死者の奢り」に対する批評であった。それは大江にとって好意的な東京の批評家たちとは違い、批判のこもった意見であった。しかし大江にとって「ギー兄さんのいうことは……どの批評家より正しいと思」えた。
▶▶▶ 一方大江は作家として身を立てていくことを考え始める。そして秋山君の妹オユーサンと結婚することも。スキャンダルめいた噂話を聞きつけた秋山君にいったんは結婚を反対され、結婚も作家になることも諦めかけた大江だったが、オユーサンには二度婚約指輪を贈り、ついに結婚の約束をとりつけた。
▶▶▶ 帝国ホテルで行われた小規模の結婚式にはギー兄さんも出席、指名されてもいないのにひとくせあるスピーチを披露する。内容は、大江の持つ"悪しき無邪気さ"そしてその政治的言動がもたらすであろうこれからの人生の危機に向けての心構えについて。終わりそうのない長広舌に、列席者から白い眼を向けられ始めたのを察したギー兄さんはそこでふっつりと言葉を切り、あとは腰を下ろしてうつむいたまま、ひとり飲酒にふける。式のあと声をかけるとギー兄さんはすすり泣きながら大江に、大江だけができる森の中の土地の人間の、本当の仕事をせよと訴える。
▶▶▶ 結婚してまだ3月しかたってないのに、(ギー兄さんが心配したとおり)大江は安保運動の流れに逆らえないまま二か月もかけて中国旅行に付きあわされるハメになる。すると、大江を被害妄想のケがあると非難していたギー兄さんの方が心配でいてもたってもいられず、東京に残るオユーサンの元に駆けつけようとする。東京駅に降りたってオユーサンに電話をかけるギー兄さん。電話がつながらないことに業を煮やし、また疑心暗鬼がつのりにつのり、日比谷公園に向かうデモ隊のなかにオユーサンが混じっているのではないか、放っておけばオユーサンは右翼や機動隊にとりかこまれ殴り殺されるのではないか、そんな妄想にとりつかれる。ギー兄さんは最寄りのデモ隊に飛び込んでいっしょに行進しながらオユーサンを見つけようとする。そして事件が起こった。右翼の闖入によりデモ隊と右翼とが衝突。混乱の中でギー兄さんは傘の石突で敵の眼球を抉り出す。ギー兄さんは右翼の一員から角材で打ちのめされる。……後日、瀕死の重体から快癒したギー兄さんは生まれ変わったように、「在」でのあるプロジェクトに向けて邁進しだす。
「根拠地」
▶▶▶頭蓋骨を負傷して倒れたギー兄さん。ギー兄さんは東京の病院にひとり収容されているあいだ、「在」に自分の生活と思想のよりどころとなる"根拠地"を作ろうと心を決める。そこは自分だけでなく村の若い衆にとっても、そして大江やアサちゃんにとってもそうであるに違いなかった。デモの現場からずっとギー兄さんに付き添って介抱してきたという"新劇女優"の繁さん(女)もギー兄さんに同行して「在」にやってきた。一方そのころ、大江は東京で「セヴンティーン」の発表による右翼からの脅迫、左翼からの嫌がらせに日々辟易しながら生活していた。ギー兄さんはそんな大江を見かねて、東京を引き上げ"根拠地"に腰を据えて小説を書いてはどうかと提案する。
▶▶▶ "根拠地"……名付けて「美しい村」。ギー兄さんはすでに、そこでの榾木による椎茸の栽培、自前の森林のクヌギ混木林への改造、和牛の繁殖と育成、ブドウ園の運営、コウゾ・ミツマタによる和紙産業の復活……などを起案している。ギー兄さんに呼ばれて帰郷してみた大江夫妻だったが、パートナーのオユーさんが "根拠地"での生活に前向きなのに対して、大江は少なからず抵抗を感じていた。なぜといって、"根拠地"では繁さんを中心とした劇団など文化的活動も計画はしているものの、村の若い衆みなが労働で"根拠地"を支えているのに自分だけは四六時中物書きだなんて、と。それと大江の左翼的理想主義すぎる言動に異を唱える徳田君(東京で演劇の勉強をしていた)の存在も気になっていた。
「事件」
▶▶▶大江が"根拠地"をあとにしてから二年後。 "根拠地"の活動は軌道に乗り、ギー兄さんへの村人からの信頼は日ごとに増していった。ギー兄さんは村長選挙の候補にもなった。一方の東京では重い障害をもって第一子ヒカリが誕生した。大江はこの現実を、 "根拠地"を拒否したことによる森からの復讐ではないかとさえ考える。谷間の村に残る大江の母は、ヒカリを引き取って自分が "根拠地"で育てるとも。このヒカリの誕生をもとに書いたのが『個人的な経験』。批評家からはエンディングが甘すぎると不評だったが。これについてはギー兄さんからも同様の注文を受けた。
