- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062066914
作品紹介・あらすじ
静寂と孤独を心から楽しむ、フィンランド多島海での短い夏の日々。北欧ファンタジーの傑作「ムーミン」の作者の香り高い短編集。
感想・レビュー・書評
-
少女ソフィアとおばあさんの日常を綴った物語です。舞台はフィンランドの湾に浮かぶ多島群の中の小島。著者自身、30年近くバルト海に浮かぶ小島で暮らしていたことは、映画や書物で紹介されているので、ご承知の方も多いと思います。
このお話にはモデルが存在します。ソフィアの父親がトーベ・ヤンソンの弟ラルス、おばあさんは画家であった著者の母親、ソフィアは姪っ子(ラルスの娘)なんだそうです。その他の登場人物についても、著者の身近な人々とエピソードがもとになっていると思われる箇所が、いくつか見受けられます。
毎年夏の間、ソフィアの家族はフィンランドの多島海域にある小島で過ごします。物語は母親を亡くした幼い少女ソフィアとおばあさんを中心に描かれますが、その距離感が絶妙です。おばあさんは、少女を対等な立場で扱います。気遣いながらもケンカしたり、助け合ったり、反発しあったりするふたりの姿が、ときに優しく、ときに辛辣に描かれています。
これは少女の夏の想い出話でも、ありふれたほのぼの家族の物語でもありません。人生の終焉にさしかかり、老いと死に向き合っている祖母と、まだ人生を始めたばかりの少女の瑞々しく鋭敏な感受性、人間の営みと自然の驚異、不便さ、素晴らしさなどを対立させることなく、うまく調和させて、同時に描き出すことで、作品にさらなる深みと美しさをもたらしています。また、物語全体になんとなく漂う孤独感は、著者の代表作〝ムーミンシリーズ〟にも通じるものがあるような気がします。著者自ら〝わたしの書いたものの中で、もっとも美しい作品〟とおっしゃっているとおり、とても味わい深い一冊でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ムーミンシリーズでおなじみのトーベ・ヤンソンの小説です。ムーミンは一通り読んでいたので、未読の本を選んでみました。
母を亡くしたばかりの少女ソフィアと父と祖母との夏の家での日常が描かれてます。登場人物の3人はそれぞれトーベの母、弟、姪がモデルです。
最初ある特定の夏の話かと思ったが、幾度かの夏が描かれ、しかも時系列は整っていないようです。おそらく母親が亡くなった直後はソフィアは5つか6つ位、話によっては反抗期の時期もあって11〜12歳位になるのでしょう。何分そういう事ははっきり書かれていません。
一番最初の話から、すっかり気に入ってしまいました。
「おばあちゃんはいつ死ぬの?」
「もうすぐ。でも、おまえには関係のないことよ」
このおばあちゃんが実にいい。
日本のおばあちゃん達のように孫をベタッ可愛がりしない。そっけなく突き放し、でも温かい目で子どもや孫を見守る。
大人だからとか女だからとか一家の主婦だからとか、そんな事にいちいち囚われず子どものように自由。ソフィアとおばあちゃんがやる遊び、特に想像力を生かした遊びがとつも楽しそう!
