- Amazon.co.jp ・本 (438ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062118491
感想・レビュー・書評
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一読『薔薇の名前』を思い出した。ほかでもない、小説の主題が失われた一巻の書物の探索行であること。それに趣向がミステリ仕立てであること。主人公の探偵役が、世界的に有名な人物に擬せられていること。議論小説のおもむきを持つこと。小説の中に過去の歴史的事実や小説が透かし絵や紙背文書のように用いられ、作品がそれらのパロディ、となっていること等からである。
『薔薇の名前』では、アリストテレスの「喜劇論」の行方を求めて探索行を行うのが、バスカヴィルのウィリアム、つまりかの有名な名探偵シャーロック・ホームズに擬せられている訳だ。ワトソン役はアドソという見習い修道僧。それでは、『輝く日の宮』の場合はどうか。世界初の長編小説『源氏物語』の「桐壺」と「帚木」の間に置かれていた「輝く日の宮」の巻をめぐる謎、とくれば、相手にとって不足はない。しかし、名探偵となると、ホームズの相手が務められるほどの人物はなかなか思いつかない。ま、それは後のお楽しみとしよう。
書き出しから読者はむんずと襟首をひっつかまれる気がするだろう。「花は落花、春は微風の婀娜(あだ)めく午後(ひるから)」括弧内はルビである。のっけから鏡花張りの文章が何ページも続く。『高野聖』を下敷きにした鏡花の文体模写で綴られるのが、主人公の若書きの短編小説と分かったところから本編は始まる。今は大学助教授となった杉安佐子は学界の定説を気にせず、次々と新説を発表する。そのことが、周囲と軋轢を生み、物語を先に進める原動力となる。アカデミズムに巣くうセクハラや、企業の人事交代に纏わる内幕の暴露というゴシップネタを使うのは相変わらず。ご都合主義とも思える偶然の多用、年表まで用意して世相史を転綴する等、娯楽小説の大道を踏み外さない。
しかし、それだけではない。たとえば作中紹介される安佐子の論文。芭蕉の東北行が御霊信仰(お得意の)に基づく義経没後五百年の年忌を思い立ってのことであったとする「芭蕉はなぜ東北へ行ったのか」や、徳田秋声の小説内の時間処理における為永春水の影響を論じた「春水と秋声」(上手い題だ)など、どれ一つ採り上げてもそれだけで一編の題材となる文学評論が惜しげもなく開陳されている。だいたい丸谷という人は、この手の新説を考えるのが好きな人で、御霊信仰によって忠臣蔵を解説した『忠臣蔵とは何か』をはじめとする文学評論の書き手としての顔と小説家としての顔の二つを持つヤヌス神のような存在である。
だいたいがこの作品自体が『源氏物語』のパロディになっている。学者の父を敬愛するヒロインは、若い頃から文才を発揮し、今では19世紀文学の研究者として知られている。離婚歴を持ち、独身で文学研究に余念がない。その安佐子が、ローマに向かう機上で偶然邂逅するのが、後に一流企業社長になる長良豊。企業の社長程度を道長に喩えるのはちと苦しいが、安佐子が紫式部に擬せられている以上、詩に堪能で色好みを地でゆく長良が時の権勢をほしいままにした光源氏のモデルとも言われる藤原道長でなければならないだろう。「輝く日の宮」欠損の謎を追う安佐子がホームズ、長良がワトソンというわけだが、週刊誌の依頼で欠損した一巻を書く案佐子が次第に紫式部と重なっていく末尾は現代語訳された「輝く日の宮」の章で終わる。見事な構成というべきであろう。
この作者が常々、日本の近代文学に不満を漏らしていたことは今さら言うまでもない。曰く風俗を書くことが軽視されている。曰くむやみに深刻ぶって重苦しい。等々。しかも、ただただ不満を言うだけでなく、自ら積極的に打って出て実作をものし、そういう肩肘張った日本文学界に対して「たった一人の反乱」を繰り返してもきた。それは、一人の物書きの中に、批評家と実作者を兼ね備えた人格を同居させる訳で、書かれた物が一筋縄ではくくれないものとなるのもまた、やむを得ないものがある。もちろん、作者がかねがね言うように、小説といういれものは何でも飲み込める容器であり、その中に笑いと知性による社会批評、文明批評の含まれたものが、正統的な近代小説というものでもある。そういう意味で、この本は、イギリス小説を規範とした近代小説の正統につながるものであり、大勢の読者を獲得し、極めて日本的な題材を駆使して書かれながら、日本文学の中ではいつまでたっても正統に位置づけられることはあるまい。それは、作者の罪ではない。むしろこういう言い方を丸谷が好むとは思わないが、栄光ある孤立とでも言うべきものではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
金大生のための読書案内で展示していた図書です。
▼先生の推薦文はこちら
https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=18358
▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BA62462960 -
「源氏物語』の中で失われた『輝く日の宮』の帖を鍵にしているものの、それを巡る小説。全体の構成としてもフィクションが新たなフィクション指し示す重層構造になっていてどの部分でも深読みできる強靭さを備えているし、芳しい文体だけでも、まあ、登場人物の魅力でも楽しむことができる。
