作品紹介・あらすじ
思考の極みへ。表現の限界へ。言語の彼方へ。東大駒場の俊英教官たちが、教養学部学生を前に考え抜き、語り尽くした臨界点。
感想・レビュー・書評
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第2講は理解できない。
第1講では、思考の限界は即ち言語の限界であるとした『論考』が紹介される。
そして、言語表現の限界については、言語が世界の一部を切り取ってこれを示す記号である以上、思考しえない真実はこれに対応する言語を用意し得ないことから、言語には思考し得ない真実を表すことができないという限界があるといえよう(私見)。
歴史の物語性についての第3講は面白い。
"従来、マジョリティ中心の物語が、歴史が客観的・中立的なものと称されて、マイノリティを抑圧してきた。
これに対抗して、歴史とは、特定の視点から過去を振り返った物語であり、価値中立的なものではない、そうだとすれば、女性や少数民族など、被抑圧者側からの語りも尊重すべき、とする主張がなされている。
しかし、かかる主張は、歴史を文学に過ぎないとした点で、凡ゆる語りを相対化し、却ってマイノリティの語りを尊重すべき根拠を提示できないという弱点を有する。"
といった内容であり、その通りであろう。
第4講では、
オイディプス王とホセア物語を題材に、真理が多面的であり、したがってそれは差異の中に見出されるとする。裏を返せば、物事を一面的に見ると、真理から遠ざかるという話だ。
両作を、自己が否定されることを通して、従来の自己と異なるものに目が届き、もって真理に近づく、という筋で読む観点は、とても興味深い。
第6講では、
神学の発展に伴い形式化したイスラームに対抗して隆盛したイスラーム神秘主義が紹介される。イスラーム神秘主義は、修行の実践を通した神との一体化を目指す点にその特色があり、一体化時には最早主客の区別が消え、自己が即ち神となる。
ここで、神=真実と捉えれば、言語は前述した限界を有するところ、(厳密な意味での)真実は言語により表現不可能なもの=語りえぬものであることに着目し、真実へのアプローチとして言語表現以外の手段を追求する点で、スーフィズムや老荘思想、空海の思想(cf. 第5講)等は共通するといえよう。
第7講
本来死後の世界は生者には語りえぬものであるが、中世初期までのヨーロッパでは、弔いと法要が天国に行く上で重要であるとされ、日常生活に死者が入り込む結果、語りえぬ死後の世界を語る試み(e.g. 幻視)がしばしばなされた。しかし、カロリング=ルネサンス以降、死者の救済は自助によりなされる(但し、これは原始キリスト教の教えに合致する。)という、ある種の個人主義が隆盛し、弔いや法要が重視されなくなると、日常生活で死者・死後の世界を思い起こさなくなり、それらは語りえぬものとして、生者の世界から断絶されていった。
第10講
フェルメールの『手紙を読む女』と、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻』が、視線の交錯に着目した作品であり、金子光晴の詩たる『うれひの花』も同じであるとのこと。
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