何もない閑静な環境で暮らし、個を尊重しあう人々の姿がとても素敵だ。ムーミンとは違い現実的なので比較的誰でも読みやすい作品だと思う -
人生の扉を開けたばかりの少女ソフィアと、人生の出口にたたずむ祖母。カバー扉に書いてあったこのフレーズにやられた。
描写がとてもきれいで、ゆっくり読みたくなる本だった。
ムーミンも好きだけど、トーベさんの他の本も読んでみたくなった。 -
感受性の強い少女と、友人のように対等な視線で彼女を見守るおばあさんの物語。こんなふうに互いを尊重し合える関係は稀で、奇跡のようだと思う。この本の中の北欧の夏は常に涼しい風が吹いているように感じた。二人の濃密な、でも風通しの良い関係が北欧の夏を背景に描かれる。この空気を味わいたくて、何度も読んでしまう一冊。
-
2020.4
島で暮らしているおばあちゃんとその孫娘。島の大自然の中での暮らし。ソフィアにとってはただひとりの遊び相手。ソフィアとおばあちゃんは対等に遊び対等に言い合い、でも心の中では頼るし心配もする。親とは絶対に作れない関係。この思い出は尊い。 -
トーベ・ヤンソンは子供時代、そして50歳を過ぎてから約30年間、夏には無人島の小屋で過ごしていたので少女ソフィアとはトーベ自身がモデルなのかと思っていたら、弟ラルフの娘であり、トーベにとっては姪にあたります。
ラルフの娘ソフィア、そしてトーベの母シグネがこの物語の主な登場人物(パパも出てくるけどたいてい仕事をしている)。ラルフ一家はトーベの島から5キロほどのところにある別の無人島で夏を過ごしていたそうで、フィンランドではめずらしいことではないようです。
5キロしか離れていないとはいえ、トーベと弟ラルフが同じ島には住んでいないところとか、ラルフ一家もおばあちゃんは客部屋で、ソフィアは家から少し離れたところにある遊び小屋やテントに寝ていたり、なんというかみんなそれぞれが孤独な距離を保ちながら独立している。
おばあさんシグネと孫娘ソフィアは年齢が80歳ほど違うのですが、基本的に対等であり、いつも一緒にいても干渉しすぎず、お互いを尊重しているといった感じの距離感。
シグネ自身、有名なアーティストだったので、少し独自の感性をもっているようなところがあるんですが、孫娘の質問に時には真摯に、めんどうなときには適当に答えてる感じが良い(適当に答えているのはむしろ孫を特別ではなく、同等に扱ってる感じがします)。
島の風景、より死に近いところにいるおばあさんの死生観、子供らしい目ですべてを新鮮にとらえているソフィア。二人は対称的なのではなく、違う音が和音を生み出しているような、散文詩のような美しい小説です。
(1990年の放映の『楽しいムーミン一家』はトーベ自身が監修しているはずですが、最近のムーミンバレーパークやキャラクターの大安売りを見ていると遺族の著作権管理が悪いのではと思っていたんですが、ウィキによると現在50歳代になっているソフィアが著作権管理をしているようで、なんとなくこのへんは残念です。)
以下、引用。
「おばあちゃん、いつ死ぬの?」
と、子どもがきいた。
「もうすぐ。でも、おまえには関係ないことよ」
苔は、一度ふまれただけなら、雨が降れば起きあがる。二度めには起きあがれない。三度ふまれたら死んでしまう。
南西の風が吹く日には、一日が、なにも変わらないで、なにも起こらないで、すぎていく気がするのだった。
(この子が、もうすこし大きければ……)おばあさんは思った。(できれば、もっとずっと大きな子だったら、『あんたがどんなにたいへんか、わたしはよくわかってるよ』って言ってやれるんだけど……。そう、『こんなにしっかりとまとまっている集団の中にポンとほうりこまれたら、どんなにつらいか、わかるよ』って。
「天国ってどんなの?」
ソフィアがきくと、おばあさんが、
「あの牧草地みたいなものだろうね」
と答えた。
「ソフィア、これはね、けんかをするような問題ではないんだよ。おまえにだって、わかるだろう? 人生はそれでなくとも、つらいことだらけなんだから、そのうえにあとで罰を受けるなんて、とんでもない。とにかく人間はみんな、死んだら、らくになるべきなのよ。要は、そういうこと」
「ねえ、おばあちゃん。わたしはね、なにもかもうまくいっていると、ときどき、死ぬほどつまらなくなるの」
「愛って、変なものね……」
と、ソフィアが言った。
「だれかがだれかを愛すれば愛するほど、相手は、ますます知らんぷりするのね」