▶▶▶ そしてそのまた二年後。深夜。繁さんがギー兄さんと別れ東京に帰るため 徳田君のバイクにまたがってこっそり"根拠地"を抜け出した。しかしそれに気づいたギー兄さんが車で彼らに追いつき引きとめた。この時点で徳田君はバイクを置いてひとり逃げ出した。そして(伝えられたところでは)……ギー兄さんは繁さんの頭を石でめちゃくちゃに叩き割ったうえで強姦した。そのあと自宅に戻ってきて顔を朱の顔料で塗りたくり、自分の肛門にキウリを突き刺して首を吊った。同居していたセイさんとオセッチャンが異変に気づき、梁からぶら下がるギー兄さんに体当たりして落下させすぐに警察に通報した。
▶▶▶ ギー兄さんは獄中にあって大江とは一切の連絡を絶っていた。オセッチャンもギー兄さんとつながりのある人間とは絶交状態であった。ただしセイさんを通じて大江に、ギー兄さんが村芝居のためにまとめた万延元年の一揆について、そしてギー兄さんが身を入れて続けていたダンテについて、その研究資料が手渡された。大江はのちにその資料をもとに『万延元年のフットボール』を書いた。その作中でギー兄さんによる奇態な自殺行為をそのまま書いた。が、そのとき大江は獄中のギー兄さんがそれを読んでどう思うかなど考えていなかった。なぜなら、大江にとって、そしてギー兄さん本人にとっても、ギー兄さんは黄泉の国に下って現実には存在していなかったのである、そのあいだ、ずっと……。
第三部
「さていと聖なる浪より歸れば、我はあたかも若葉のいでて 新たになれる若木のごとく、すべてあらたまり/ 淸きして、諸々の星にいたるにふさはしかりき」
▶▶▶獄中のギー兄さんと連絡はつかないが、大江はダンテ研究のための資料を一方的に送りつけるのを2年間続けた。しかしそれもギー兄さんからの意向で沙汰やみとなった。以後7年間、完全にギー兄さんとの関係は途絶えてしまった。向こうの世界に閉じこもってしまったギー兄さん。そして身近には言葉や心が通じるかどうかさえ全くわからない息子のヒカリ。このふたりが大江の心の中で"悔い"の感情を介してつながった。
▶▶▶ 大江がメキシコシティーに居を移すと同時に、刑期が一年前倒しになったギー兄さんが出獄した。そしてメキシコシティーにいる大江に、まるで十年間何もなかったような手紙を書いて寄こし、国際電話を通して変わらぬ声を聞かせてきた。一方「在」でのギー兄さんは、肉体関係を続けてきたセイさんの実の娘、オセッチャンと結婚するというなりゆきになった。セイさんはそれならばと、あれほど尽くしてきた「在」の屋敷を捨て大阪へむけて旅立った。ギー兄さんの「在」への帰還と結婚のお祝いが昔の"若い衆"によって催された。しかしそれ以降はギー兄さんの周囲に人は寄りつかなくなった。"根拠地"の活動で軌道に乗りかけていた椎茸の栽培などは各農家が個人で続ける程度のものとなっていた。あるときそんなギー兄さんと酒を酌み交わしたというアサによると、今のギー兄さんは一種の犯罪者としての風格をまとっているという。勇気をもってそれを指摘するとギー兄さんは、あの悲惨な事件が偶然起こったと考えると自分はもう自殺して終わるしかなくなってしまう。そうではなく、自分は根っからの強姦殺人者だと受け入れること、そうして初めて、あの事件から先に向かって進むことができるのだと答えたという。
「自己の死と再生の物語」
▶▶▶ メキシコから東京の実家に帰ってきた大江が、このところ日本中を放浪しているというギー兄さんと十年ぶりの再会を果たす。ギー兄さんは髪がうすくなって頭部のあの傷跡が目立ち、首筋には肉体労働者特有の筋肉がたくわえられていた。大江の書斎で『新しい人よ眼ざめよ』の草稿を読んだギー兄さんが大江に問う、若い作家の小説なら"私"が主人公でもいいが(それはその主人公が時代を体現しているから)、自分の家族まで登場させる"私"小説を書く場合、そこには必ず死と再生(挫折・回心)とが必要で、今の大江にその覚悟はできているのかと。そしてそれが書けるのは人生で一回きりではないかとも。ギー兄さんのいう問題提起の本質を理解した大江はその場にある薪ストーブで草稿を焼き捨てる。またギー兄さんが「在」を舞台に「この世界と・それを超えた世界へのモデル作り」をしようとしていることを知る。大江はそんなギー兄さんと競い合って自分は小説で「この世界と・それを超えた世界へのモデル作り」をしたいと考える。だから『新しい人よ~』はひとまず置いておいて、これからはギー兄さんにもかつて勧められた、森の神話と歴史をテーマにした物語(『同時代ゲーム』)を書こうと決心する。また、ギー兄さんは『万延元年』で鷹四が犯した殺人を引き合いに出し、自分の場合は繁さんが車から飛び降り岩に頭を打ちつけたのを見て彼女が死んでしまったと勘違いしてしまった、と事件の真相を打ち明ける。強姦のフリをするのをわざと目撃され、自分で自分を罰したのだとも。
