水の中のザクロ

著者 :
  • 講談社
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感想 : 2
  • Amazon.co.jp ・本 (199ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062099547

作品紹介・あらすじ

ああ、ゴクラク、ゴクラクやね。湯の中でほどけてゆく心と体、ケンコウランドで出会う女たちのさまざまな生の形。

感想・レビュー・書評

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  • 声が流れていると何も手につかなくなる。いらいらして、誰かを怒鳴りたくなる。でも声が聞こえなくなると、とたんに不安になる。妹の中でなにが壊れ、何を救えなかったのか考えてしまうんです。いまさらこんなことを言うなんて、本当にばかみたいだけど・・・・。ねえ、ありません?足元に割目が走るような気分。


    うまく言えないけど、私だって、ときどきは、ありますよ、いきなりもういやになること。理由なんかないですよ。突然、自分の中からこれまで知らなかった自分が起き上って勝手に歩き出しそうになること。そういうの、変ですかね。


    長くそこにいれば、踏みしめられて固まる場所と、少しずつ崩れていく場所がある。果物の皮の破れが、見る間に腐蝕を広げるように、人にも一点の染みが勢いづき、足元から黒々と広がっていく時があるのかもしれない。濁りが、美しく見える時だってあるだろう。


    私の脳裏を、これまで他人ごとだと思っていた失踪という言葉と、これも他人ごとだと思っていた失踪者たちの話が現実味を帯びて、いくつも通りすぎていった。


    「でもね、見せたくないものはあるわ。私、お腹と足の裏だけは人に見せるのはいや」
    またからかうような笑いがあり、やや大きな耳が耳をかすめる。「大丈夫、女は絶対にこういう場所は選ばない。大の字になる場所を無意識に決めているのよ」
    大の字でもいいのにと、見知らぬ女の声に意識の一部が反応する。


    「ああ、あなた、ザクロと言えば鬼子母神です。子の肉を食べたがる女の話。女だけではない、親は、みんな子の肉を食べるんです」


    みな私の知らない顔、秘密を隠した植物ばかりだった。ローズマリーは死者の墓標に飾られる花、ゲンノショウコは不老草、オキナグサは強心剤、可愛らしいキク科のカミツレは強壮剤。萓草の項では視線が止まったまま動かなかった。あの可憐な花に、強力な解毒作用があり、飲むと突然酔っぱらい、なにもかもを忘れてしまうというのである。それで萓草はワスレグサと読み、忘憂とも称すると小さな文字は告げていた。
     私は草の秘密を次々にあばいていく。同時に、自分の体が湯の中で吸ったであろう草の効用について考える。


    ある日の私は、パリの場末のカフェの木のテーブルに刻まれた、美しい文字を見ていた。「1944/8」。若い革命家たちのたまり場だったというそのカフェの、パリ解放のときの記念の文字だが、刻んだ人はわからない。モノクロの写真の中から浮かび上がるものに、温度を感じるのはこういうときだ。私はうっとりと文字を見ている。うらぶれたカフェを通りすぎた時間が、そのテーブルに座った人に「生きよ、闘え」という声を運んでくるのが聞こえるような気がするのだ。


    「ここを、人と歩くのは初めてです」とセンセイは前を見ながら言った。「人と一緒に歩いてみるとわかりますが、ひとりではたくさんは歩けないものです」


    「あの猥雑さ、汗のにおい、どこから来て、どういう職業なのかわからない人たち。競艇場もそうです。これまで一度も足を向けたことはなかった。私には禁欲や秩序だけが大事だったんです。橋はね、そういう私にとって、曖昧さのない唯一のものだった。でも、今は違います。妙なもので、一度裸になるとずっと裸でいたくなる。人の体はね、いろいろなものを、例えば家系や学歴や職業、財産の額や経歴をやたらくっつけて歩きたい欲張りな箱なんです。私もずっとそうだった。私はそういう箱に息子を飲み込んでしまった親なんです」


    「これから先は、一緒に散歩のできない場所。ああ、それから、今日の散歩が迷惑でなかったら、一度河口に行ってみて下さい。いいことがあるかもしれない」

  • 健康ランドっていったことないけど
    なんだか違う場所で寝るってのも
    面白そうだな。

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著者プロフィール

1950年生れ。『エンドレス・ワルツ』で女流文学賞、『声の娼婦』で平林賞、「海松」で川端賞、芸術選奨文部科学大臣賞、『半島へ』で谷崎賞、中日文化賞、親鸞賞受賞。2014年紫綬褒章受章。同年8月、逝去。

「2016年 『月兎耳の家』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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