「考えていたことってね、どんな思い出も、心の中で色あせて、そのうち忘れてしまう。昔あんなに楽しかったことも、いまでは楽しくもなんともない。……そう思うと、むなしくてねえ。なんだか、自分が恩知らずのような気がして、せめて思い出話ぐらいできないものかしら……って、考えてたんだよ」
ある社長さんが、岩の小島のユリカモメ島に別荘を建てた。けれども、はじめのうちはそのことについて、だれも話そうとしなかった。いつのまにか長い時間をへてできあがってきた習慣で、気に入らないことは、とるにたらないふりをして無視することになっていたのだ。無視していても、みんな、別荘のことは十分意識していた。
「どっちにしろ、桟橋はつくるだろうね」
「どうしてわかるの?」
「まったく、おまえという子は……!」
と、おばあさんが、いらいらしながら言った。
「だれだって人間は、まちがったことをしてしまうものなんだよ」
そのうえ、できあがった凧は飛んでくれなかった。まるで自分で自分をこわしたがってるとしか思えないほど、何度飛ばそうとしても、地面にむかってまっすぐ突進してくるばかりだった。そしてあげくのはてに、湿地の沼の水面めがけて、とびこんでいった。
(自分で自分のことさえも決められないものは、鉢植えの植物だってなんだって、おなじことさ。けっこう世話がやけるんだ……)
『小さな生きものたちがいるのは、とても厄介なことです。わたしは神さまが、小さな生きものたちをお創りにならなければよかったのにと思います。そうでなければ、小さな生きものたちが、〝ここにいます〟と言えるか、はっきりとした顔があるように創ってくださればよかったのにと思います』
『小さな生きもので、もっともいやなことは、どこにでもいることです。小さな生きものは、ふみつぶしてからでないと見えません。ふみつぶしても見えないこともあって、ふみつぶしているということを知っているだけで、心が痛むのです。』
「気づかないうちに、日ごとに夜が暗くなっていたのだ。そして八月のある夜、用たしに外へ出ると、思いがけなく真っ暗になっていて、あったかくて暗い偉大な静寂が、家をつつみこんでいた。まだ夏がつづいているのに、その夏にはもう生気はなく静止しているだけだし、秋だって、やってくる用意もできていない。」
-
北欧の人々は短い夏を満喫するために長期の休みを取り、森や湖に出かけて自然の中で過ごすのが一般的であるようです。また、バルト海には小さな島々が多く存在するので、島にあるコテージで過ごす人たちも多いようです。
この話の舞台もそんな小島でのひと夏となっています。主な登場人物は主人公のソフィアとパパとおばあさんの3人で、おばあさんとソフィアのやりとりを中心に、島で出会った人や起こったこと、感じたことなどが飾らない文体で綴られています。
ヤンソン自身も一年のうちの数か月を島で過ごしていただけに、その生活ぶりや自然の描写などが素晴らしく、情景がありありと浮かんできます。
こんな夏休みを過ごしてみたいと思う作品です。
イカ☆リング -
へのへのもへじ文庫で借りた本。似た装幀の『彫刻家の娘』は知ってたけど、こんな短編集もあったのか~。本の帯には、トーベ・ヤンソンの写真と「静寂と孤独を心から楽しむ、フィンランド多島海での短い夏の日々」とある。
少女ソフィアと祖母は、それぞれトーベ・ヤンソンの姪っ子(ムーミン漫画を描いていた弟の娘)と母がモデルだそうだ。フィンランドの多島海(約3万の島があるという)に浮かぶ小さな島で、高緯度の短い夏を過ごすソフィアとパパとおばあさん。巻末には、トーベ・ヤンソン自身が毎夏を過ごしていたという島の写真があって、その写真を見ながら、おばあさんとソフィアはこういう島で、歩き、遊び、けんかをしたのかと思った。
70の歳の差があるというふたりの関係は、年長だからといばることもないし、年少だからと適当にあしらわれることもないし、どちらかがどちらかの言うままになることもない。読んでいてかなりおもしろい。
岩をのぼって裂け目のほうへ進んでいくおばあさんに、ソフィアは「そっちは禁止!」とパパに言われていることを言うのだが、おばあさんはこんなふうに答える。
▼「知ってるとも。おまえもわたしも、岩のさけめへは行っちゃいけないんだけど、パパはまだ眠っているから、わかりっこないんだ。行こう行こう」(p.10)
こんな調子で、おばあさんとソフィアは夏の日々を過ごす。ふたりでボートをこいで「私有地 上陸禁止」と立て札のある他人の島へあがりこんだこともある。
