アメリカの夜

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 79
感想 : 11
  • Amazon.co.jp ・本 (166ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062071734

感想・レビュー・書評

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  • 最初の一文「ブルース・リーが武道家として示した態度は、「武道」への批判であった。」がこの本の底辺に流れる作者の意図をうまく言い表わしていると思います。

    最初、長く複雑に修飾された文章は、意図的だと思いますが、読み手をあえて選んでるように思います。
    読み進めると、どこまでが現実でどこからが頭の中の出来事かわからなくなるような感じがしてきました。
    そんな一種浮遊感の中、最後の方で本のタイトルの意味を明かす所で、今までのモヤモヤ感が一掃されました。

    かなり癖はありますが、作者デビュー作でおすすめの本です。

  • 物語はブルースリーに対する引用を交えた考察から始まり、長い時間をかけて旋回するようにラストへ向かう。この小説の面白いのは、その時間感覚だ。理想、現実、虚構、夢、夜や昼が全て同じ平面に並べられているような、並べるような書き手の感覚。しかしラストはちょっとした跳躍を見せる。それは漠とした可能性を孕んでいるとともに、酷く安っぽい、文学としての表明だ。

  • 阿部和重さんのデビュー作を読んでみた。神町を舞台にした『シンセミア』や『ピストルズ』で強烈な印象を残している僕の好きな作家だが、このデビュー作でも彼の最近作の文体に近いものを感じさせる。阿部和重さんの作品になじめない人は物語というより、かれのSheets of wordsとでも言うべき、機関銃のような言葉の羅列によって語られていく物語に息苦しさを感じるのではないかと思っている。この作品は彼の自伝的要素も少しあるのでは。彼は日本映画大学を出ているらしいが、小説の主人公も映像の人間から文字でコミュニケーションを司る人間に自分を変えるんだとして、苦しんでいるのだが、これは多分本人の経験から来ている話だろう。ブックオフで200円だったが十分に楽しめた。ブックオフオンライン使い勝手よしです。

  • 非常に面白かった。以下、気に留まった部分の引用とコメント。

    ”彼は一瞬にして、虚構と現実の間にある境が消滅してしまうといわれるような、距離感覚が極端な混乱に陥った状態となり、あからさまにうろたえてしまうという有様なのであった。”

    主人公の恋愛が始まるときの描写。面白い。

    ”それがほんとうの経験であれ嘘にすぎない架空の話であれ、等しくおのれを「特別」なものへと仕立てあげねば気のすまない身のうちでたえずはたらきつづける欲望によってつき動かされて語られていることにかわりはなく、その欲望がそれぞれの行為じたいを可能にしているのであり、自分も同様であると、唯生(注:主人公の名前)はおもうのだった。”

    ”にせの「特別」なもの、イメージの「特別」さが、じつはどこかにあるはずの真の特別なものをあらゆる場で陰へ追いやろうとしているようだ。”

    主人公は上記のように考え、「にせの『特別』なもの」を否定し、それを象徴する「ガキども」と対決するのだが、結果として社会から孤立し、最後には「死」(これは作中で、ありのままの人間になることを指すと暗示されている)に惹かれる。そうして、最初に予告されていたように「哀しい」物語が完成するという構成になっている。

  • メタフィクショナルな構造に一瞬とまどったが、その手法を押し通して素晴らしい。
    同一である主人公、それを外から書く語り手。
    主人公から派生したと思わせて、書き手から派生した主人公であり、最後にはその主人公すら虚構に過ぎない。
    そう、虚構小説。つまり独白本。

    ブルース・リーの「型と実践」をめぐる堂々巡り、そしてそのある意味遠回りな理屈っぽさが、全体を言い表していると思う。

    単純に、好きだ。

  • 著者のデビュー作品。
    語り手=主人公=もう 1 人の自分という形式で、
    虚構の真実を求め、
    ひたすら自己批判・自己探求を繰り返す。
    意外に読み易い。

    フィリップ・K・ディックの K が、
    キンドレッドであると初めて知った。

    1994 年 第 34 回群像新人文学賞受賞作品。

  • 10/13
    とても実験的。

  • グランドフィナーレより全然好きだ。

    主人公中山唯生をもうひとりの中山唯生が見つめていて、バイト先で暇なときに読んでいる読書と、それを書き留めたノートと、現実生活をリンクさせるように論文調に書かれている。

    最初に「ブルース・リーは〜」って出てきたときは、ああ私にはダメなタイプの話かなぁと思ったけど、読み進めるうちにどんどんのめりこんでいった。

    中山唯生は「気違い」になりたくて奮闘するお話。ちょっと大江健三郎の香りがした。

  • 読みなれるまでに時間が掛かったけど

    その後のスピードは爽快だった。

  • わりと期待して読んだ「シンセミア」は面白いことは面白かったのだが、あまり感心できず釈然としない感情が残ってしまった。そんな訳で、敵討ち、といっても誰の敵を討つのか判然としないのだが、とにかくこの借りは返して貰う、というつもりで、阿部和重をもう一冊読むことにする。それが「アメリカの夜」だ。アメリカの夜というタイトルは映画が好きな人なら誰でもすぐにぴんと来るだろうが、フランソワ・トリュフォーの映画のタイトルである。アメリカの夜というのは、実際には昼なのに露出を絞って全体を暗くし夜の場面を演出するという西部劇などでお馴染みの映画の手法だ。当然昼間なので、ものには影があるし、つまりアメリカの夜はいつでも煌々とした満月の夜なのだ。

