青春の終焉

著者 :
  • 講談社
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感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (488ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062107808

作品紹介・あらすじ

伝染病のように広がった青春という現象から三島、漱石、小林秀雄、ドストエフスキー、大宰らから滝沢馬琴へ遡り、村上龍、春樹まで世界の小説の"真相"を突き止めた。

感想・レビュー・書評

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  • 大学生の頃から興味はあったが尻込みしていたのを、数年越しにようやく読んだ! 自分の成長を感じる……

    1960年代に全盛を迎えた「青春」概念の実態について、文学作品の批評を中心に、政治や経済や哲学や社会にも言及しつつとにかく雑多にパワープレイで取り組んでいる。

    20世紀初頭の花袋とか太宰とか小林秀雄とか(&ドストエフスキー/バフチン)を論じていた前半はともかく、さらに時代が遡って近世や中世の落語や戯作、連歌を論じる後半はこちらの知識と興味が無さすぎてキツかった。終盤の数章で持ち直したけど。

  • ふむ

  • "街に満ちあふれていた青春という言葉が「1970年をまたぐと同時に萎んでしまった」! どうして?確かにそのように思います。著者も私も自分が青春期を過ごした1960年代へのこだわりがあります。安保・大学闘争には世界は変わるというロマンがあり、「青春」が光芒を放っていました。70年代に入ると、「青年」は「若者」と呼び替えられ、「青春」は終焉してしまったとの主張。難解な本ではありましたが、理解できる部分を読むだけでも自らの過去への挽歌として説得力がある素晴らしい本でした。「青年」はYMCAがユースを「青年」と翻訳した1880年に始まり、「青春」は1905年に小栗風葉が『青春』を発表してから。そして、青春が文学のテーマとなったのは、藤村、独歩、透谷からで、漱石の『三四郎』、森鴎外の『青年』に至って小説の最重要主題となる。それまでの「青春」は流行語にすぎなかったが、大正から昭和にかけて、「座標軸に、すなわち人生の基準」に転ずる。その転換を演出したのが小林秀雄だとのこと。「青春」を主題軸として15章、日本文学史が、近代の世界史が解かれる。小林秀雄、ドストエフスキーから馬琴の八犬伝に遡り、またマルクス、ルカーチ、エリオット、サルトルそして、大江健三郎、村上春樹、なんと鉄腕アトム、少女漫画にまで至る。そして「青年」の時代から今は「少年」の時代なのだ、そうです。

  • 三浦雅士の文章は読みやすい。高いところから、「これでどうだ」という風に高説を垂れるという感じがない。一例をあげれば、誰もが感じるであろうことを言うときにはわざわざ「気が引けるのだが」と前置きをしてから語りだすというようなところに、著者の人柄が感じられ、身構えずに本に向かうことができる。500ページもある本書を息つく暇もなしに読み終えてしまった。

    読み終えて、ふうっとため息をつき、「おれも青春していたのか」と、苦笑してしまった。何事にあれ、その渦中にいるものには事態は分明ではない。そこから離れ、距離をおくようになってはじめてそのものの姿は明らかになるのである。とはいえ、自分にとっての所謂「青春時代」が既に遠く過ぎ去ったことを言おうとしているのではない。日本近代文学の話である。文学だけではない、「芸術も思想も、いや学問さえもが若さに酔っていた」。世界中が「青春」を謳歌していたのだ。少なくとも60年代までは。

    柄谷行人に『日本近代文学の起源』という著書がある。あとがきに倣っていうならそれは「日本」「近代」「文学」の「起源」についての考察であった。括弧をつけたのは、批評の対象がはたして自明であるかどうかを疑ってかからなければ「批評」など成立しようがないといった意味である。現象学的還元ともいうべき柄谷の姿勢は書かれてあった内容とともに鮮烈な印象を残した。『青春の終焉』にも、それに似た思いを感じさせられた。「青春」にもまた起源があったのだ。起源がある以上終焉もまたある。生まれたものは死なねばならない。それが自然の摂理というものである。

    括弧を付されているのは青春だけではない。「故郷」も「教養」も、その起源を明らかにされていく。何ゆえ、起源を問うのか、という問いにはマルクスの「ラディカルということは、ものごとを根本からつかむということである」という言葉が用意されている。「ラディカルの語源は、ラテン語のラディクス、根、である」。急進的という意味はそこから派生してくる。そして、人間が人間らしくあるためには根源的にならなければならず、それは急進的にしかありえない、といういかにも青年好みのテーゼが、若きマルクスの声として響いてくる。

    起源を問えば、それまでの権威は覆され、価値は転倒する。ここでも、多くの権威がひっくり返されている。「日本近代文学は青春という病の軌跡にほかならない」というのが、本書の主題であるが、その視点から眺め直したとき、これまで考えられていたようには明治維新はそれ以前と以後を切断していない。逍遥によって否定された馬琴や、子規によって無視されることになった香川景樹が精緻な分析のもとに新たな相貌を帯びて浮かび上がってくる。バフチンのドストエフスキー論を接点とし、小林秀雄と対比されることにより、太宰の「道化」が裏返しの意味を持って迫ってくる。

    それにしても、だ。あれほど光り輝いていた「青春」という言葉の凋落ぶりはどうしたことだろう。著者は言う。根源的であるというのは、「失うものは何もない」という立場に立つことである、と。今あるものを土台から根こそぎ破壊し尽くした後に来る解放感への期待が、青年にその立場をとらせる。大江にまではあった、その意識や感情が村上春樹にはない。「失うものなど何もない」という意識が何の意味ももたない時代がきたのである。副題に「1960年代試論」とあるが、さすがに三浦雅士。常套的に60年代をノスタルジックに語ったりはしない。60年代に終わりを告げることになった「青春」という特異な時代の病理についての、文芸評論の形を借りた、これは優れた考察である。

  • わが三浦雅士は、本書『青春の終焉』のあとに『出生の秘密』(2005年)を書き、そして、それに連なるさらなる衝撃的問題作を、ちょうどいま文芸誌「群像」で連載中で、それは「孤独の発明」という、奇しくも1982年に書かれたポール・オースターの小説と同じタイトルですが、小林秀雄論を書いています。

    青春も青年も、明治20、30年代(1887年から1906年)の日本文学を覆った流行語であって、青年という言葉は北村透谷や国木田独歩が実質を作った後に夏目漱石の『三四郎』や森鴎外の『青年』を誕生させた。そして大正時代の白樺派やそれに連続する太宰治や小林秀雄たちは、漱石・鴎外などの作った青春というシナリオどうりに実人生を生きた。

    その自己意識のドラマを告白することが近代文学ということであり、その挫折と劣等感の深さがイコール近代的自我というものだった云々、ってなことを彼一流の博識を駆使して手品のように縦横無尽に展開していて、いやあ、もう、超面白くてますます好きになってしまいました。

  • この本は、もう少し話題になってもよいと思う。

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著者プロフィール

文芸評論家

「2022年 『ベスト・エッセイ2022』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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