そのときには立て札を見たおばあさんはひどく怒っていた。「えらいちがいなんだよ。ふつうなら、他人さまの島に上陸したりしやしない。なんにもなけりゃあね。でも、立て札を立てたとなると、そりゃあ上陸もするさ。だって、あれではまるで挑戦状だからね」(p.154)と言い、ボートを立て札につないでソフィアにこう言った。「いま、やろうとしていることはね、デモンストレーションなんだよ。つまり、意にも介してないってことを、見せてやるんだ。わかるかい?」(p.154)
ふたりは、島の別荘に「家宅侵入」もする。そこへ、島の主の社長さんの船がエンジン音をたててやってきた!おばあさんとソフィアは、島の奥にむかって大急ぎで歩き、這って若木の茂みにもぐりこんだのだが、社長さんの連れてきた犬にわんわんと吠えられて見つかってしまう。
「自然の中にいると、人間は自分をとりもどせます。おとなりどうし、これから、なかよくやっていこうではありませんか…」(p.162)と社長さんは言い、その別荘にふたりも一緒に向かうのだが、先に「家宅侵入」したときにネジをはずした南京錠が置いてあり、おばあさんは「好奇心なんですよ」と弁解する。島ではかぎなどかけないのに、かぎをかけてしめきってしまうと興味をかきたてられてしまうのだと。
そんなこんなの夏の日々をいろどるように描かれる島の景色を、フィンランドがわからないなりに想像した。たとえばこんな箇所は、3月の終わりに買ってときどきながめている『スキマの植物図鑑』のことをちょっと思い浮かべながら。
▼海にうかぶごく小さな島には、土のかわりに泥炭しかないことを、ソフィアは知っていた。泥炭には、海藻や砂や、肥料としては最高の鳥の糞がまじっているので、小島の岩のすきまには、植物がよく育つ。毎年数週間、岩のすきまが花ざかりになり、その鮮やかなことといったら、フィンランドじゅうさがしても、あんなにきれいな色の花はない。多島海域でも本土沿岸の緑ゆたかな島に住む人たちは、気の毒にも、ごくふつうの庭に満足して、子どもには草とりをやらせ、自分は腰をいためながら水くみをしている。ところが海の小島なら、自分のめんどうは自分でみる。雪どけ水をすい、春の冷たい雨を受けたあと、ようやく夜露に恵まれる。乾燥期に見舞われても、来年の夏を待って花をつける。小島の植物だから、馴れたモノだ。根の中でしずかに"時"を待っている。(p.188)
話のなかには、時折、おばあさんの年の功を感じる洞察が描かれる。初めて島にやってきたソフィアの友達・ベレニケの存在が、「いつもどおり」のあたりまえの島の暮らしが、それはそれでみごとな調和を保っていたことを気づかせたとき、そんな「自分たちだけの世界」によそ者が入りこめるすきまなどなく、ベレニケが本当にこわいのは、海でもアリでも風でもなくて、人間たちなのだということを、おばあさんは思う。
▼(この子が、もう少し大きければ…)おばあさんは思った。(できれば、もっとずっと大きな子だったら、『あんたがどんなにたいへんか、わたしはよくわかってるよ』って言ってやれるんだけど…。そう、『こんなにしっかりまとまっている集団の中にポンとほうりこまれたら、どんなにつらいか、わかるよ』って。
ここの人間たちは、ずっといっしょに暮らしてきて、身内どうしの親密さの中で生きている。慣れ親しみ、知りつくしている場所で動いている。そんな自分たちの流儀がほんのすこしでもおびやかされるとなると、ますます強く団結するだけなんだ。島は、外から近づいてくる者にとって、たぶん、おそるべきところなのにちがいない。すべてができあがりきっているし、みんな自分の場所が決まっているし、それぞれ安定していて満足しきっている。波うちぎわの内側では、あらゆる営みが習慣化されていて、何度もくりかえされてきたために、びくともしないものになっている。そのくせ、まるで世界は水平線のところまでしかないというふうに、気ままで、なりゆきまかせに、一日からまたつぎの一日へと、すごしているんだ…)
(p.48)
おばあさんが牧場で歌ってきかせた「モウモウさんの フン ララフン」「モウモウさんの ウン ラランコ」というバッチイ歌には笑ったし、とにかくこの夏の話はおもしろかった。
(5/30了) -
少女ソフィアとおばあさんの島での日常。
すぐに癇癪をおこすソフィアと、それを受け流すおばあさんの対等な会話がすごく良い。