    どこかのウェブサイトで阿部和重が、一人称で小説を書くというやり方はこの「アメリカの夜」で書けるところまで書き尽くした、というようなことをインタビューに答えているのを目にしたことがある。そういうと、とても単純に聞こえるけれど、実際にこの本を読み始めて、何度か最初の頁の書き出しの所へ戻ってみたくなる気持ちを押さえ切れなくなる人は少なくないだろうと思う。いったい誰が話しているのか、それともその独白は主人公が読んでいる別の物語の中の独白かなにかなのか、と疑問に思い確かめずには居られなくなるのだ。読むもののそんなとまどいになど一切おかまいなしに、主人公らしい人物は自分の心の奥にあるものを吐露し続ける。それはまるで、さっき出会ったばかりの人に急に人生の意味について話を聞かされるような、すこし危なげな気配すら感じる状況である。カルト的な雰囲気がする。

    どんな趣味の集いでも多かれ少なかれある雰囲気だと思うが、当事者同志には今語られているものに対するある程度の共通認識があり、そのことに関する再定義などなしに、一足飛びに自分たちの心を占めている関心事に向かって全速力で走り出す、という状況があると思う。オタク的雰囲気だ。当然のことながら、オタク的と見なすのは外部のものの視点で、何故なら、外部のものには当事者の切実さが未知のものであり、何についてどう語り合っているのか全く理解できないために、その集団の存在そのものを異質なものとして拒絶する、あるいは蔑むようにレッテルを貼る心理が、オタク呼ばわりであるからだ。阿部和重の「アメリカの夜」にはその雰囲気が溢れている。

    オタクとレッテルを貼られた側にも実は排他的な心理はある。いやむしろより多くあるといった方がいいかも知れない。彼らは自分たちの中に生じている同志意識を盲目的に認識している訳ではない。むしろ自分に似ている相手の内にある真実を、冷静に判断しているのだ。しかし似ているからこそ反って全面的な信頼をし難いという矛盾した気持ちも抱いている。自分以外を認めないという心理だ。その構図がこの本にはある。秋分の日生まれの主人公は、似て非なる春分の日の象徴する「昼」を憎もうとする。それはまるで鏡に向かって戦いを挑むようなものであることに徐々に気付く。

    鏡といえば、自分を見つめることというのは鏡を見つめることに例えられる。自分は鏡の中に、自分、を認識する訳だが、それは「鏡映の自分」であり「真実の自分」ではない。いかに自分のこととはいえ、自分の考え、気持ち、気分、そのようなものを全て把握して、あたかもカウンセラーのように第三者的観察から結論を下すことなど、できようはずがない。そのことを阿部和重はしつこくしつこくこの本の中で語っているのである。しかし、鏡映を真実と見なす方法もある。それは狂気だ。鏡の中に真実を見てしまうことだ。そのことが、それ程突飛なことでは無いゆえ、そのこと全般から感じる背筋が寒くなる感覚にぞっとする。鏡は抽象的な鏡であってもよいのだ。例えば、それはパソコンの画面であっても。自分を見つめ過ぎることはそんな狂気が入りこむ危険性を孕んでいる。

    鏡の中の自分と鏡を見ている自分という関係が、この本の中では中山唯生という主人公と、エスと呼ばれる鏡映の自分との間にあることが読み進めている内に理解されてくる。それは、夜と昼、というような対立する関係であると同時に、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのような主従の関係でもある。いやむしろ主従の関係であるべきなのだが、エスという唯生が作り出した別人格は、唯生のことをこの本の中で語っている一人称でもある、という関係になっており、主従の逆転が起こっているのである。そのことでどちらが鏡の中の自分であるのかが不明になる。その不明な感じが背筋をより寒くさせるのだ。

    あたかも自分のことを語るだけで成り立っているような小説でありながら、その中に登場する実在の友人たち、それが唯生の友人であるかエスの友人であるかはおいておくとして、を巡る話が挿入されることで、この本のテンポは格段によくなっている。自分のことだけに強い関心がある主人公と、その友人たちのやり取りだけで物語は十分に動いていくのだ。しかし、あくまでその物語とて主人公によって語られているのであって、妄想でないと言い切れない余韻も残っている。主人公がそれとなく匂わすように、アルバイト仲間であった筈の人々は最初からそこにいたのだろうか、ふとそんな気になるのだ。すると、これは、本を読みながら多目的ホールの受け付けのアルバイトをする主人公がほんの一時見た夢の物語であるのかも知れぬ、という気にさせられるのだ。

    映画「ラ・マンチャの男」でドン・キホーテを演じていたアロンソ・キハーノが、夢からさめるとそこは依然として牢獄の中であったように、自分を探しに自分の中へ入り込んでいっても戻って来る場所はドン・キホーテではなくて、アロンソ・キハーノとしての現実なのだ。映画はそこでハリウッド的希望的観測、つまり夢は見続けることで現実となる、というような印象の終演を迎えるが、現実はあくまで現実であり、「アメリカの夜」のように偽りの夜を夜と認めることは、最終的にはできないものだ。その偽りのものである「小春日和」に決別することで、主人公は鏡から目を逸らす決意をする。映画の終わりとは全く逆の方向に結末を持っていきながらも、そのことに対して観客の抱く感想が驚くほど同質のものであることに、軽い衝撃を受ける。阿部和重くん、こんどは少し感心したよ。

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著者プロフィール

1968年山形県生れ。「アメリカの夜」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。『グランド・フィナーレ』で芥川賞、『ピストルズ』で谷崎賞等受賞歴多数。『オーガ(ニ)ズム』『ブラック・チェンバー・ミュージック』

「2022年 『Ultimate Edition』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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