ドン・キホーテの「論争」

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 37
感想 : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062099141

作品紹介・あらすじ

マスコミVS「純文学」。最前衛の文学的レジスタンス、それは極私的言語の戦闘的保持。戦闘的「純文学」エッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 好きになった作家の作品はわりと全部制覇したい派なので、長年かけて地味にコツコツ笙野頼子を読んできたのだけれど、小説関連はいよいよ読みつくしたので、最後に残った論争関連本2冊にようやく着手。

    こちら怒れる純文学作家・笙野頼子の「論争」関連エッセイのまとめ本だが、1999年のものなので、ごく初期のもの。この後も延々、次々と現れる新しい「論敵」との戦いが続くわけだけど、この段階ではいったん終結している。

    発端は、1998年4月の読売新聞で、Uという記者が書いた「文芸ノート」という文学コラム。付録として巻末に、この記事その他論争の的となった同記者のコラムがいくつか掲載されているので目を通したけれど、なるほどこれは怒っていい、という気持ちと、これくらいスルーしてもいいのでは…という気持ちが正直半々。でも笙野さんが怒る気持ちもわかるし、難癖ではなく「論争」に持ち込むことには意義があったと思う。ただし、このU記者は、すべてスルーしたようだ…。

    その他、文藝春秋誌上での、三人の直木賞作家=林真理子・浅田次郎・出久根達郎による座談会(を引用したUのコラム)などもかなり酷い。こういう「引用」記事は、原文の意味を自分の都合の良いように解釈した記者の主観が入っているので余計に厄介。この三人の座談会はまだしも、勝手に純文学叩きに(誤読で)引きあいに出された柳美里、高村薫にいたっては完全にもらい事故。ちなみにこのお二人はきちんとUに対してエッセイなどで反論されているようだ。

    その後長く最大の論敵だったイメージの、大塚英志への批判も出てくる。簡単に言うと彼の主張は「売上至上主義=純文学は売れないからいらない」だ。こういう人間が出てくること自体もだけど、それをのさばらせてありがたがるマスメディアのありかたのほうもかなり問題ありと感じた。

    そしてそもそも「純文学」とはなんだろうと考えさせられた。純文学は芥川賞、娯楽作なら直木賞、みたいなざっくりとしたジャンル分け、だんだんボーダーレスになってきているのは事実だし、読者にとっては「好きなものを読むだけ」で、ジャンルなどはどうでもいいというのは現実でもある。

    でもだからといって「じゃあ純文学いらないよね」とはならないし、いち読者としてはただただ「自分の好みの本を読む幸せ」を守るために、「好きな作家が書きたいことを書いてくれさえすればいい」だけで、私は笙野頼子の本を読みたい+笙野頼子は純文学を書きたい=純文学守るべし、という単純な思考回路となる。とはいえいち読者に出来ることは、新刊が出たらちゃんとお金を出して買うことくらいしかないのですが…(それも経済状況によってはできないことも多々ある)

    「J文学」についても書かれているが、そういえば90年代にそんな言葉あったなあ!と懐かしく思い出す。たぶん河出書房ですよね、提唱しだしたの。その他、笙野さんの新聞での書評連載も収録。

  • 純文学をよく知らない癖に馬鹿にし、否定する者たちに闘いを挑んだ記録。
    今でも純文学というジャンルが残っているのは、著者のおかげかも、と思う。

    闘った相手について、
    「例えば彼らに特徴的なのは知識の欠落したままする実体のない一般論、そして自分に都合のいい自作の用語定義とそれを使ってする少数者攻撃です。その時に表すファシスト丸出しの異様な被害者意識や、安手の過激フレーズを考えなしに使いたがる心の弱さ」
    と書いていて、現在もそういう人物はいるな、と思った。

    他にエッセイや書評もあって、時代を感じて面白い。
    「ストーキング」という言葉は当時出てきたばかりだったんだな、と思った。

  • 笙野さんは、一体何と戦っているのだろうか?ということを読んで考えた。
    いつも何かと戦っている感じを受けるのだが、戦う自分のことをけっこう客観視しているような高い批評性(とでも言うのか?)が文章から感じられる。
    これは評論を集めたもの、ということもありいっそうそれを感じる。

  • 『徹底抗戦!文士の森』を先に読んだのでこちらも。純文学とマスコミがテーマのエッセイ集。読者全体に及ぼすマスコミの影響や責任感を全く考えずただセンセーショナルの嘘やふかしを垂れ流す事に著者は怒る。先行世代が沈黙し続けた事や、今でも現状認識が甘い一部巨匠の発言にも遠因があり、彼等の負債を今私達が負わされていると書く。全く正論だと思う。以前浅田彰の目を覆いたくなる様な論評を読んだ時に「J文学」なる語を初めて知ったが、意味がやっとわかった。「私にケアルガなんてかけるな!」的な笙野さん、大好きです。

  • 2009/10/1購入
    2009/10/27読了

  • 笙野頼子「徹底抗戦!文士の森」河出書房新社 を一気に読んで、この本の前に発生していた論争を描いたこの本を中古で探して入手しました。

    んが。なぜか読みはじめる事が出来ず。。。うむー。
    いつか読んでやるぞー!!(握り拳)