▶▶▶ ここで、「懐かしい年」の章でギー兄さんが大江を"テン窪"まで案内した場面につながる。ふたりは堰堤工事中の"テン窪"を見渡している。ギー兄さんは"テン窪"全体を水没させようとしている。そこには中央の小島と一本の"テン窪大檜"だけが残ることになる。大江は理解する。これらはダンテの"煉獄"であり、ギー兄さんは魂を浄化する段階に入ったのだと。だからオセッチャンの心配は杞憂で、むしろこの事業は歓迎すべきことだと。しかしギー兄さんが顔を曇らせていうに、隣町や川の下流の部落からこの計画に反対運動が起きている。そしてその理由というのが(『同時代ゲーム』でも書かれた)かつて村に押し寄せる藩の軍勢を谷間からの鉄砲水で全滅させたというあの昔話を人造湖が思い起こさせるからだと……。
「臭いたてる黒い水」
▶▶▶ 人造湖建設への反対運動が活発化する。ギー兄さんと反対派との公開討論が開かれる。ギー兄さんは人造湖は後に養殖などにも利用できると主張したがその方面への計画は全くの白紙であることが露見する。一方反対派が根強く抱く不安は、この地方の昔話がもとになっているだけに具体的な根拠には乏しく、どちらの主張も決定打に欠ける結果となった。
▶▶▶堰堤工事が着々と進むなか、伝説にあったのと同様の"黒い水"が"テン窪"に溜まりだす。反対派はますます不安を募らせ、「黒い水」「人殺し」と書かれた大量のビラをあちらこちらに貼りだす。両者の間の緊張はジリジリと高まっていった。
▶▶▶ そんな折りオセッチャンから、ギー兄さんが癌の手術をするのでその直前に病室に会いに来てほしいという連絡があった。急いで松山の病院に駆けつけた大江だったが、それはギー兄さんとオセッチャンによる珍妙な計画によるものだった。すなわち、ギー兄さんは明日この手術で生殖機能を失ってしまう→オセッチャンは今からでもなんとかしてギー兄さんの子供を身ごもりたい→しかし普段からふたりのあいだで行うセックスではギー兄さんはオセッチャンの膣の中に射精したことはない→なんとなればギー兄さんは膣の中では射精することができず、抜いてから改めてオセッチャンの口の中に射精する、というのを常としているからである→しかし自分が一番勢いがあったころを思い出しながらだと膣の中に射精できるかもしれない→そこでそれを思い出せるシンボル、すなわち大江を横に置いてならたぶんできるんじゃないかと考える→つきましては、(この病室ではさすがにできないので)全日空ホテルに部屋をとっているから今からそこへ出向いて、大江付き添いのうえで、やろうではないかと。そして、やった。
「懐かしい年への手紙」
▶▶▶ 反対派による妨害活動は先鋭化し、ついに工事中の人造湖で爆破騒ぎまで発生する。そのとき大阪から帰ってきていたセイさんが爆発に巻きこまれてけがを負う。反対派はけが人まで出したことを自省しその勢いがにぶる。逆にギー兄さんは、労務者をかき集めて堰堤工事を加速しはじめる。大江の母や妹のアサはだんだん狂信者めいてくる様子のギー兄さんを心配する。大雨で工事が休みだったその日の夜、ふたたび反対派とギー兄さんとの話し合いがもたれる。反対派の中心人物で医師となっていた徳田君は、ギー兄さんを精神異常者と認定させることで人造湖建設を中止にもっていこうとたくらんでいる。オセッチャンとアサは成り行きを危惧して警察に同席を求める。警察はいったんやってきたものの問題なしということでひきあげる。しかし話し合いは紛糾、ギー兄さんは次第にヒートアップ、憎しみに取りつかれ、その言葉は怒声となって一同を圧する。話し合いは決裂に終わった。しかしそのあと川下のバーで飲みはじめた反対派の一部がギー兄さんの言動に疑心暗鬼となり、"テン窪"目指してふたたび登ってきた……。
▶▶▶ 次の日の朝。工事にやってきた労務者たちが"テン窪"の黒い水にうつむいて浮かぶギー兄さんの遺体を発見した。すぐに「在」と谷間から野次馬が集まった。しかしこの結末を半ば予想していたオセッチャンとアサは落ち着いて、彼らの見守る中、手漕ぎボートに乗ってギー兄さんの遺体を"テン窪"の中央の小島まで運んで横たえた。東京にいる大江はそのときの様子を想像する。うららかな天候の下、ギー兄さんはおしゃれをして"テン窪"の真ん中でうたた寝をしている。そんなギー兄さんに捧げようとオセッチャンたちは花を摘んでいる。美しいヒカリも若いオユーサンも楽しそうにそれに加わって作業している。大江もギー兄さんの隣に寝そべっている。……この小説はすべてギー兄さんへの手紙であり、大江は死ぬまで何度でもギー兄さんへの、懐かしい年への手紙を書き続けるだろうと想像する。
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