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本 ・本 (188ページ) / ISBN・EAN: 9784062071741
感想・レビュー・書評
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こんなにも美しく純粋な文学があるのか、そしてこういうものが芥川賞を取ったことがあったのか、と初読時は驚いた。
この作品には分かりやすいストーリーはない。そもそもストーリーは意味を持っていない。作中にて描かれる事象のひとつひとつが文学の構造の説明であり、同時に構造の作用として走っている。
教授の嫌味をその意図とは離れて字義通りに捉えて天啓と受け止めるのは「読み手の解釈の中に作品がある」とする鑑賞形態であろうし、読み手はこの作品を(作者の意図とは離れて)自由に解釈することができる。また、ある言語から別の言語に移すことによってようやく書くことができる「ロシア字日記」は文学作品の(主語を大きくするなら創作物の)姿であろうし、つまり作中で「ロシア字日記」を読む主人公は、作者のロシア字日記たる本作「おどるでく」を読む読者の姿となる(感情移入をするしないの問題ではなく、鏡を見れば自分の像が映るように、構造上そうなるのだ)。作中では、様々なエピソードの姿を取って理論や構造など「文学」そのものの話が主人公によって語られる。それは読者にとっては、エピソードでありしかも解説である。そのとき読者は、小説を読んでいると同時に解説を読んでいる、しかもその解説されている内容を体験している、という稀な経験の只中にいる。文学読解に関する新書や講義ではなく、小説でなくてはならない理由がここにある。理論を学ばせるのではなく直接体験させるこの技量。これを美しいと言わずして何と言うのか。これを純粋な文学と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
こんなものを書き上げて発表した作者の、読者への途方もない祈りのごとき信頼に切なくなる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
最初はとっつきにくいと思ったけど、単行本併録の「大字哀野」を読んで文体になれるとけっこう楽しんで読める。
これもLost in translationというか、語学愛をこじらせてしまった系かな。 -
1994/8/8
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1994年上半期芥川賞受賞作。室井光広は初読。表題作の存在も知らなかった。読む前は、ひらがな表記のタイトルは漢字をあてれば「踊る木偶」であろうと、朴訥な主人公の農民文学のようなものを想像していた。結果的には全く違っていて、実に難解な小説だった。「おどるでく」の実態は、カフカのオドラデクのようでもあり、またそうでもなく、結局は判然としないままに終わるのである。そもそもロシア文字を用いて書かれた日本語の日記も、小説中に鏤められたオラショ等の数々のモチーフも統体としてのメタファーとしてしか了解できないのだ。
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さっぱりわからない。意味不明。わかる人にはわかるのか?なんだか読んで無駄な時間を費やした感じがした。やれやれ。などと感じられただけでもよしとするか。。。
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ゴメン
分からん。
何を書いているのか、何を書きたいのかサッパリ分からん。
「言葉」に対する強い興味というか、こだわりはものすごく感じる。
そして、結構ユーモアのセンスを持っている。
ただ、一般的ではないので、皆気付かないと思うが。
彼の書く文章に強くシンクロする読者はいるのだろう。
だが、それは彼が知っているように多くはないな。
残念ながら、その限られた読者の一人にぼくは入らないので、ただ単に活字を追っただけだ。
これは厳密な意味で、読書ではないだろう。 -
古びた日記から様々な情景が複層的に浮かび上がってくる。知識と抑制された文のテンポは良い。しかし、屋根裏や蔵の中は空間的な制限を跳躍する力がある。おどるでくが人々の活動を見守りつつ、記憶を呼び覚ますような立ち位置で、時間を跳躍する働きを持つのである。
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アトガキにも書いてあったけれど、「知識」を利用している。私には物語がどうこうというよりも、文字や外国語といった言葉におこるブレを利用して言葉と意味の間に入っていこうとする試みのように思えた。
著者プロフィール
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