ブクログの中で『薔薇の名前』との近似性を取り上げた評者が居られて、膝を打つ思いだった。 -
エッセイ講座で文章がうまいと紹介された丸谷 才一の本を読んでみよう。
出だしは、登場人物が書いたという設定の短文。
これはおもしろい! これなら分厚い小説も一気に読破できそう。
と思ったら、その後は全くつまらない。 途中で止めました。
また縁があったらエッセイを読んでみよう。
2013/02/24 予約 3/3 借りる。3/20 読み始めたが、途中で止める。
内容と目次は
内容 :
源氏物語を巡る、10年ぶりの書き下ろし小説。
美人国文学者が水の会社の役員との恋愛を経ながら、失われた源氏物語の一章の謎を解く。
6章全てを異なる形式、文体で描き日本文学の可能性を極限まで広げた傑作。
著者 :
1925年山形県生まれ。東京大学英文学科卒業。作家。
著書に「新々百人一首」「思考のレッスン」「闊歩する漱石」など。 -
輝く日の宮とは「源氏物語」においてかつて存在し、が何らかの理由で失われてしまった帖の名前である。いくつか説があり存在していたがなくなった説(なくなった理由も諸説あり)、存在しなかった説、存在したが藤壺など現存する帖の部分の別名説などなど諸説が乱立している。(以下ネタバレ部分があるので読もうとしている人はお気を付けを)
今回読んだ小説は「輝く日の宮」を題材にした壮大な小説である。
主人公杉安佐子は現代文学を研究する国学者なのだが親の影響で古い文学にも造詣が深い。ある幽霊を語るイベントで成り行きから以前メディアで少し語った「輝く日の宮」存在説を披露することとなる。しかしその場に彼女に恨みをもつ源氏研究者の女性学者がいたことから大論争となり、結果その学者から存在を確信しているなら小説という形で「輝く日の宮」を創造し、世に問うてみてはという投げかけがなされることとなる。
安佐子は様々な恋愛の末、会社役員の長良豊と付き合っているが彼に励まされたり、彼女がプロポーズをするが断られたのに彼の社長就任の際に逆にプロポーズされるが今度は断るといった面白い大人の恋愛模様を重ねながらも、論争を知りその企画を面白く思った出版社からのオファーを受けたかたちで「輝く日の宮」を完成させるといったストーリーだ。
まず主なストーリーとは関係ない主人公が若かりし頃書いた小説から始まるのだが、このエピソードが面白くて小説に引き込まれる。加えて後半の物語展開の要所要所で使われているとい著者の構成力がまず凄い。
上に記したストーリーの中で安佐子が語る源氏物語の成立過程に関する考察が学術書かと思わされるくらいち密で諸説を研究あn空くしアッ枯れているのが伝わってきて、おもしろさに加え源氏物語に関して大きく勉強になる作品である。凄いのは源氏だけではなく泉鏡花、西行、芭蕉に関しての物語の中で語らえる内容が著者の古典文学の素養の高さがわかり、いろいろな箇所で驚かされること必至だ。
そんな本当に破綻なく巧妙に作りこまれた推理小説のようでかつ、古典文学の成立の歴史を学ぶ事ができる素晴らし小説を読むBGMに選んだのがKeith Jarett Standards Vol. 1 and 2だ。いつ聞いても素晴らしいアルバムだ。
http://www.dailymotion.com/video/x15wd9x
久しぶりのお勧め小説です。 -
これは小説です。だからいいのです。玄太郎の科白「さうだよ。証拠が必要だ。小説家はいいよ。やはり学問は窮屈だ」でそういう理由でこれは小説という形なのだとそこで納得した。学者の論文としてよりも小説家の小説の中で論じたほうが自由で楽しい。読者としても論の中に入りやすい。しかし源氏関連本として読み始めたが、冒頭は小説中の小説だし、その後は芭蕉だし、小説なのか論文なのかつかみきれないまま中盤へ。輝く光の宮のあたりから俄然おもしろくなってきた。
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『源氏物語』の欠損した章の謎をめぐる文学史小説。
第31回泉鏡花文学賞受賞作。
『源氏物語』幻の巻として実在性が問われる、「輝く日の宮」。
その内容と成立、喪失の経緯について、主人公の国文学者は想像力を駆使して独自の論を展開する。
閉鎖的な学会において果敢に自説を唱える彼女の奮闘と、私生活での男性遍歴が交錯しながら、物語は進む。
作品全体の形式や文体も、実験性に富んでいる。
通常の三人称小説、歴史と虚構がミックスした年代記や戯曲形式など、章ごとに異なる表現方式が採られ、作中作の二重の輪の外部に語り手の存在を匂わせたりと、何層もの世界観が重複する。
紫式部の人物性を彷彿とさせるような属性を持つ主人公は、推論と考証を重ねた果てに、やがて、式部と同化するかのような境地に達する。
終盤、「輝く日の宮」は復元されて提示されるが、率直な感想としては、その章はまるでミロのヴィーナスの腕を連想させる。
それは『欠損してこその美しさ』であり、全体の完成度よりも、空想をもたらす余白の偉大さとも言えるのではないだろうか。 -
まず、和田誠の装丁が気に入りました。
源氏物語についてほぼ知識のないわたしでもぐいぐい引き込まれ、源氏物語を誰の訳でもいいかた一度は必ずよんでみたいとおもった。先を読みたくなり一気に読んでしまった。