  • マスコミVS「純文学」。最前衛の文学的レジスタンス、それは極私的言語の戦闘的保持。戦闘的「純文学」エッセイ。

  • あんまり詳しくないというか、話したくないというか、考えるのが面倒臭いというか、あたしにはそういう類の話である。「純文学」というヤツの話である。
    大筋は、新聞の「文芸時評」に書かれた、口当たりのいい純文学非難であった。ハッキリ言ってしまえば、それは純文学不要論、純文学意味無し、純文学死ね、である。それに対する笙野氏による反論、及び論争を「エッセイ」として書いた「論争・反論」を一冊にまとめた本。あたしはその、純文学云々というモノの論争には、あまり興味がないのだけど、これは誰かが書くべきテーマであるのかも知れないなー。

    「サブカルチャー」っていうモノが一定の地位を築き上げた現在、純文学だとか、古典美術だとか、クラシックなモノへ、どうしても胡散臭さを大衆に与えてしまう。ただでさえ、取っつきにくく、分かりにくく、話のネタにもなりにくく、またエンタメとしては存在しない純文学であるし、それに対して大衆文学へのハードルの低さが拍車をかける。ただ、それはそれ、読者というのが居なければ、小説家が成立しないという、絶対的理論を掲げるマスコミに対して、作家達は自分の作品を売るという方法でしか対決出来ないと言うジレンマがある。一部のマスコミが純文学を否定するのには、根強い『数の論理』があり、消費システムというものから逃れることのできない現代人の宿命があるのだと考える人は多いであろう。売れる物を書く、という事に対して、売れなくても書くという姿勢は、あまりにも投げやりで自意識やプライドばかり高い作家の我が儘に見えないこともないのだが、しかし本来の小説の意義とは一体何か。作家には、「書きたいモノ」がある、それは間違いない。
    本を売る為に書き始めるという作家も、今では少なくないのかも知れないが、そういった主旨で書かれたモノなど結局消費されれば消えて無くなってしまう希薄なモノでしかないだろう。それでもやはり、売れることを追求し、より多くの人間に読ませるという事が目的であると、ハッキリ断言してしまっている出版業界というのが、作家と対になって存在している以上、避けて通れないモノなのではないだろうか。作家が自分の書きたいモノを書くタメには、作り出されたモノを買う人間が必要になってしまうし、そのためには、作家本人の思惑外の作品の制作も、致し方ない場合があるだろう。あたしは、それが大衆文学のきっかけになってしまったのではないかと、ちょっと思っている。

    しかし、売ることを目的に書かれた作品を、頭から否定するというのもおかしな事で、実は読んでみたらとても良い作品だった、ということが大いにあり得る。最近の傾向として特に思うのが、作品そのものは、明らかにエンタメ作品で、大衆文学であるのだけど、その作品を読んでみるとそこには、様々な手法を用いて作家の思想が込められていることが良くある。例えばミステリという仮面をかぶった純文学、ファンタジーを使って口当たりを良くした純文学、学園ラブコメと称した純文学。売る為の手法を用い、それにも増して、作家の意志を強く感じる作品という存在を強く感じる。ただ単に面白おかしく、萌え萌え、というだけの作品が売れるのは、もう常識で、マンガなどを見てみればまさしくそのような作品の羅列でしかない。むしろ作家のオナニー的な萌え追求作品だけでも、数多く存在するし、読者も作者との萌えの共有を、好意的に受け止め、購入する。

    しかし純文学というのは、「純」である以上、そういった売れることを目的とした仮面をかぶせることを良しとしない。だからこそ、今現在、稀少となりつつあるのではないだろうか。それは決して間違いだとは思わないし、無くなってしまっては悲しいし、それだけは避けるべきだと思うのであるが、しかしだからといって、純文学だけを文学だと言う気もない。あまり普段考えることのない視点であり、また作家自身の言葉で書かれている所為か、とても真実みがある。しかし、この手の論争で良くあることだが、客観的な判断を保つには、両方の意見を同じ量だけ知る必要が、どうしてもあるな、と思わざるを得ないのだった。

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著者プロフィール

笙野頼子(しょうの よりこ)
1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。
81年「極楽」で群像新人文学賞受賞。91年『なにもしてない』で野間文芸新人賞、94年『二百回忌』で三島由紀夫賞、同年「タイムスリップ・コンビナート」で芥川龍之介賞、2001年『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞、04年『水晶内制度』でセンス・オブ・ジェンダー大賞、05年『金毘羅』で伊藤整文学賞、14年『未闘病記―膠原病、「混合性結合組織病」の』で野間文芸賞をそれぞれ受賞。
著書に『ひょうすべの国―植民人喰い条約』『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』『ウラミズモ奴隷選挙』『会いに行って 静流藤娘紀行』『猫沼』など多数。11年から16年まで立教大学大学院特任教授。

「2022年 『笙野頼子発禁小説集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

笙野頼子の作品

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